第6話 ただ、仕事をする
語り手:町立病院・研修医 中村遥(26歳)
◇
研修先がここに決まったとき、同期は少し不思議そうな顔をした。
「なんでそんな田舎に」
田舎、という言葉の使い方が、少し雑だと思った。
だが、否定する根拠もなかった。
小さな町の、小さな病院だ。
理由は、うまく説明できなかった。
募集要項に、一行だけ書いてあった。
「患者負担:なし」
最初は、誤記だと思った。
◇
病院は、思ったより大きかった。
人口五千人の町に、こんな規模の総合病院がある。
外来棟のガラスが、朝の光を反射していた。
きれいだ、と思った。
院長に挨拶をしたとき、最初にこう言われた。
「ここでは、金の話はしなくていい」
意味が分からなかった。
「患者さんに、費用の説明をしなくていいということです。そういう仕組みなので」
そういう仕組み、という言葉の先を聞こうとしたが、院長はもう立ち上がっていた。
◇
最初の一週間は、戸惑いが多かった。
大学病院では、診察と同時に保険区分と自己負担額を意識する癖がついていた。
ここでは、その計算が要らない。
患者に「お金はどのくらいかかりますか」と聞かれて、「かかりません」と答えると、聞き返される。
「え、無料ですか」
「ええ」
「なんで」
私には、まだ説明できない。
聞き返してくるのは、町の外から来た人だ。
とりあえず、「町の仕組みでそうなっています」と言うようにした。
◇
患者の層は、思っていたのと少し違った。
高齢者が多いのは予想通りだ。
だが、我慢して来る人が、少ない。
都市部の病院では、「もっと早く来ればよかったのに」という患者が多い。
費用が心配で、症状が進むまで来ない。
ここでは、そういう患者が少ない。
早い段階で来る。
だから、話が早い。
これは、いいことだと思った。
◇
先輩の医師に、率直に聞いたことがある。
「この病院の財源は、何ですか」
先輩は少し考えてから、答えた。
「畑、らしい」
「畑ですか」
「赤土の。詳しくは私も知らない」
それ以上は続かなかった。
知らなくても、仕事には関係ないからだと思う。
◇
赤土の畑は、病院の窓から見える。
遠くに、なだらかな広がりがある。
特別なものは、何も見えない。
ある日の夕方、外来が終わった後で、少し遠回りをして帰った。
畑の近くを歩いた。
誰かが膝をついて、土を触っていた。
年配の男性だった。
邪魔をしたくなかったので、通り過ぎた。
あの土が何なのか、私にはまだ分からない。
ただ、この病院があることと、あの畑があることは、つながっているらしい。
◇
先週、高校生の患者が来た。
女の子で、受験のストレスからくる胃炎だった。
大したことはない。
問診票に、将来の希望が書いてあった。
医者、と書いてあった。
「医者になりたいんですね」
そう言うと、少し照れた顔をした。
「はい。この病院で働きたいと思って」
私は、少し驚いた。
「ここで、ですか」
「ここがいいんです。ずっと前から」
理由は言わなかった。
でも、その顔は分かる気がした。
◇
同期に、電話をしたことがある。
「どうなの、田舎は」
「田舎じゃないかもしれない」
「は?」
うまく説明できなかった。
都市か地方かという話ではない。
ただ、仕組みが違う。
患者がお金の心配をしないで来られる場所で、医者として働く。
それがどういうことか、来る前には分からなかった。
◇
この町では、医療が当たり前のようにある。
住民はそれを、あまり有難いとも思っていないように見える。
生まれたときから、そうだったからだと思う。
当たり前だと思えることが、豊かさなのかもしれない。
そう思ってから、少し止まった。
私は今、何を当たり前だと思っているのだろう。
◇
夜、病院の駐車場に出ると、遠くに畑の輪郭が見える。
暗くて、ほとんど何も分からない。
ただ、そこにある、ということは分かる。
あの畑のことを、私はまだ何も知らない。
知る必要があるのかも、分からない。
ただ、ここで働いていると、たまに思う。
この場所が、こういう場所であるために、誰かが長い時間をかけた。
私が来る前から、ずっと。
私は、その結果の上に立っている。
だから、ただ、仕事をする。
それだけでいいと思っている。




