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第7話 書けないことと、書いたこと

語り手:経済産業省・課長補佐 黒川誠二(47歳)



 東京まで、あと二時間ある。


 窓の外は、もう暗い。

 トンネルと、街の明かりが、交互に流れる。


 膝の上に、フォルダがある。

 視察レポートの様式だ。


 開いては、閉じる。

 三回、それをした。



 視察は、午前中に終わった。


 同行した部下の田村は、帰りのバスでもう眠っていた。


 若い。


 羨ましいとは、思わなかった。

 ただ、そういう案件ではない、とは思った。


 駅のホームで、少し待った。

 風が、海の方から来ていた。

 あの町では、その風に名前がある。

 春先に吹く風だと、案内の途中で誰かが言っていた。

 悪い意味はない、とも。


 なぜそんなことを覚えているのか、自分でも分からない。



 黒川誠二。

 経済産業省、地域産業政策課。

 課長補佐、勤続二十三年。

 地方視察は、年に十件以上こなしてきた。

 農業振興、工場誘致、地域おこし。

 行くたびに、同じ話を聞く。

 過疎化、後継者不足、補助金の使い道。

 悪い人間はいない。


 ただ、同じ話だ。


 今回も、そういう案件だと思っていた。

 正直に言えば、資料を読んだ段階では、そう思っていた。



 人口五千人。

 海と山に囲まれた小さな町。

 主要産業は農業と水産業。

 財政規模は、表の数字だけ見れば取り立てて特異ではない。


 だが、一枚めくると、数字がおかしくなる。


 住民税:徴収なし。

 水道・医療・教育:全額町負担。

 有効求人倍率:二・四。


 最初に資料を受け取ったとき、誤植だと思った。

 確認したら、誤植ではなかった。


 財源はどこにあるのか。

 それが、今回の視察の目的だった。



 町長は、五十五歳だった。


 想像していたのと、違った。

 地方の政治家というと、ある種の顔がある。

 愛想がよく、握手を好み、写真を撮りたがる。

 悪い人間ではないが、何かを売ろうとしている。

 この町長は、そうではなかった。


 案内は丁寧だった。

 説明も、簡潔だった。


 だが、どこかに余白があった。

 語っていない部分が、あきらかにある。


 それを隠しているのではなく、説明しても伝わらないと思っている。


 その判断は、正しいと思った。



 畑を見た。


「普通の土にしか見えませんね」


 自分でそう言った。

 今でも、その言葉を覚えている。

 町長は即座に答えた。


「普通ですよ。昔は、誰も見向きもしなかった」


 そのとき、何かが引っかかった。

 だが、その場では言葉にできなかった。

 赤い土が、風に少し動いた。


 それだけだった。



 午後、別の場所に連れて行かれた。

 畑から離れた、目立たない平屋だった。

 農業用の倉庫と、外観は変わらない。


 中に入ると、空調が効いていた。

 白衣の人間が数人いた。

 全員、こちらを一度見てから、作業に戻った。


 サンプルは見せてもらえなかった。

 機器も、工程も、説明はなかった。

 案内されたのは、モニターの前だけだった。


「こちらが、直近三年分の推移です」


 担当者が、グラフを指した。

 黒川は理系の出身だ。

 大学では農学部にいた。


 グラフの意味は、分かった。

 分かったから、困った。



 視察前に読んだ資料の中に、参考文献が一つあった。

 某国の農業研究機関が、十年前に出したレポートだ。


 同様の性質を持つ土壌の再現を試み、失敗した、という内容だった。

 その後、同じ試みをした研究機関がいくつかある。

 いずれも、成功していない。


 なぜそうなるのかは、この町の側も、完全には説明できていないらしい。


 今日、それを確認した。


「根本のところは、まだ分かっていません」


 担当者は、そう言った。

 特に恥ずかしそうでも、困っていそうでもなかった。


「ただ、結果は出ています。数値として」


 その言い方が、妙に頭に残っている。



 施設を出たあと、若い研究者と少し話した。


 名前は、聞いたが今は出てこない。

 三十代の前半だろうか。


 この町の出身ではないと言っていた。


「なぜここに」


 黒川が聞くと、少し考えてから答えた。


「ここで育ちたかったんです。ずっと前から」


 生まれ育った場所ではない、と言った。

 それなのに、帰ってきたような顔をしていた。

 黒川には、その感覚が分からない。


 東京生まれで、東京育ちだ。

 帰る場所が東京にしかない。

 それが不満だったことは、一度もない。


 ただ、あの顔は見たことがない、とは思った。



 新幹線に乗ってから、田村はすぐに眠った。


 黒川は、窓の外を見ていた。

 暗くなると、自分の顔が映る。

 四十七歳の顔だ。

 特に感想はない。


 フォルダを開いた。


 様式の、四ページ目。

「特記事項」という欄がある。

 A4で、半ページ分のスペースがある。


 ペンを持った。


 何も書けなかった。


 書こうとすると、言葉が崩れる。


 正確に書こうとすると、自分が理解していないことを書くことになる。

 理解できていないわけでは、ないのだが。


 あのグラフが本当なら、という話になる。


 本当ではないはずがない。

 自分の目で見たのだから。


 だが、「なぜそうなるのかは分かっていない」ものを、どう書けばいいのか。

 根拠のないものを、国家として扱っていいのか。


 結果は出ている。

 数値として。


 それだけでいいのかどうかは、二十三年働いてきた今でも、答えが出ない。


 トンネルに入った。


 窓が黒くなる。

 自分の顔が、もう少しはっきり映る。


 東京に着いたら、上司に口頭で報告する。

 文字にしなくていい部分を、そちらに回す。

 特記事項の欄は、今日のところは空白にしておく。

 期限まで、まだ少しある。


 もう少し、考えてから書く。

 それが今の自分にできる、正直な仕事だと思っている。



 田村が、寝返りを打った。


 車内は、静かだ。


 黒川は、フォルダを閉じた。

 あの赤土のことを、また考えた。

 普通の土にしか見えなかった。

 今でも、そう思っている。


 ただ、普通ではない、ということだけは分かった。


 それだけが、今日持ち帰れたものだ。

第7話までお読みいただき、ありがとうございます。


ここまで読んでくださった方は、この町が少し変わった場所であることに気付き始めたかもしれません。


ただ、この物語の中心は秘密そのものではなく、その町で生きる人々です。


これからも、それぞれの仕事や暮らしを通して町の姿を描いていきます。

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