第29話 好きにしろ、と言った
語り手:先代町長 村上正夫(82歳)
◇
冬の朝は、縁側が寒い。
それでも、ここに座る。
茶を飲んで、畑の方を見る。
何十年も、そうしてきた。
今は、遠くに見える畑が、昔と少し違う。
昔は、ただの捨て地だった。
今は、何かになっている。
何になっているのかは、まだよく分からない。
八十二歳になっても、分からないままだ。
◇
息子が町長になって、七年が経つ。
私が辞めて、あいつが引き継いだ。
引き継いだ、というのは正確ではないかもしれない。
私がやっていたことと、あいつがやっていることは、似ているが同じではない。
私は、町長として何をしたか、と言われると、説明が難しい。
普通の仕事をした。
道路を直した。学校を維持した。漁業の補助を続けた。
たいしたことは、していない。
ただ、一つだけやったことがある。
止めなかった。
◇
誠一が、あの土をいじり始めたのは、小学生の頃だ。
誰も見向きもしない区画に、一人で行っていた。
雨の日も行っていた。
家内は心配した。
「友達と遊ばない」
「放っておけ」
止めるべきではないと思っていた。
理由は、あの目だ。
あの目をした人間を止めると、何かが折れる。
折れてしまったら、取り返しがつかない気がした。
根拠はない。ただ、そう感じた。
それだけのことだ。
大した判断ではない。
◇
高校を出て、東北に行くと言ったとき、「行ってこい」と言った。
大学院に行くと言ったとき、また「行ってこい」と言った。
反対しなかった、というより、反対する言葉が見つからなかった。
あいつが農学をやると言ったとき、どうせあの土の話だと分かっていた。
あの捨て地が何になるのか、私には見えなかった。
ただ、あいつには見えていた。
見えていないものが見えている人間に、見えていない側が口を出すのは、おかしい。
それくらいのことは、分かった。
◇
帰ってきて、「使える」と言ったとき、笑った。
なぜ笑ったのか、今でもよく分からない。
おかしかったのか、嬉しかったのか、どちらでもなかったのか。
「なら、やれ」と言った。
細かいことは聞かなかった。
聞いても、私には分からないからだ。
それからの話は、あいつの仕事だった。
私にできることは、そこで終わっていた。
◇
飽きた、と言って辞めたのは、本当のことだ。
ただ、飽きた理由を正確に言うと、自分の出番が終わった気がした、ということだ。
あの頃、町は変わり始めていた。
外から人が来るようになった。
水道代が変わった。医療費が変わった。
私がやることは、もうない。
あとはあいつがやればいい。
そう思った。
邪魔をするより、いなくなる方がいい。
それが筋だと思っていた。
◇
辞めてから、役場には行っていない。
誠一から、仕事の相談が来ることもない。
私も、しない。
ただ、縁側から、その仕事の結果を見ている。
外から来る人間が増えた。
記者も来た。研究者も来た。企業の人間も来た。
誠一が断り続けているのは、聞いている。
どうやって断っているかは、知らない。
ただ、町が変わっていないことは、見れば分かる。
派手なことは何も起きていない。
それが、答えだろうと思っている。
◇
私が町長をやっていた頃、あんな断り方はできなかった。
外から何かが来たとき、断る基準が私の中にはなかった。
あの捨て地が、特別なものだという認識も、正直なところ曖昧だった。
誠一は違う。
あいつは、何を守るべきかを知っている。
子供の頃から、あの土と付き合ってきたからだ。
私は、七十年以上あの土の隣にいたが、何も分からなかった。
誠一は、小学生から分かっていた。
そういうことが、あるのだ。
◇
父のことを、最近よく思い出す。
前の町長。私の父だ。
あの人も、飄々とした人間だった。
あまり多くを語らなかった。
「そうか」か「好きにしろ」か、そのどちらかしか言わなかった気がする。
私が町長になるとき、父は何も言わなかった。
どうしろとも言わず、こうしろとも言わず、ただ「そうか」と言った。
あのとき、少し物足りなかった。
今になって分かる。
あの人も、私に余計なことを言わなかったのだ。
何も言わないことが、引き継ぎだったのだ。
私は誠一に、「好きにしろ」と言った。
父から受け取ったものを、別の言葉で渡した。
それだけのことだ。
◇
誠一が持ち込んだものは、私の代にはなかった。
あの土を使う技術。外の人間を断り続ける判断。
町をこのまま続けさせるという意思。
どれも、私にはなかった。
それが悔しいかというと、そうでもない。
悔しがる理由が、ない。
あいつがやることを、私はやらなくてよかった。
そういうことだ。
誰かがやれることを、誰かがやる。
その誰かが、私ではなく誠一だった。
ただ、それだけのことだ。
◇
縁側の茶が、少し冷めてきた。
畑の方を見ると、今日も赤い。
この冬の光の中で、少し暗めの赤だ。
あの色を、私は何十年見てきたか。
見てきたが、何も見ていなかったに等しい。
誠一は同じ色を見て、何かを見ていた。
子供の頃から。
その差が、何十年後かに、今の形になった。
◇
誠一は、私のことをどう思っているのか、聞いたことがない。
聞く必要がなかった。
あいつは、私に感謝しているわけでもないだろう。
怒っているわけでもないだろう。
ただ、私が止めなかったことは、知っている。
それだけでいい。
親として、それ以上のことは、していない。
していないが、必要なことはそれだけだったと思っている。
◇
茶を飲み干した。
縁側から立ち上がると、膝が少し鳴った。
八十二歳だ。仕方がない。
畑の方を、もう一度見た。
赤い土が、冬の光の中にある。
誠一が、あの土を続けている。
あいつの次の誰かが、また続けていくだろう。
私には、もう関係のないことだ。
ただ、続いていくのだろう、とは思う。
止めなくてよかった。
今も、そう思っている。




