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第5話 捨て地と呼んでいた

語り手:ふるくからの住民 老漁師・浜田義雄(健一の父、74歳)

 漁師をやめたのは、三年前のことだ。

 膝がいかれた。

 医者には、もっと早くやめるべきだったと言われた。

 そうかもしれない。


 今は朝、波止場まで歩いて、海を見て、帰る。

 それだけが、残った習慣だ。


 健一が海に出るのは、夜明け前だ。

 だから、会うことはない。

 すれ違う時間に、わざとしている。

 そういう息子だ。



 この町に生まれて、七十四年になる。

 変わったと言えば変わった。

 変わっていないと言えば、そうも言える。


 海は、昔と同じだ。

 山も、だいたい同じだ。


 変わったのは、あの畑だ。



 赤土の区画は、昔から嫌われていた。


 水はけが悪い。

 作物が育たない。

 使いようがない。


 農家の連中は、あそこだけ避けて耕していた。

 誰も文句を言わなかった。

 それが当たり前だったからだ。


 今の町長の父親、つまり前の町長も、若い頃はそう言っていた。


「あそこは捨て地だ」


 それが、この町の共通認識だった。



 今の町長が、子どもだった頃の話をしようと思う。

 変な子だった。

 悪い意味ではない。

 ただ、普通ではなかった。


 他の子が海で遊んでいるとき、一人で畑の端に行っていた。

 何をしているのか、遠くからでも分かった。

 土をいじっていた。


 親に聞いたことがある。


「あの子は何をやっとるんか」


 前の町長は、少し困った顔で言った。


「放っておけと言っとるんだが、聞かん」


 そんな話だった。



 健一が、あの子と仲が良かったのは知っていた。

 仲がいい、というより、通じているという感じだった。


 二人ともあまり喋らない。


 だが、近くにいることが多かった。


 健一が小学生の頃、一度だけ聞いたことがある。


「あいつのこと、分かるか」


 健一は少し考えて、答えた。


「分からん。でも、変ではない」


 それだけだった。

 健一は、昔からそういう答え方をする。



 あの子が町を出たのは、高校を出てすぐだった。


 東北の大学に行くと聞いた。

 農学だと言っていた。


 前の町長は、特に何も言っていなかった。

 ただ、送り出したという感じだった。


 私には、それが少し不思議だった。

 息子が、あの捨て地の土を抱えて出ていく。

 親として、何か言いたいことはないのかと思った。


 だが、前の町長は飄々とした人間だ。


「好きにしろ」が口癖だった。


 それが、あの家のやり方なのだろうと思った。



 帰省のたびに、顔を見ることがあった。

 変わっていなかった。


 いや、変わってはいたが、方向は変わっていなかった。

 何かを探している顔をしていた。


 子どもの頃から、ずっとそういう顔だった。


 ある年の夏、波止場で少し話したことがある。

 私が網を手繰っていると、近くに来て、少し見ていた。


「義雄さん、海の底の土は調べたことありますか」


 突然そう聞いた。


「ないな」

「そうですか」


 それだけで、行ってしまった。

 何を考えているのかは、分からなかった。


 ただ、本気の顔だったのは覚えている。



 大学院を出て戻ってきたのは、健一が三十になった頃だ。

 帰ってきた、という感じは特にしなかった。

 最初からいたような顔をしていた。


 しばらくして、畑の様子が少しずつ変わり始めた。

 あの捨て地の区画に、人が入るようになった。

 健一もその一人だと、後から聞いた。


 私は特に何も思わなかった。

 あの子の話は、どうせ長くかかると思っていたからだ。



 変化が分かるようになったのは、もう少し後のことだ。


 町に、外から人が来るようになった。

 スーツを着た連中だ。

 役所の人間のような顔をしていた。

 波止場で会うたびに、少し場違いな感じがした。

 靴がきれいすぎる。


 前の町長が、あるとき私に言った。


「義雄、あの捨て地が金になるらしいぞ」


 笑いながら言った。


「本当か」

「息子が言うんだから、本当なんだろ」


 飄々とした顔のままだった。



 それから、少しずつ町が変わった。

 ただ、派手には変わらなかった。


 新しい建物が建つわけでも、道が広くなるわけでも、人が急に増えるわけでもない。


 水道代の通知が、ある月から変わった。

 役場から手紙が来て、医療費の負担がなくなると書いてあった。

 健一が学校に通っていたら教材費も、と書いてあったが、健一はもう大人だった。


 最初は、意味が分からなかった。

 誰かに騙されているのかと思った。


 だが、翌月も、その次の月も、変わらなかった。

 本当のことだった。



 今の町長が就任する少し前、前の町長が私に言った。


「飽きた」


 それだけだった。


「次はどうするんか」

「息子がやる」

「本人は何と言っとる」

「まあ、やるだろ」


 根拠のない言い方だった。


 だが、あの二人のことだ。

 そういうものなのだろうと思った。



 今の町長が就任してから、六年になる。


 あの頃と比べて、町は確かに変わった。

 ただ、海は同じだ。

 山も、同じだ。


 赤土の畑だけが、変わった。


 変わったというより、意味を持つようになった。

 昔からそこにあった。

 誰でも知っていた。


 ただ、捨て地だと思っていた。

 それだけの話だったのに、今では外から人が視察に来る。



 朝、波止場に立つと、遠くに畑が見える。


 赤い土が、光の加減で少し色を変える。


 健一は今日も海に出ている。

 私は、もう出ない。

 それでいい。


 あの畑が何者なのか、私にはまだよく分からない。


 七十四年、隣にいたのに。


 そういうものが、あるのだということを、最近ようやく思うようになった。


 知らなくてよかったものと、知らなかっただけのものは、違う。


 あの赤土は、たぶん後者だ。


 それが悔しいかというと、そうでもない。

 ただ、そうだったのか、と思う。


 それだけだ。


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