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静かに休息をとっていた青年、飛鳥部 諒が目を覚ましたのは、六回鐘が鳴る頃――午前六時だった。
日本なら、六時起きは普通か少し早めなのだろうが、この世界ではそうでもない。むしろ、少々遅いくらいだ。
ここは、魔法に頼って微妙に水準を上げているものの、基本中世文明の世界。
魔法具などの便利な灯りがあるとはいえ、魔力が永遠に続くわけもなく、いつかは使えなくなる。そうなると、また新しい魔法具を買わなければならない。
そう安いとも言い切れない魔法具を無駄遣いしないために、大衆は灯りを節約しているのだ。
必然、「できるだけ日の出から仕事に出かけ、できるだけ日没に帰ってきて就寝する」のが大雑把な生活パターンとなる。
日の出(家を出る時間)が朝五時前後であることを踏まえると、大体庶民は四時くらいに起床している、といった結論に達する。
諒が遅い方、というのはこういうことである。
だから既に、宿の外はがやがやと騒がしい。荷馬車をひく馬の嘶き、露店商の客寄せ、奥様方の噂話――それらが風に乗って流れてくる。
微かに朝食のパンの匂いもしたりして、地味に食欲をそそる。
この世界の家は防音効果に期待してはいけない代わりに人々の活気を感じられる、と言えば聞こえはいいが、慣れた者にしてみればただのBGM、もしくは騒音。
いつも通り和やかに支度して、BGMの中に仲間入りしていくのが異世界の庶民であった。
諒はそんな喧騒を聞き流し、柔らかな所作で寝台から体を起こす。そして、小さく呟いた。
「この時間だと、祐さんはまだのようですね」
外が賑やかなせいであまり聞こえないが、耳を澄ますと、祐は隣の部屋でまだ眠っているようだった。特に音がないのを考えると、あと一、二時間は熟睡かもしれない。
まだ寝ていてもいい気もしたが、二度寝するほど眠いわけではなかったため、霞んだ視界を短時間伏せるにとどめておいた。
三秒目を閉じて、諒ははっきり意識を覚醒させる。
ベッドから足を下ろし、何もない場所でふわっと手を払うと、水属性の魔力を操って作った水盤型の水が現れた。底は支えがないが、初級魔法の水球を応用して半分に割ったものと考えれば、それも納得できる。
ちょうどいい高さに浮き上がっている半球から水を一口飲むと、諒が作り出した水はあっさり消滅した。
自分の魔力で作った水で水分補給というのもアレな感じだが、一応喉を潤すことはできるので、とやかく言わないのが賢明である。
「血液を飲むのとあまり変わらない、という意見もありますが…まあ、大丈夫でしょう」
水の味は普通なため、飲んでいる人間は案外多そうだ。それにこの程度の消費なら、魔力回復が早い諒であれば、一呼吸した後にはもう回復している。
当然だが、普通の人間がこんなに早く回復するのは不可能だ。諒の魔法に関する能力の優秀さには、もはや呆れるしかない。
その規格外の代名詞諒は、今はやることを脳内で検索していた。
朝食は祐が起きてからとる予定だし、暇潰し要員盗聴男は、おそらく今頃ギルドで尋問中だ。
つまり現在、暇なのである。
と言っても時間がかかること(例えば聖剣を狙う盗賊団の始末など)をやっていると、祐が途中で起きた場合、長く待たせることになりそうだ。
思考した諒は、とりあえず――木の棒をとりに行こう、と思い立った。理由はなんとなくだ。
木の棒とだけ聞くととんでもなく唐突に思えるが、諒の目的からすればそうでもない。
昨日諒はアドルフの雑貨店で、一般的な魔術師に擬態するため、杖を作ろうと決めていた。それを記憶から掘り出してきたのだ。
となれば、森だ。諒は一応、祐宛ての置き手紙をベッドの上に乗せ、階下に下りた。帰る前に起床した場合の祐が、諒を探し回ってすれ違いになるのを防ぐためだ。念には念を入れて、宿屋の主人に伝言も頼んでおく。
「もし栗色の髪の青年(祐)が降りてきたら、『最長で八時までには帰ります』と伝えていただけませんか?」
因みに部屋は私の隣です、と付け加えると、祐の東洋系な顔立ちを珍しくて覚えていたのか、主人は首を縦に振った。
「かしこまりました。お伝えしておきます」
「ありがとうございます」
了承を受け取ってにっこり微笑み、諒は宿屋から出るなりふっと気配を消した。どう見ても、何やら見咎められることをやる気満々だ。
諒は、周囲の反応から自分がきちんと空気と同化しているのを確認して、……飛んだ。
飛翔した。舞い上がった。浮遊している――いろいろ言い方はあるが、間違いなく地面から十メートル上を飛んでいた。
雑多の人間が行き交う中を縫うように歩くより、空を走った方が断然速い。森に行くにはそこそこ時間が必要なので、そちらを選択したのだ。
人間や小さな建物を見下ろして、諒は空を蹴り、さらに上空に昇る。
上空に至るまでの動作は美しく、無駄を省いた体勢で、「空を飛ぶ」という行為に慣れていることが素人目でも分かるほどだ。
飛行の魔法は、風属性の魔力の操作を完璧にできないと、落下などで怪我の危険性が高い。故に、飛行が可能な魔術師は一国に数人しか存在しない。
そんなことを、多少急ぐからといって簡単にやるなんて、魔法に詳しい者なら十人中十人が技術の無駄遣いだと叫ぶだろう。
本当に、規格外の代名詞である。
…実は、実際に幼少期の諒(演技中)を代名詞にしている国もあったりする。
演技していたとはいえ、「おお、結構才能あるな、お前。もしかして天才か?」「いやいや、リョウ様じゃあるまいし」「確かに。あれはマジでやばい」とかいう会話を聞いた時は、かなり微妙な気分になったのを覚えている。
それはともかく、と諒は空で辺りを見回した。森の方向はどちらだろうか。諒は方向音痴な嫌いがあるので、どの方向に行けばいいのか分からない。
「迷子になってしまいそうですね…」
最初から躓いた諒は嘆息し、もっと上に舞い上がった。発生させた風が、さらさらと黒髪に絡んでいく。そうして上がるうちに、ようやく後方に森が見えてきた。
目に入りかけた髪を片手で押さえ、森に方向を転換する。
「あちらですか」
囁くように唇を動かした諒は、高度を保ったまま、急降下するハヤブサ並みの速度で出発した。




