第28話 海の底と畑の話
語り手:漁師 浜田健一(54歳)
◇
十一月に入って、海が変わった。
水温が下がって、魚の動きが変わる。毎年のことだ。
ただ、今年は少し様子が違った。
赤みのある泥が、春先から入り始めた。
夏を過ぎて、秋になっても、続いていた。
量は増えてはいない。ただ、なくなりもしない。
春から、ずっと確かめてきた。
そろそろ、誠一に話す頃合いだと思った。
◇
誠一に話すのは、難しくない。
三十年以上の付き合いだ。何を言っても、大げさに受け取るような男ではない。
ただ、話すからには、ちゃんと話したかった。
「泥が赤い気がする」だけでは、足りない。
春から何ヶ月か、観察を続けた。
場所の記録を取った。海図に印をつけた。
頻度と量を、ノートに書いた。
自分なりの資料、といえるものが、少しできた。
それを持って行く気にはなれなかった。
誠一に見せるのは、ノートではない。
ノートに書けないことの方が、大事だと思っていた。
◇
会うのは、港にした。
電話で呼んだわけではない。
十一月の半ば、港で作業していると、誠一が歩いてきた。
たまにある。あいつは、ときどき港に来る。
「健一」
「おう」
それだけで、向こうも少し分かった顔をした。
何かあるな、と思っているのが伝わった。
三十年以上、そういうことが分かる。
◇
防波堤の端に、並んで座った。
風があった。
海は少し荒れていた。この時期はそういう日が多い。
「春先から、変なものが網に入る」
「何が」
「泥だ。色が赤い」
誠一はすぐには返事をしなかった。
海の方を見ていた。
「どのあたりで」
「場所による。決まっていない。ただ、以前は入らなかった」
「量は」
「多くはない。ただ、なくなりもしない」
また少し間があった。
「色は、どんな赤だ」
その質問を、誠一がするのは分かっていた。
「あの畑の土に、似ている」
◇
誠一は何も言わなかった。
海を見ていた。
俺も、特に何も言わなかった。
言いたいことは言った。あとは向こうが考える。
しばらくして、誠一が言った。
「いつ頃から」
「三月の終わりに最初に気づいた。四月、五月と続いて、夏を越した」
「魚への影響は」
「種類が少し変わった。量じゃない。入るものが変わった」
「今も続いているか」
「今朝も入った」
誠一は、少し頷いた。
深く頷く、ではない。ただ、受け取った、という感じの動き方だった。
◇
「つながっているかもしれない」
誠一が言った。
「かもしれない、と思っている」と俺は言った。
「証拠はない」
「ない」
「確かめる方法も、今のところない」
「俺にはない。あんたの方が、何か分かるかと思っていた」
誠一は少し笑った。笑うような場面ではないかもしれないが、誠一はそういうときに笑うことがある。
「私も、分からない」
「そうか」
「ただ、あの畑は、この土地の全部とつながっている気はずっとしている。海も含めて」
「気がするだけか」
「気がするだけだ。証明はできない」
◇
港の向こうに、海が広がっている。
春に赤い泥が入った漁場は、ここから見えない。沖の方だ。
「他の漁師には言ったか」と誠一が聞いた。
「言っていない。色のことは、俺以外は気にしていない」
「なぜ気にした」
「畑のことを知っているからだろう。あの土の色を、子供の頃から見ている」
誠一はまた少し黙った。
「話してくれて、よかった」
「遅くなった」
「急ぐ話じゃない」
「そう思って、待っていた」
◇
「これから、どうする」と俺は聞いた。
「続けて見る」と誠一は言った。
「それだけか」
「それだけだ。今のところ」
「俺もそうする。記録は続ける」
「何かあれば、また話してくれ」
「ああ」
それで、話は終わった。
解決はない。結論もない。
ただ、言うべきことを言った。
誠一に受け取ってもらった。
それだけだったが、それで十分だった。
◇
誠一が帰った後、もう少し港にいた。
この港に立つのは、三十五年になる。
子供の頃から来ていたから、もっと長い。
海は変わる。毎年少しずつ変わる。
水温が変わり、流れが変わり、魚の動きが変わる。
漁師はその変化に付き合うしかない。
赤い泥も、その変化の一つかもしれない。
何かの始まりかもしれない。
あるいは、一時的なことかもしれない。
どちらかは、今は分からない。
分からないまま、海に出るしかない。
それは、漁師として、ずっとやってきたことだ。
◇
畑と海がつながっている、というのは、証明できない話だ。
ただ、この町の地面の下で、何かがつながっていることは、ずっと前から感じていた。
子供の頃、波止場から畑の方向を見ると、なんとなく、同じものを見ている気がした。
うまく言えない。ただ、そういう感じがあった。
誠一が畑をやり始めたとき、俺は「そうか」と思った。
あいつがやるべきことを、やっているという感じがした。
俺は海をやる。あいつは畑をやる。
それで、何かが続く。
そういうことだと、なんとなく思っていた。
今回の話は、その「なんとなく」が、少し具体的になっただけかもしれない。
◇
翌朝、いつも通りに船を出した。
まだ暗かった。星が少し出ていた。
港を出ると、風が来た。
冷たかった。
海は静かだった。この時期にしては、穏やかな朝だ。
網を入れて、待つ。
引き上げて、確認する。
今朝も、泥が少し入った。
手に取って、見た。
赤みがある。
変わっていない。
続いている。
それだけのことを、ノートに書いた。
誠一にも、また話す日が来るだろう。
その日まで、見続ける。
海は急がない。
俺も、急がない。




