第4話 水道代がゼロだった
引越しの荷物が片付いたのは、来てから三日後だった。
夫の荷物が多い。
本ばかりだ。
段ボールを畳んで、束ねて、外に出した。
次の回収日が、いつなのかまだ分からない。
近所の人に聞こうと思って、外に出た。
向かいの家のおばさんが、庭に水をやっていた。
「引っ越してきた篠崎です」
「知ってる。昨日来たでしょ」
もう知られていた。
「ゴミの回収日を教えてもらえますか」
「燃えるのは月水金。段ボールは木曜。場所は角の青いネット」
「ありがとうございます」
「慣れたら分かるから」
そう言って、水やりを続けた。
悪い感じはしなかった。
ただ、少し濃い。
夫は、町の関連施設で研究職に就いている。
赤土の畑に関わる仕事だとは聞いた。
詳しくは教えてもらっていない。
本人が話さないのか、話せないのかは分からない。
東京を離れる話が出たとき、少し迷った。
仕事を辞めることになる。
友人とも離れる。
知り合いもいない。
それでも来たのは、夫の顔が理由だ。
ここで働くと聞かされたとき、初めて見る顔をしていた。
うまく言えないが、帰ってきたような顔だった。
夫が生まれ育った場所ではない。
ただ、そういう顔だった。
役場に転入届を出しに行った。
待ち時間は五分もなかった。
担当者が、書類を一枚ずつ説明してくれた。
「こちらは住民税の欄ですが、この町では徴収がありません」
聞き間違えたと思った。
「ゼロ、ということですか」
「ええ。町の財源の構造上、そうなっています」
構造上、という言葉が気になった。
聞き返せるような雰囲気でもなかった。
「水道代はこちらで。月額は基本料のみです」
見ると、数字が書いてあった。
東京での水道代の、十分の一以下だった。
「……これは、補助が出ているんですか」
「いいえ。これが正規の金額です」
担当者は、何でもないように言った。
家に帰って、夫に話した。
「知ってた」
「なんで言わなかった」
「言うの忘れてた」
忘れるようなことか、と思った。
「医療費も?」
「ほぼかからない」
「学校は?」
「教材費も含めて、全部町が出す」
夫はコーヒーを飲みながら、本を読んでいた。
特に驚いた様子がない。
「それって、普通じゃないよね」
「普通じゃない」
「なんで、こんなことができるの」
夫は少しだけ本から目を上げた。
「畑」
それだけ言って、また本に戻った。
翌日、散歩に出た。
道を覚えたかった。
海の方へ歩くと、遠くに赤土の畑が見えた。
思ったより広い。
なだらかな傾斜に沿って、一面が広がっている。
特別なものは、何も見えない。
畑の手前に、年配の男性がいた。
膝をついて、土を触っていた。
邪魔をしたくなかった。
足音を立てないように、通り過ぎた。
男性は気づいていたと思う。
だが、振り向かなかった。
スーパーは、一軒だけある。
品揃えは悪くない。
むしろ、野菜が豊富だ。
見たことのない葉物が置いてあった。
値段は、東京より明らかに安い。
レジのおばさんが、袋に詰めながら言った。
「どこから来たの」
「東京です」
「高いでしょ、向こうは」
「ええ」
「こっちは安い。採れるから」
「何が採れるんですか」
「いろいろ」
そう言って、おつりを渡してくれた。
「いろいろ」が何なのかは、分からなかった。
でも、聞き続けていい雰囲気でもなかった。
この町には、「聞かなくていい」という空気がある。
悪意ではない。
隠しているわけでもなさそうだ。
ただ、知らなくても困らないことは、特に説明しない。
東京では、説明されすぎるくらい説明された。
広告も、案内も、注意書きも。
ここは、静かだ。
静かなのに、不自由がない。
一週間が過ぎた。
夫は毎朝早く出て、夕方に帰ってくる。
疲れているが、表情が穏やかだ。
向かいのおばさんが、野菜を持ってきてくれた。
理由は言わなかった。
「うちの畑のやつ。食べられるから」
それだけ言って、帰っていった。
受け取り方が分からなかった。
とりあえず、礼を言った。
夕飯に使った。
おいしかった。
夜、窓から外を見ると、遠くに畑の輪郭が見えた。
暗くて、ほとんど何も分からない。
ただ、そこにある、ということだけは分かる。
あの畑が、この町をこうしているのだと、夫は言った。
水道代も、住民税も、医療費も。
どういう仕組みなのかは、まだ分からない。
分からないまま、恩恵だけ受けている。
少し、落ち着かない気持ちがある。
でも、それが悪いことなのかどうかも、よく分からない。
向かいの家の明かりが、消えた。
この町の夜は、早い。
私も、電気を消した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
町で暮らしている人たちにとっては当たり前のことでも、外から来た人には不思議に見えることがあります。
この先も、さまざまな視点を通して町の日常が描かれていきます。
少しずつ町の輪郭を感じてもらえたら嬉しいです。




