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2-8 天使の咆哮



 声を荒げるブルタールとは違い、ライゼは気分が悪くて仕方がなかった。

「これは……」

 ウーアは言っていた。竜の成り損ないは城で作られたと。

 厳重に閉鎖された王族も知らない地下の研究室。この国には有り得ない高度な魔法技術。筒状の硝子ポッドの中に満ちている緑色の液体に浮かぶ、あれは。

「竜に成り損なった人間だ……」

「なんだよ、それ」

「“闇”と同じものだと思う」

 まだ“闇”になっていないだけなのか、それとも人の手で作られた成り損ないはあれとは違うのか。

「どうして“闇”が城にあるんだよ……王は、兄上は知っていたのか?」

 ライゼは首を振ることしかできない。

「竜を創り出すために実験していたらしい」

「何のために……」

「神への贖罪」

 自分で言った言葉なのに果てしなく馬鹿馬鹿しく思えた。

「お前たちは神なんていると本気で思っているのか」

 これは神話を成り立ちとし国を興したと信じている者たちの全てを否定する問いだ。それでも聞かずにはいられなかった。

 神とは何だ。

 居もしないものに捧げる対価としては大きすぎる犠牲だ。得られるものは何もないのに。

「あんたが神のものだっていうなら神ってのはいるんじゃないのか」

 ライゼの存在が彼らの信じてきた伝承を裏付ける。ブルタールはそう言いたいのだ。

 そうしてまた彼は最初の疑問にぶつかる。

 俺は何だ、と。

「……俺は、誰のものでもない」

「どっちでもいい。神だろうが竜だろうが、オレはこの国を壊されたくないだけだ。なのに、なんで国が人を壊すことをしている……?」

 二人で問答していても答えは出ないとでも言うように、研究室にぞろぞろと神官がやってきた。ポッドの部屋を通りすぎ、奥の硝子に隔たれた、あれは実験室? 何台もの手術台がある隔離された部屋へと入ると、神官たちはそのひとつを囲んだ。

 彼らは何かを待っている。すぐに何かが運び込まれてきた。数人で運んでいる大きな箱。まるで棺に見える、それの後ろからついてくるのは司祭であるシャオムだ。

 箱が目の前を通り過ぎた瞬間、ブルタールは声を震わせた。怒りが沸き上がってくるのを押さえきれない様子で運ばれていく箱に駆け寄る。

 厳重に張りつけられたはずの木の蓋が乱暴に思える手際で剥された。

 途端、ブルタールは剣を抜いて蓋を開けた神官のひとりを斬り払った。彼はその棺に見覚えがあったのだ。

「やめろ! 貴様ら手を触れるな!」

 彼の怒りはどこにもぶつけることは叶わずに、神官たちは箱の中身を取り出した。

「やめろって言ってるだろ! 何したんだ! ステルラに触るな!」

 剣は幻を斬る。過去である彼らに何の影響も及ぼさない。

 箱は簡素な棺だ。中に寝かされていた王女は神官たちの手によって、冷たい金属の台座に移された。綺麗に化粧を施された少女の顔には血の気はなく、目を凝らして見ればあちこちに残っている傷が白粉で隠されているのがわかる。

 これは亡骸だ。

 妹は葬儀のあとに埋葬されたはずだと兄は半ば狂乱して剣を台座に叩きつけた。その上で妹の遺体を囲む異様な光景は勝手に進んでいく。

 この錯綜した雰囲気に似合わぬ高らかに鳴り響く靴音はシャオムのものだ。

「高貴なる王女は我らの聖女となられるでしょう」

 まるで今から行なわれることが神聖な正義であるかのように彼女は仰々しく両手を広げ天を仰いだ。そして宙に神の御印を描き、両手を組んで祈りを捧げる。神官たちもそれに倣い黙する。

 ひとりが司祭の前に恭しく小さな台座に載せられた瓶を掲げた。彼女は瓶を受け取り、祝詞を詠み上げる。瓶の中には赤黒い液体が入っていた。

 ライゼは再び息苦しさに見舞われ、喉元を押さえた。ブルタールは触れられぬ妹の前で膝をついてうなだれている。

 シャオムが何をするのか。どうするのかはわからなくとも結果は推し量れる。

 彼らはステルラの痩せた鎖骨の見える襟元を開いた。真っ白な肌は元々の白さもあるが、死人としての生気のなさが際立ったものだ。

 シャオムに儀式用の短剣が渡される。鞘を抜く。筋肉が硬直し、すでに固くなった肌に差し込む。血は当然もう流れない。心臓の辺りを抉る。いたいけな少女の亡骸が切り刻まれていくことに堪えられないブルタールの悲痛な叫びが冷えきった研究室を支配する。

 ライゼとて死してなお辱められるステルラが憐れで怒りが沸き起こる。だがそれよりも動悸が治まらず、手術台に寄り掛かり身体を支えて彼らの行為を見守るのが精一杯だった。

 乾いた心臓が現われると司祭はそこに瓶の中の液体を一滴だけ、慎重に垂らした。

 赤黒い液体。独特の匂い。

 血だ。

 あれは竜の血なのだと直感が知らせた。

 心臓に垂らされた血が闇に溶けるように染み込んでいくとわずかに黒い靄が立ち上ぼる。

 ライゼは喉が渇いて仕方がない。張りついた喉を鳴らそうとして、自分がとても緊張していることに気がついた。

 幾許かの無音の時を経て、唐突に事が進行した。同時にブルタールが彼女に縋って名を呼んだ。

「ステルラ!」

 黒く染まった彼女の心臓が、中身を剥いたまま脈打った。

 まさか。きっとただの一度、何かの拍子に。

 信じたくはなかったから目の錯覚だと、幻覚だと思おうとした。

 でも王女の小さな心臓は生きているかのように、確かに、力強く鼓動を繰り返し始めたのだ。

 どくん。どくん。それは良くないことが起こる前触れのような音をさせて。

「う……あ、ぁ……」

 絞り出される声はもはや可憐な少女のものではない。軌道を抜ける空気が苦しげな音を作り出したにすぎない。腕がみしみしと骨を軋ませ、不安定に宙を掴もうとする。

「ぎぃゃあああああぁ!」

 突如叫んだ。それまで緩慢だった動作に痙攣が加わり、身体を反らせ、台座の上で激しく身悶えた。皮膚を突き破る音がする。骨が折れる鈍い響きが研究室を反響した。

 もうブルタールを直視してやることはできない。顔を覆って、変わり果てた妹の前で丸くなって泣いていた。

 ステルラの背中を突き破って骨が張り出す。黒い皮膚に覆われたそれは彼女が悶え苦しみながら羽ばたき、骨を広げた。これは翼だ。竜の。

 片翼しか生えてこなかった。真っ黒い翼はぴったりと張りついた皮膚が骨張り、歪にしか羽ばたかない。

 翼ばかりに目を奪われていたら、いつの間にか彼女の肉体の皮膚も黒く覆われ、鱗とも言えぬ硬いものになった。

 また兄によく似た茶色の瞳が獰猛な輝きを帯びた金に変色していた。髪も綺麗な栗色だったのに銀、いいや、透き通るような銀にはなれずにくすんだ白になった。

 “闇”になった、と言わざるを得ない。

 そして“闇”が人間の手に追えるものだとは到底思えなかった。

 変質したステルラは「ぎぃぎぃ」と人とは思えぬ声を発し、翼を無様に羽ばたかせ、そして目の前の人間たちに牙を向いた。黒い腕が神官の何人かをなぎ払い、正面にいるシャオムに威嚇するように口を大きく開ける。

 司祭はまるで動じた様子はなく微笑を浮かべたまま短剣を翳す。“闇”は嫌がった。ライゼの黒剣と同じ反応だ。それで押さえ込めるのかと思ったら、そうではない。剣は怯ませただけだ。

 次の瞬間、シャオムが素早い動作でステルラの内臓が剥き出しの胸に手を突っ込んだ。心臓を破壊して止めるのか。

 それも違う。

 肉を抉る。動き始めた心臓には血が巡るように黒いものが滴り、その体液がシャオムの指を黒く染める。耳を劈く悲鳴はステルラの甲高い声を連想させ、気がつけばライゼも「やめてくれ!」と叫んでいた。

「どうしてこんなものばかり視せる! もういいだろう!!」

 心臓を抉り出す音。

 兄がすすり泣く声。

 その中で神官たちは当たり前のように眺めているし、ステルラは苦しそうにもがき絶叫している。

 さらにはとうとうシャオムが心臓を抜き出した。黒い血の滴る心臓は抜き出されても生きているかのようにどくどくと脈打った。心臓を無くした身体は力を失ったらしく、どさりと後ろに倒れた。金の瞳は茶に戻り、白い髪は黒がまばらに混じった。ぴくぴく動く足はまだ“闇”が死んだわけではないことを示している。

 どうなった?

 シャオムは神官が用意した小さめのポッドに心臓を容れた。緑の培養液の中でも変わらず脈動している。

「王女は竜への転変を成し得ることができませんでした。かの高貴な血脈でも不能とは嘆かわしいことです。やはりもっと濃い血が必要のようですね」

「ふざけるな! 貴様殺してやる!!」

 司祭の首に目掛け剣をなぎ払ったのはブルタールだ。溢れた涙は乾いてはいない。

 淡々と結果を述べ、後片付けを命ずる司祭に兄は何度も剣を突き立て、斬りつけ、でも何の手応えもないまま、ステルラだったモノは奥のポッドへと収納されていく。

「ああああああああ! これは何なんだ? ステルラは化け物になったのか? こんなのただの幻影だよな? こんな馬鹿げたことが起こるはずない!!」

 ブルタールは何もできずにいる男に縋りついて揺さぶる。何も言えなかった。これが過去ではない可能性とてもちろんある。

 だけど真実である可能性だってあるのだ。そしてライゼが考えるに真実だと思うほうが自然だった。今までの幻影全てが事実であると、誰よりもブルタールが理解しているはずだ。だからこんなに取り乱して現実を受け入れようとしない。

 受け入れられるものじゃない。当然だ。

「いこう。もう視なくていいんだ。終わったことなんだ」

 過去はどう足掻いても変えられない。ブルタールがいかに前向きで苦難を乗り越えた男だとしても、ステルラが死んで“闇”にされたことはもうどうしようもないのだ。

 言ってしまえば知らなくても良かったことだ。知らないほうが良かったこと。

 でも過去が変えられないのと同じく、識ってしまったことも忘れ去ることはできないだろう。忘れたくとも、あまりに鮮明に、残酷に記憶に焼きついてしまった。



「本当に終わったことだと思っている?」

 景色が変わる。

 研究室の広さが一気に広がり、薄暗かった部屋は白い魔法蛍光灯のせいで昼間のような明るさになった。暗がりに慣れた目は激しく刺激されて、視界を数秒奪われる。複数並んでいた台座は消え、壁際に並んだポッドは壊れて培養液が流れ出て、成り損ないが外に転がり出ていた。

 そして二人はだだっ広い金属製の部屋の中で佇む声の主を見つけた。


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