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第6話 ただ、仕事をする

語り手:町立病院・研修医 中村遥(26歳)



 研修先がここに決まったとき、同期は少し不思議そうな顔をした。


「なんでそんな田舎に」


 田舎、という言葉の使い方が、少し雑だと思った。


 だが、否定する根拠もなかった。

 小さな町の、小さな病院だ。


 理由は、うまく説明できなかった。

 募集要項に、一行だけ書いてあった。


「患者負担:なし」


 最初は、誤記だと思った。



 病院は、思ったより大きかった。

 人口五千人の町に、こんな規模の総合病院がある。


 外来棟のガラスが、朝の光を反射していた。

 きれいだ、と思った。


 院長に挨拶をしたとき、最初にこう言われた。


「ここでは、金の話はしなくていい」


 意味が分からなかった。


「患者さんに、費用の説明をしなくていいということです。そういう仕組みなので」


 そういう仕組み、という言葉の先を聞こうとしたが、院長はもう立ち上がっていた。



 最初の一週間は、戸惑いが多かった。


 大学病院では、診察と同時に保険区分と自己負担額を意識する癖がついていた。

 ここでは、その計算が要らない。


 患者に「お金はどのくらいかかりますか」と聞かれて、「かかりません」と答えると、聞き返される。


「え、無料ですか」

「ええ」

「なんで」


 私には、まだ説明できない。

 聞き返してくるのは、町の外から来た人だ。


 とりあえず、「町の仕組みでそうなっています」と言うようにした。



 患者の層は、思っていたのと少し違った。

 

 高齢者が多いのは予想通りだ。

 だが、我慢して来る人が、少ない。

 都市部の病院では、「もっと早く来ればよかったのに」という患者が多い。

 

 費用が心配で、症状が進むまで来ない。

 ここでは、そういう患者が少ない。

 早い段階で来る。

 だから、話が早い。

 これは、いいことだと思った。



 先輩の医師に、率直に聞いたことがある。


「この病院の財源は、何ですか」


 先輩は少し考えてから、答えた。


「畑、らしい」

「畑ですか」

「赤土の。詳しくは私も知らない」


 それ以上は続かなかった。

 知らなくても、仕事には関係ないからだと思う。



 赤土の畑は、病院の窓から見える。


 遠くに、なだらかな広がりがある。

 特別なものは、何も見えない。


 ある日の夕方、外来が終わった後で、少し遠回りをして帰った。

 畑の近くを歩いた。

 誰かが膝をついて、土を触っていた。


 年配の男性だった。


 邪魔をしたくなかったので、通り過ぎた。

 あの土が何なのか、私にはまだ分からない。


 ただ、この病院があることと、あの畑があることは、つながっているらしい。



 先週、高校生の患者が来た。

 女の子で、受験のストレスからくる胃炎だった。

 大したことはない。


 問診票に、将来の希望が書いてあった。

 医者、と書いてあった。


「医者になりたいんですね」


 そう言うと、少し照れた顔をした。


「はい。この病院で働きたいと思って」


 私は、少し驚いた。


「ここで、ですか」

「ここがいいんです。ずっと前から」


 理由は言わなかった。

 でも、その顔は分かる気がした。



 同期に、電話をしたことがある。


「どうなの、田舎は」

「田舎じゃないかもしれない」

「は?」


 うまく説明できなかった。

 都市か地方かという話ではない。


 ただ、仕組みが違う。

 患者がお金の心配をしないで来られる場所で、医者として働く。

 それがどういうことか、来る前には分からなかった。



 この町では、医療が当たり前のようにある。

 住民はそれを、あまり有難いとも思っていないように見える。


 生まれたときから、そうだったからだと思う。

 当たり前だと思えることが、豊かさなのかもしれない。


 そう思ってから、少し止まった。

 私は今、何を当たり前だと思っているのだろう。



 夜、病院の駐車場に出ると、遠くに畑の輪郭が見える。

 暗くて、ほとんど何も分からない。


 ただ、そこにある、ということは分かる。


 あの畑のことを、私はまだ何も知らない。

 知る必要があるのかも、分からない。


 ただ、ここで働いていると、たまに思う。

 この場所が、こういう場所であるために、誰かが長い時間をかけた。


 私が来る前から、ずっと。

 私は、その結果の上に立っている。


 だから、ただ、仕事をする。

 それだけでいいと思っている。


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