閑話 諒の幼少期
諒が異世界トリップして一ヶ月くらい経った時のお話です。時期は前の閑話以前です。
特に時間に沿って書いているわけではなく、完全にばらばらですが、ご了承ください。
~毒と狼対諒~
諒少年は水場を探してさ迷っていた。現在、恐らく異世界トリップ一ヶ月目で、残念なことに人の存在しない森の中である。
諒の頭の中は冷たいくらいに冴え渡っていた。一ヶ月前はごく普通の少年らしく混乱して泣きじゃくっていたというのに、適応力に秀でているのか以前とはえらい違いだ。
まあ、この図太いくらいの適応力がなければ今頃獣の餌と化していただろうから、諒とは切っても切り離せない、というより切り離したら終わりな能力だ。
諒は自分の適応力に感謝して歩き回り、他に水を得る手段について考え出す。
少し前に異例のスピードで死にかけつつ完全制御した「魔法(仮)」で水を出すことは不可能ではないが、何が起こるか分からないのでなるべくこの力は温存した方が賢明だろう、と脳の端っこに浮かんだ考えを自分で否定する諒。とても子供とは思えない。
ただ、あまりに切羽詰まったら使うことになるだろうが。
そんな適当なことを考えながら諒は大きな木の近くに座り、ここ最近極まってきた空腹を満たすために、ついに諦めて食べられそうな草を探す。
正直、どの草も地球と比べて形状がおかしく、人間が食べられるようには見えなかった。
諒は眉をひそめて草をかき分ける手を止め、深く嘆息する。ましそうなものを選んでかじってみるしかない。
淡々と食べられそうな草を捜索していた諒は、ふと地球の草に酷似した緑色の草を発見して思わず頬を緩めた。通常の呑気そうな笑みではなく、昔を懐かしむ緩やかな微笑だった。普段から演技はやたらうまいが、なんとなく今は自然な表情だと分かる。
「これなら、他より少しは…?しかし、異世界だから…」
緑色のこの草で、幻覚を見れてしまってもおかしくはない。
諒は瞼を伏せて葛藤した。葛藤したが…背に腹は替えられない。餓死する可能性もあるのだから、文句を言っている場合ではないのだ。
今までは、たまたま見付けたウサギに似た黄色い獣やイノシシに似た朱色の獣などを罠にかけて、もしくは魔法で殺し、恐る恐る食べて生きてきたが、そろそろ植物にも挑戦しなければならない。肉ばかりは体調的に辛いものがある。
諒は意を決して草をちぎった。地球に似た草に賭けることにしたのだ。
思いきって端の方を口に含み、噛むと、口内に驚くほどの苦味が広がった。
だが、それ以上に。
「………毒、か…!」
臓腑に焼けつくような激痛が走り、諒は口元を片手で塞いだ。次いで、せり上がってくる鉄の味。ごぼりと吐き出した生温い液体が、諒の左手を赤黒く染める。
早くも朦朧としてきた意識の中で、諒は己れの判断を呪った。
諒は、賭けに負けたのだ。それも、最悪の形で。
もう一度咳をして吐血し、ちぎった毒草をぎりぎりと握りしめると、血に濡れた手のひらに爪が食い込んだ。
フェードアウトしつつある視界で目の前の茂みが揺れ、漆黒の何かが姿を現す。ぼんやりと霞がかったような瞳ではその何かを確認することができず、諒は場違いにそれをもどかしく思った。
「…………治…癒…、…を…」
音になるかならないかの微かな声で、諒は全く無表情に囁く。森の木々も、草花も映さない虚ろな闇夜の瞳は、しかしまだ強靭な光を消してはいない。
ふっと息を止め、諒は緩慢に近寄ってくる漆黒だけを睨むように見つめた。
額に流れる透明な滴をそのままに、無理に唇の端を吊り上げてみせる。
「……何かご用…です、か……」
唇を真っ赤に汚しながら、子供特有の細い身体を小刻みに震わせながら、それでもまだ顔を上げる諒の気迫に、漆黒が立ち止まる。
諒の姿は、その整った容貌も相まって凄惨な美しさを感じさせた。
じっとりと張りつく前髪が鬱陶しい。だが、気にならない。
諒は「治癒」の言葉に魔力を込めて、光の属性を発動させていた。
変わらぬ苦痛に苛まれてはいるが、僅かに体が軽くなった気がする。
「お見苦しい…ところ…を……ごほっ…申し訳、あり、ません…」
たどたどしく、言葉を覚えたばかりの幼子のように口にして、諒は脚に力を入れた。片膝を立て、新しく溢れる紅を地面に吐き捨てる。行儀が悪いな、とどこかずれた思いがよぎった。
そして、どうにかクリアになった視界で漆黒を捉える。
――狼、だった。
たった一匹で、悠然と立つ、大きな黒の獣。
諒は獰猛な琥珀の目で自分を眺める黒狼に、強かに、穏和に、冷徹に、微笑した。
「僕を食べても、おいしくないですよ」
何しろ、毒草を食べたばかりですから。失敗しましたね、結構劇薬です。
流暢に喋ってはいるが、激痛が去ったわけではない。激痛の中で喋るのに、慣れてきただけだ。その証拠に、時々会話に混ざる咳と共に、血が口の中に溜まる。
光の治癒魔法が、毒に抵抗しているのが分かった。
「やはり、具合が悪いと好物もなかなか食べられなくて辛いですよね。スープやリゾットばかりは飽きますよ。おいしいアップルパイが食べたいです」
取り留めもない話で治癒の時間を稼ぎつつ、笑顔の裏で黒狼の様子を窺う。この獣は、それなりの思考力を持っているはずだと、狼の目を見て考えたのだ。言葉の意味は分からなくても、鋭い勘で諒が何を言っているのか理解しているのだろうと。
きっと、諒に興味を失った途端黒狼は一気に飛びかかる。それまでに激昂させ、行動を単純化できれば、やりようはある。
だが、どちらにしてももう少し動けるようになってからだ。今は、最初の一撃をかわす力すら残っていない。
諒は話を止めずに続け、この状況で使える魔法を模索した。
この世界の獣は、魔力感知能力が高い。攻撃的な魔法を使おうとすれば、すぐさま襲いかかってくる。
魔力の隠蔽は……可能だろうか。
いや、治癒の分の魔力まで隠すと逆に怪しまれる。
この際大胆にいかなければ生き残れない。
諒は簡単な構想を練り、巨大な黒狼を見上げた。体力は百分の一程度は回復した。万全とは絶対に言えないが、敵はいつまでも待ってくれない。
諒は見ようによっては傲岸不遜にも見える穏やかな笑みを浮かべ、言い放った。
「頭が腐って虫が湧いているんじゃないですか。気障りで不愉快なのでその醜悪な顔を向けないでください犬風情が」
…はっきり言って、酷い罵詈雑言である。だが、本当にそう思ってはいない。黒狼を怒らせるための安い挑発だった。
予想通り激怒した黒狼が、諒の喉笛を噛み切ろうと飛びかかってくる。諒は間一髪で巨体をかわし、小さく呟いた。
「雷を、ここに」
瞬間、光が森を真っ白に照らし、短時間ながら目潰しになる。バリバリバリッ!! という音と同時に、特大の雷が光に硬直した黒狼の頭に吸い込まれるように命中した。
魔法は、本来はもっと長ったらしい詠唱が必要だが、そんなことは知らない諒は何かそれっぽいことを唱えれば魔法が発動すると考えているので、一般人が見たら目を剥くような、実は上級の詠唱短縮を普通に行っていた。
現地人ですらないはずの諒の技術にびっくりである。
それはともかく、凄まじい雷を受けてなお黒狼は生きていた。ぼろぼろで、毛皮は焦げていたものの、諒に一矢を報いようと再度立ち上がる。
しかし、そこに諒の無情な声が響いた。
「風を…風の、刃をここに」
風の魔法でできた見えない刃が、黒狼の首を襲う。風を切る音に、咄嗟に飛び退いたその先でも刃は待っていた。
死を覚悟した黒狼が、やってくるはずの痛みがやってこないことに気付き、きょとんと一つ瞬きした、その時。ずるりと頭と体が二分割し、頭の方が地に落ちる。
切り裂かれた綺麗な切り口から、噴水のように赤いものが噴き出し、体が横に倒れた。
諒は、黒狼の屍から二メートルは離れた地点で木にもたれかかってずるずると腰を下ろし、口元に作った笑みを消した。
もう、動く体力はない。もしまたなんらかの獣が諒の前に現れたら、今度こそ危ない。
諒は黒狼の血の臭いに引き寄せられて、他の獣がやってこないことを祈って目を閉じた。毒は、未だ回っているのだ。
――完全に魔法が毒を消したのは、それから丸二日経過した後だった。




