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赤土の畑のとなりで ―人口5000人の町に、何かがある―  作者: 泥靴


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第29話 好きにしろ、と言った

語り手:先代町長 村上正夫(82歳)



冬の朝は、縁側が寒い。


それでも、ここに座る。

茶を飲んで、畑の方を見る。

何十年も、そうしてきた。


今は、遠くに見える畑が、昔と少し違う。

昔は、ただの捨て地だった。

今は、何かになっている。


何になっているのかは、まだよく分からない。

八十二歳になっても、分からないままだ。



息子が町長になって、七年が経つ。


私が辞めて、あいつが引き継いだ。

引き継いだ、というのは正確ではないかもしれない。

私がやっていたことと、あいつがやっていることは、似ているが同じではない。


私は、町長として何をしたか、と言われると、説明が難しい。

普通の仕事をした。

道路を直した。学校を維持した。漁業の補助を続けた。

たいしたことは、していない。


ただ、一つだけやったことがある。


止めなかった。



誠一が、あの土をいじり始めたのは、小学生の頃だ。


誰も見向きもしない区画に、一人で行っていた。

雨の日も行っていた。


家内は心配した。

「友達と遊ばない」

「放っておけ」


止めるべきではないと思っていた。

理由は、あの目だ。


あの目をした人間を止めると、何かが折れる。

折れてしまったら、取り返しがつかない気がした。

根拠はない。ただ、そう感じた。


それだけのことだ。

大した判断ではない。



高校を出て、東北に行くと言ったとき、「行ってこい」と言った。

大学院に行くと言ったとき、また「行ってこい」と言った。


反対しなかった、というより、反対する言葉が見つからなかった。


あいつが農学をやると言ったとき、どうせあの土の話だと分かっていた。

あの捨て地が何になるのか、私には見えなかった。

ただ、あいつには見えていた。


見えていないものが見えている人間に、見えていない側が口を出すのは、おかしい。

それくらいのことは、分かった。



帰ってきて、「使える」と言ったとき、笑った。


なぜ笑ったのか、今でもよく分からない。

おかしかったのか、嬉しかったのか、どちらでもなかったのか。


「なら、やれ」と言った。

細かいことは聞かなかった。

聞いても、私には分からないからだ。


それからの話は、あいつの仕事だった。

私にできることは、そこで終わっていた。



飽きた、と言って辞めたのは、本当のことだ。


ただ、飽きた理由を正確に言うと、自分の出番が終わった気がした、ということだ。


あの頃、町は変わり始めていた。

外から人が来るようになった。

水道代が変わった。医療費が変わった。


私がやることは、もうない。

あとはあいつがやればいい。

そう思った。


邪魔をするより、いなくなる方がいい。

それが筋だと思っていた。



辞めてから、役場には行っていない。


誠一から、仕事の相談が来ることもない。

私も、しない。


ただ、縁側から、その仕事の結果を見ている。


外から来る人間が増えた。

記者も来た。研究者も来た。企業の人間も来た。


誠一が断り続けているのは、聞いている。

どうやって断っているかは、知らない。


ただ、町が変わっていないことは、見れば分かる。

派手なことは何も起きていない。

それが、答えだろうと思っている。



私が町長をやっていた頃、あんな断り方はできなかった。


外から何かが来たとき、断る基準が私の中にはなかった。

あの捨て地が、特別なものだという認識も、正直なところ曖昧だった。


誠一は違う。

あいつは、何を守るべきかを知っている。

子供の頃から、あの土と付き合ってきたからだ。


私は、七十年以上あの土の隣にいたが、何も分からなかった。

誠一は、小学生から分かっていた。


そういうことが、あるのだ。



父のことを、最近よく思い出す。


前の町長。私の父だ。


あの人も、飄々とした人間だった。

あまり多くを語らなかった。

「そうか」か「好きにしろ」か、そのどちらかしか言わなかった気がする。


私が町長になるとき、父は何も言わなかった。

どうしろとも言わず、こうしろとも言わず、ただ「そうか」と言った。


あのとき、少し物足りなかった。


今になって分かる。

あの人も、私に余計なことを言わなかったのだ。

何も言わないことが、引き継ぎだったのだ。


私は誠一に、「好きにしろ」と言った。

父から受け取ったものを、別の言葉で渡した。


それだけのことだ。



誠一が持ち込んだものは、私の代にはなかった。


あの土を使う技術。外の人間を断り続ける判断。

町をこのまま続けさせるという意思。


どれも、私にはなかった。


それが悔しいかというと、そうでもない。

悔しがる理由が、ない。


あいつがやることを、私はやらなくてよかった。

そういうことだ。


誰かがやれることを、誰かがやる。

その誰かが、私ではなく誠一だった。

ただ、それだけのことだ。



縁側の茶が、少し冷めてきた。


畑の方を見ると、今日も赤い。

この冬の光の中で、少し暗めの赤だ。


あの色を、私は何十年見てきたか。

見てきたが、何も見ていなかったに等しい。


誠一は同じ色を見て、何かを見ていた。

子供の頃から。


その差が、何十年後かに、今の形になった。



誠一は、私のことをどう思っているのか、聞いたことがない。


聞く必要がなかった。


あいつは、私に感謝しているわけでもないだろう。

怒っているわけでもないだろう。


ただ、私が止めなかったことは、知っている。

それだけでいい。


親として、それ以上のことは、していない。

していないが、必要なことはそれだけだったと思っている。



茶を飲み干した。


縁側から立ち上がると、膝が少し鳴った。

八十二歳だ。仕方がない。


畑の方を、もう一度見た。


赤い土が、冬の光の中にある。


誠一が、あの土を続けている。

あいつの次の誰かが、また続けていくだろう。


私には、もう関係のないことだ。

ただ、続いていくのだろう、とは思う。


止めなくてよかった。

今も、そう思っている。


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