第5話 捨て地と呼んでいた
語り手:ふるくからの住民 老漁師・浜田義雄(健一の父、74歳)
◇
漁師をやめたのは、三年前のことだ。
膝がいかれた。
医者には、もっと早くやめるべきだったと言われた。
そうかもしれない。
今は朝、波止場まで歩いて、海を見て、帰る。
それだけが、残った習慣だ。
健一が海に出るのは、夜明け前だ。
だから、会うことはない。
すれ違う時間に、わざとしている。
そういう息子だ。
◇
この町に生まれて、七十四年になる。
変わったと言えば変わった。
変わっていないと言えば、そうも言える。
海は、昔と同じだ。
山も、だいたい同じだ。
変わったのは、あの畑だ。
◇
赤土の区画は、昔から嫌われていた。
水はけが悪い。
作物が育たない。
使いようがない。
農家の連中は、あそこだけ避けて耕していた。
誰も文句を言わなかった。
それが当たり前だったからだ。
今の町長の父親、つまり前の町長も、若い頃はそう言っていた。
「あそこは捨て地だ」
それが、この町の共通認識だった。
◇
今の町長が、子どもだった頃の話をしようと思う。
変な子だった。
悪い意味ではない。
ただ、普通ではなかった。
他の子が海で遊んでいるとき、一人で畑の端に行っていた。
何をしているのか、遠くからでも分かった。
土をいじっていた。
親に聞いたことがある。
「あの子は何をやっとるんか」
前の町長は、少し困った顔で言った。
「放っておけと言っとるんだが、聞かん」
そんな話だった。
◇
健一が、あの子と仲が良かったのは知っていた。
仲がいい、というより、通じているという感じだった。
二人ともあまり喋らない。
だが、近くにいることが多かった。
健一が小学生の頃、一度だけ聞いたことがある。
「あいつのこと、分かるか」
健一は少し考えて、答えた。
「分からん。でも、変ではない」
それだけだった。
健一は、昔からそういう答え方をする。
◇
あの子が町を出たのは、高校を出てすぐだった。
東北の大学に行くと聞いた。
農学だと言っていた。
前の町長は、特に何も言っていなかった。
ただ、送り出したという感じだった。
私には、それが少し不思議だった。
息子が、あの捨て地の土を抱えて出ていく。
親として、何か言いたいことはないのかと思った。
だが、前の町長は飄々とした人間だ。
「好きにしろ」が口癖だった。
それが、あの家のやり方なのだろうと思った。
◇
帰省のたびに、顔を見ることがあった。
変わっていなかった。
いや、変わってはいたが、方向は変わっていなかった。
何かを探している顔をしていた。
子どもの頃から、ずっとそういう顔だった。
ある年の夏、波止場で少し話したことがある。
私が網を手繰っていると、近くに来て、少し見ていた。
「義雄さん、海の底の土は調べたことありますか」
突然そう聞いた。
「ないな」
「そうですか」
それだけで、行ってしまった。
何を考えているのかは、分からなかった。
ただ、本気の顔だったのは覚えている。
◇
大学院を出て戻ってきたのは、健一が三十になった頃だ。
帰ってきた、という感じは特にしなかった。
最初からいたような顔をしていた。
しばらくして、畑の様子が少しずつ変わり始めた。
あの捨て地の区画に、人が入るようになった。
健一もその一人だと、後から聞いた。
私は特に何も思わなかった。
あの子の話は、どうせ長くかかると思っていたからだ。
◇
変化が分かるようになったのは、もう少し後のことだ。
町に、外から人が来るようになった。
スーツを着た連中だ。
役所の人間のような顔をしていた。
波止場で会うたびに、少し場違いな感じがした。
靴がきれいすぎる。
前の町長が、あるとき私に言った。
「義雄、あの捨て地が金になるらしいぞ」
笑いながら言った。
「本当か」
「息子が言うんだから、本当なんだろ」
飄々とした顔のままだった。
◇
それから、少しずつ町が変わった。
ただ、派手には変わらなかった。
新しい建物が建つわけでも、道が広くなるわけでも、人が急に増えるわけでもない。
水道代の通知が、ある月から変わった。
役場から手紙が来て、医療費の負担がなくなると書いてあった。
健一が学校に通っていたら教材費も、と書いてあったが、健一はもう大人だった。
最初は、意味が分からなかった。
誰かに騙されているのかと思った。
だが、翌月も、その次の月も、変わらなかった。
本当のことだった。
◇
今の町長が就任する少し前、前の町長が私に言った。
「飽きた」
それだけだった。
「次はどうするんか」
「息子がやる」
「本人は何と言っとる」
「まあ、やるだろ」
根拠のない言い方だった。
だが、あの二人のことだ。
そういうものなのだろうと思った。
◇
今の町長が就任してから、六年になる。
あの頃と比べて、町は確かに変わった。
ただ、海は同じだ。
山も、同じだ。
赤土の畑だけが、変わった。
変わったというより、意味を持つようになった。
昔からそこにあった。
誰でも知っていた。
ただ、捨て地だと思っていた。
それだけの話だったのに、今では外から人が視察に来る。
◇
朝、波止場に立つと、遠くに畑が見える。
赤い土が、光の加減で少し色を変える。
健一は今日も海に出ている。
私は、もう出ない。
それでいい。
あの畑が何者なのか、私にはまだよく分からない。
七十四年、隣にいたのに。
そういうものが、あるのだということを、最近ようやく思うようになった。
知らなくてよかったものと、知らなかっただけのものは、違う。
あの赤土は、たぶん後者だ。
それが悔しいかというと、そうでもない。
ただ、そうだったのか、と思う。
それだけだ。




