2-9 純粋なる欲望
白い神官服。最上位の衣は白の中の蒼が清廉さを現わしている。その衣を纏う大司祭は優美に微笑んで、ライゼだけを見つめていた。
「私の王よ」
「お前のものになった覚えはない」
「今から私のものになるわ」
動かす指はまるで心臓を抉り出した時のように爪を立てた。こうしてこの女は何人もの民を、ステルラを竜になれなかった者にしていった。
「なぜだ」
「そうね、まずはこの国の司祭にあの研究施設が受け継がれてゆく仕組みを呪うべきね」
シャオムはゆったりとした耳に心地良い声音で語り出す。神の御心を説く時と同じ神聖さを持って。
大司祭を輩出する一族は決まっている。ラーゼン一族。
シャオム・ラーゼン。彼女はラーゼン家で司祭となるよう定められ、幼い頃から司祭としての教育を受けてきた。フルゲオクルスでは神の啓示を受けるには女性でなければならないのだ。
そして大司祭の継承の儀が行なわれると同時にこの研究室も受け継ぐ。
王と大司祭の名の下に。
秘された伝統だった。王とてここに何があるか知っていても、司祭が頻繁に儀式をしていたことなど知る由もない。継承される鍵も指輪も、もう随分前から封印のためのものでしかなかった。
だがシャオムに継承されてから変わった。彼女は幼き頃から、神に愛され王妃に愛され続けた竜に魅せられていた。どのように美しい生き物なのか。神殿に奉られている彫刻をいつまでも眺めていられた。石棺に寄り添い、姿を現わさぬ王を夢想しながら語りかけた。
だから封印を解いた。竜に逢うために。
「私はあなたを愛しているのです」
ライゼに向けて恍惚と手を差し伸べる女は、まるで彼に恋をしている少女のように頬を紅潮させ微笑んでいる。
「それがなぜ“闇”を作り出すことになる」
「竜が欲しかった。とても純粋な想いですわ。せっかく先人が用意してくれた研究室が今は埃を被って忘れ去られた過去の遺物だと知った時の私の気持ちがわかって?」
「いいや」
重く答える。横にいるブルタールが俯いたままぶるぶると震えている。ライゼがその手を掴んで、今にも飛びかかりそうな男の理性を繋ぎ止めている。彼とてこの狂気に満ちた女の言い分を聞くべきだと理解していた。
だがそんなことよりも怒りが先んじる。彼女の言い分など聞いても正気ではないとしか思えない。
「私は落胆いたしました。なんと先代たちは愚かなのだと。けれど歓喜もいたしました。なんと素晴らしいものを遺してくれたのでしょう! これで恋焦がれた竜を私自身の手で創れるのです。私だけの竜を!!」
「そんな、そんなことのためにステルラを化け物にしたのか! 貴様!!」
「ブルタール!」
「放せ! なぜ止める! 王の名の下にこいつを殺す!!」
それでいいのだろうか。滅すればそれで終わる。恨みが晴れる?
シャオムが身体を反らして高笑いを響かせた。
「本当に王女様も民草や神官たちも全く無意味に成り損なってしまわれてお可哀相でしたわ」
「なんだと!」
「だって完璧な竜がいらしたんですもの。成り損ないでも私にとっては可愛い子たちだけれど、やはり唯一無二の王の存在の前には全てが霞みますわね。私は幸福です。こうして王を私のものにできるのですから」
「この悪魔めええぇ!」
ライゼの手を振り払ったブルタールは剣を構えて走り出した。
「待て!」
ライゼの制止などもう聞こえてはいない。真っ直ぐに憎しみを抱えて目の前の魔女のような女を貫くことだけを考えている。
シャオムも動いた。たっぷりとした袖の中を探り、ポッドを掴み出す。中身は、心臓だ。蓋を開けて逆さにし液体が零れ落ちるのも気にせず、手のひらに黒い心臓を落とした。
「どうしてあの子たちから心臓を抜くかわかる?」
手のひらに握られた心臓は脈動している。シャオムはそれを強く力を込めて握り締めた。
「『心』を支配してしまわねば竜は反抗するのよ」
シャオムの影が揺らめいた。歪んで、伸びて、立ち上がる。ゆらゆら揺れる影にライゼは眉を寄せる。あれは“闇”だ。何度も斬ってきた竜に成り損なった者。
違うのはシャオムの手によって従属させられている点だ。握り潰されそうになる心臓に“闇”は呻いて、飛びかかってきたブルタールをなぎ払った。黒い腕が男の身体を弾き飛ばす。
「ブルタール!」
壁に激突した男から返事は返ってこない。もう四の五の言っている場合ではない。ライゼも黒い剣を抜いた。
“闇”がざわめいた。
「あなたの『心』も私に頂戴」
「俺は誰のものにもならない!」
影が一気に広がり、王を取り込もうと上からも下からも覆う。
だがライゼは黒剣を軽く振るう。それだけで耳障りな音を発した“闇”は怯み下がる。
「あら、あなたはずっと神のものだった。それに今は王妃のものでしょう? 少しの間だけ私のものであっても問題ないわ」
影は陽動。シャオムは滑るように素早くライゼの懐に踏み込むと、隠していた短剣を心臓目掛けて突き立てる。ぎりぎりで身体を逸らしたが、避けきれずに腕を掠める。
思わず膝をついてしまいそうになった。傷自体は大したものではないのに、裂かれた部位から力が抜けるような。傷口から呪詛でも塗り込まれたような不快感が一気に全身を駆け巡ったのだ。
「あはははっ、やはりあなたは竜なのね! この剣は竜を殺すためのものなんですって!」
怯んだ竜をいたぶるように女は何度も短剣を振り翳す。赤く温かい血が飛び散り、司祭の神聖な衣を染めた。
「あなたが不滅の肉体を持っているというのは本当なのかしら? どんなに傷つけても死なないの? 痛みはあるのね? もっとその綺麗な顔を歪ませて頂戴。私のために!」
ライゼは痛みに顔を歪めた。肉体の痛みではなく、罪悪感による痛みだ。この女が狂気に支配されるようになったのは竜という存在に魅せられてしまったからだ。言わばライゼのせいだ、と彼は考えてしまう。
この国はおかしい。それは滅亡という運命を抱えているからなのか。神話に支配され続けたせいなのか。
どちらもだろう。
どうすれば正せる。
正す? 自分が原因なのに?
「ライゼ!」
彼の名が通り抜けた。初めてあいつが呼んだ。
「なにぼさっとしてやがる! 殺されてやるつもりか!」
ブルタールの怒声が突き抜ける。
殺されてやるつもりはない!
反射的に反応したライゼの剣は僅かな手応えで確かな反撃を加えた。ぼとり、と嫌な重みのある気配が落ちて、彼の頬を人間の赤が濡らした。
でも、なぜ、人間なのに腕を斬り落とされてこの女は悲鳴を上げないどころか笑っている。短剣を持っていた腕を失くしたシャオムは喉を鳴らすように笑いながら後退る。
再びブルタールがシャオムに向かっていく。
彼女は残っているほうの手で支配していた心臓を眺めた。恍惚と。悠然と。
「シャオム! やめろ!」
三人の行動が錯綜した。
ブルタールの剣が飛び込んでくる寸前に、彼女は黒く脈打つ心臓に歯を突き立てて、むしるようにその固くこわ張って、生きている肉を喰らった。
“闇”が彼女の前に立ち塞がり、ブルタールはまた弾かれるまいとして飛び退いた。
「惜しむらくはあなたの瞳が宝石と見紛う金ではなかったこと。どうしてなのかしら。少しがっかりよ」
心臓を一口喰うと切断された腕の断面に影が纏まりつき、あたかも生えてきたかのように補填されていく。そうしてその黒い腕で今度は瓶を取り出した。竜の血の入ったあの小さな瓶だ。血の量はもうあと少ししかない。
「でもいいわ。私とあなたで完全な竜へと転変しましょう!」
「何を、言っている?」
「あなたの血をこの身に注ぎ、あなたの肉体を喰らって、一体となるのです」
「俺の血、だと? それが俺の血だって言うのか? 馬鹿を言うな! だってそれじゃあ……」
ステルラを、民を、“闇”へと変えたのはライゼの血。
「これを授けて下さった方はおっしゃっていたわ。あなたに逢えたら右胸、心臓の辺りを見るといいって。あなたが石棺から現われた時の神々しいお姿……私はすぐにわかりましたわ」
ライゼはすぐに上着を開き確認する。傷ひとつないなめらかな肌。あまり血色が良いとは言えない胸筋の上に赤い魔法陣が刻まれていた。円形で心臓を茨で囲うような、何者かに囚われている気になるしるしだった。何を意図してのものか。血を抜くのだ。「誰のものでもない自分でありたい」と思う竜に、これは不快感しか与えなかった。
誰がどうやってだとかそんなのは知らない。でもこれが彼の血を抜いて、ステルラたちを化け物に変えた。
「ああ……あ、あ……」
“闇”が力を持つ。
シャオムはライゼの心が砕けてしまいそうなのを眺めながら王の貴き血液を一気に飲み干した。
すぐに異変は現われた。
女は甲高く嗤う。
すでに“闇”を取り込んでいた肉体は彼の血液に馴染むのも早かった。影がシャオムの身体に纏わりついて黒い塊となる。飲み込まれた、としか思えなかった。息を飲んで見守る。
揺らめいて煙る影が落ち着きを取り戻し、人の形に戻っていく。シャオムは竜への転変を成功させた?
そうではないことはすぐにわかった。
「おにい……さ、ま」
「ステルラ!!」
たった一言。それも掠れてしゃがれた声だった。
だけど、そこに、彼女が見えたのだ。兄には。
「ブルタールよせ!!」
黒い影はシャオムではなくステルラを形取った。小さくて折れそうな四肢とふんわりとなびく髪。優しいまなざし。影でしかなくとも、それはステルラの面影を残していた。
だから兄は駆け寄る。
シャオムが喰らったのはステルラの心臓だ。高貴さと本物にこだわる彼女は民と一体になる自分は許さなかったのだろう。従えた“闇”は王女のもの。妹の姿で兄を惑わし、ブルタールが妹を抱き締めようとする背を貫こうと影がひっそりと狙っている。
「ああああああっ!!」
ライゼは叫んだ。不条理を飲み込むために。
竜の血。王の血。いいや、ライゼの血を分けた――。
感情が沸騰して飲み込まれてしまいそうだ。怒り。絶望。悲哀。負の熱が彼の肉体を動かす。
走り出す。殺気が満ちる。これは生きる力だ。生かすための。
「これはステルラじゃない!」
ライゼはブルタールを突き飛ばした。黒い影を黒い剣が貫く。
“闇”は泣いた。少女がするように顔を手で覆い、すすり泣く。
「ライゼ!!」
だが“闇”は決して人には戻らない。
もうシャオムでもステルラでもない竜の成り損ないは、王であるはずのライゼの胸を貫いた。




