2-4 空に舞う天使
まるで町に置き去りにされた子供のようにライゼは唖然とし、また辺りを見回して叫んだ。
「ウーア! みんなどこだ!」
声は軽く建物に反響し、風の音に紛れて消えた。誰の返事もない。気配も消えてしまった。
懐中時計があることを無意識的に確認し、『門』があったはずの場所を少しの間眺めた。時間差で誰かが現われないかと待った。誰もくる気配はなかった。
これは試練なのだ。待っていてもこないものはこないだろう。
他の者たちが気にかかる。全員がひとりにされてしまったならシャオムが心配だ。この町のどこかにいるなら早く合流したい。
当てはない。仕方なく適当に歩き始める。
町には人がいた。
「こんにちは」
気の良さそうなパン屋の主人に声をかけてみた。
「おや、王様じゃないか。こんなところで油を売ってるとブルタール様に叱られますよ」
「俺を知ってるのか?」
「なーにおっしゃってるんだか。ここはあなたの国ですよ、フルゲオクルス王。あなたのおかげで今日もこの町はこんなに平和だ」
主人は大きなバケットサンドを包んで「お務めご苦労様」と渡してくれた。
王、か。もし本当に王になれたのなら何をしよう。彼らに何をしてやれるだろう。
町の雰囲気はこの国を知らないライゼを楽しませた。明るい人々の喧騒。店に並んだ見たこともない野菜や果物。香ばしさを漂わせてくるバケット。色彩鮮やかな花々。涼しげな噴水と駆けていく子供たち。良い町だ。
知らず笑みを浮かべていた。
バケットをかじりながら町を眺め歩いていた足にどん、と何かがぶつかった。子供だ。
王はすぐにしゃがみ、転ばせてしまった少年を立ち上がらせた。
「すまない。怪我はないか」
「うん、ぼくもよそ見してたから。ありがとう王さま!」
少年は満面の笑みで持っていた花を差し出した。意味がわからず、じっと見つめたままでいる王を子供は笑った。
「あげる! 王さまいつもありがとう!」
「俺に……これを?」
道端に咲く小さな花だ。
「いらない?」
不安そうな少年の頭を軽く撫でた王は微笑んで花を受け取った。
「ありがとう」
「うん! お仕事がんばってね」
輝くような笑みを見せて少年は元気に走っていってしまった。その背に「また転ぶなよ」とライゼは小さな花の香りを嗅ぎながら嬉しそうに言った。
城から出る暇もなくあんなことになり、フルゲオクルスがどんな土地なのかも知らなかった。とても暖かい雰囲気の気持ちの良い町だった。
町はあの後どうなってしまったのだろう。あの“闇”は町までいってしまったのか。
ここはきっと町の現状ではない。『門』の先での試練なのだ。今までと同じ、どこでもない作られた空間。
そう思うと走り回る子供を微笑ましく見守ることなどできなくなった。早く試練を終え、彼らに平穏をもたらさねば。
路地を歩いていくと、昼と夜の境目を踏み越えた。唐突に地面が暗くなり、見上げれば夜の闇に包まれていた。振り向けば、一歩後ろは昼の町がある。
そのまま進み続ける。変化があるということは進むべき方向なのだろう。
昼間とは違い、暗い町中は足音だけでもよく響いて不気味さを強調させる。
いいや、それだけではないと彼は感じていた。
ライゼの感覚はいやに敏感だ。空気を伝う何かや、匂い、音。全ての五感、否、六感を総動員しているとしか思えないほど遠くのことや見えないものを感じることができる。目覚めてから当たり前すぎて気がつかなったが、これも『竜である』ということか。
そして徐々に近づいてくる気配があることも当然知覚していた。
彼はひどく眉を寄せて息を深く吐いた。
“闇”だ。
斬らねばならないのか。
そうだ。ここは作られた空間。偽り。虚構。
恐れることはない。
“闇”は影のように地面を這い、蠢き、流れる雲のごとく足元に迫った。
だが予想に反して影はライゼに見向きもせず通り過ぎた。驚き、視線はそのまま“闇”を追った。
夜と昼の境目に向かっている。
あれは夜を越えられるのか?
疑問はすぐに答えを得る。
“闇”は夜の境目を広げるかのように引っ張って昼を押し込んだ。昼が夜に浸食されていく。明るかった町が“闇”に包まれる。
喧騒が消える。風が冷える。匂いが――。
ライゼは“闇”を追って走り出した。
ダメだ。待て。やめろ。
何を恐れる。
ここは虚構だ。
わかっている。
わかっていた。
でも。
音はなかった。
違う。音、じゃない。彼が想像したのは悲鳴。断末魔。
それは聞こえなかった。
水の音がした。
水も、違う。
あれは内臓の音。
伸びていった影はパン屋の主人の前で黒い布を翻すよう立ち上がり、“闇”を広げた。まるで抱き締めるように。
ごり。
“闇”に飲まれた人間は一瞬のうちにひしゃげて、首が予期せぬ方向に曲がりぐるりと白い目を向いてライゼに微笑んだ。顔が歪んで唇が引きつったのがそう見えたのだ。
それから血を啜るような音が耳にこびりついた。
“闇”はなぜ人を喰らう。
ライゼがその一点に目が放せないでいる間に“闇”は町の全てを飲み込んだようだ。暖かな陽の光は一切の闇に閉ざされた。自分の存在すら暗黒に溶けてしまったような気になる。
ぬめりとした感触がして、身を引く。手のひらに視線を落として驚いた彼は「うわっ」と声を上げて持っていたものを落とした。持っていたのはバケットと花だったはずだ。
なのにそれらは黒い異様な影になり、ライゼの手に滴るように溶けてこびりついた。まるで血塊の中に手を突っ込んでしまったかのような生々しい温かさと息の詰まる臭いだ。
瞬間的に胃液がせり上がり、吐いた。食べてしまったのだ。あの黒い。
でも吐き出したものに黒い塊はなかった。ただの体液だけ。
何も食べていない。味などしなかったことを『思い出す』
なぜならここは虚構だ。
うなだれたまま動けないでいる男の視界の端で何かが蠢く。“闇”がとうとうライゼを見つけたか。
そうじゃない。
死んだと思ったパン屋の主人が白目を向いて内臓をし垂らせたまま、むくりと起き上がった。
生きて……?
ほんの一瞬だけ、そんな希望とも思えない思考がよぎる。すぐにもっと現実的で最悪な答えに行き着いた。
あれも“闇”になったのだ。
揺らめくように動く“闇”は店主の顔をしたまま歪んだ笑みを浮かべてライゼをじっと見つめていた。
それでひん曲がった腕ともいえぬ影を彼に差し伸べ――。
ライゼはその場から逃げた。
これは現実じゃない。助けられない。
目を背けようとしても背けられないほど町には死臭が溢れた。
城に起こっていたことと同じ。それよりもひどい。
どうしてこんな。こんなものを視せる。
「俺にどうして欲しいんだ、ロルロージュ!」
暗闇の中で鐘が鳴り響いた。塔の鐘。
行かねば。そう思うと視界が歪み、気がつけば塔の下にいた。
「お兄様、わたくし初めて麦を刈りましたわ。それでパンを焼きましたの。皆様喜んで下さるかしら」
ライゼの目の前にいる美しい女性は白く柔な指を傷だらけにしながらも嬉しそうに微笑んだ。どこかで見掛けたことがある人だった。
「ああ、お前が作ったとあらば皆が取り合ってしまうな」
ライゼは自分の手が勝手に彼女の頭を撫でてしまう、と奇妙な感覚に陥った。彼女は「お兄様」と彼を呼び、自分は自分ではない誰かの中から視ているのだと悟った。
「まあ。たくさん用意しましたのよ、お兄様も味見をしてね」
「もちろんだとも」
兄と呼ばれた男はブルタールだった。彼女は彼の妹。クヴァールとブルタールは似ていないが、この二人はよく似ていた。笑うと目元に寄る皺がそっくりだ。
彼女は今まで苦労を知らぬ姫君として生きてきた。だが『兆し』が現われてから気落ちする民や臣下のために率先して働いた。やったこともない畑仕事に勤しみ、材料が足りず粗末にしかならないパンを必死に振る舞い、皆に笑顔が戻るようにと。
「ステルラ」
ブルタールは大切な妹に苦労をかけたくはなかった。
「わたくしは大丈夫よ。それにお兄様が国を立て直そうと頑張っているんですもの。わたくしもめそめそしていられませんわ」
「ああ、必ず元の我らの国を取り戻してみせる。それまでお前はオレの傍にいるんだぞ」
「はい、お兄様!」
あの時はまだ大丈夫だったのだ。だから一刻も早く何とかせねばならなかったのに。
これはブルタールの過去の声だ。後悔と怨嗟に満ちている。
国王が心労と病に倒れた。どんなに心を尽くしても死んだ町は戻らず、城すらも浸食していく“闇”にとうとう心を喰われたのだ。彼らの父なる王は死の淵にありながらも、ずっと民を、国を想っていた。
また、鐘の音が聞こえる。胸にまで響いて震わせる音は不吉を予感させる。そう思ったのはブルタールなのか、ライゼなのか。
陽が高いのに風が生温かった。
――お兄様、ごめんなさい。
耳に残る妹の。
それをかき消す鐘の音。
白かった、擦り切れて薄汚れたドレスの裾がはためいている。
『彼』は塔を見上げる。あそこは国の全てが見渡せんばかりの高所で兄妹は広がる大平原を見下ろしながらよく未来を語り合った。
ほどけた栗色の髪が風に絡まる。
彼女は随分やつれた。父王の時と同じだ。心を喰われている。
それでも兄は妹を支えた。妹も兄を支えているつもりだった。
久し振りに陽の光を浴びた彼女はとても綺麗だった。嬉しそうに笑っているのだと遠目にもわかった。蒼い空に手を伸ばし、まるで白い天使のように――彼女は塔から飛んだ。
天使であれば良かったのに。天に帰りたいのなら帰って良かったのだ。
でも妹はただの力なき人間でしかなかった。
――ステルラはお兄様の言いつけも守れない悪い子です。
天使のように空を舞う。白くて無垢な鳥が羽ばたく翼が見えるのに。
――さようなら。
落ちてくる妹が微笑んだ。兄を見つけて笑った。とても幸せそうに。
鐘の音は彼女が潰れる音はかき消してはくれなかった。
ぐしゃ。無情。無感情。
飛び散った温かいものがライゼの、ブルタールの頬を濡らした。彼はそれを指で触れる。
雨でも降ってきたのだろう?
赤い指。むせ返るような血の匂い。白かったドレスが真っ赤に染まる。
「ステルラ?」
――お兄様。
最期に見せた笑みしか浮かばない。こびりついた残像に繋がるのは赤しかない。
たくさんいた兄弟の中で全部の遺伝子が同じだったのはステルラだけだ。たとえそうでなくとも妹は兄の宝だった。無情な世界でただひとつの。
「あああああああ! ステルラ!! なぜだ!!」
“もういない”
栗毛の幸せそうに微笑む美しい少女はもう絵の中にしかいないのだ。




