第30話(最終話) 続いていくもの
語り手:町長 村上誠一(56歳)
◇
冬の朝は、まだ暗い。
家を出るのは、いつも六時前だ。
役場が開く前に、畑を一度見て回るのが、習慣になっている。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、そうしている。
外に出ると、息が白かった。
風はない。
冷たい空気が、頬に当たるだけだった。
◇
畑までの道は、何百回も歩いている。
舗装された道を二百メートル。
右に曲がって、土の道に入る。
そこから三百メートルで、畑の端に着く。
子供の頃から、同じ道だ。
小学生の頃は、もっと速く歩けた。
今は、少し遅くなった。
それも当たり前のことだ。
土の道に入ると、霜が降りていた。
踏むと、少し音がする。
その音を聞きながら、ゆっくり歩いた。
◇
畑の柵の前に着くと、空が少しだけ明るくなり始めていた。
赤土の色は、まだはっきりしない。
夜明け前の畑は、いつも灰色に見える。
光が入ると、赤くなる。
それが、毎朝の小さな変化だ。
鍵を開けて、中に入った。
誰もいない。
当たり前だ。
この時間に、ここに来る人間は、私以外にいない。
しゃがんで、土に手をついた。
冷たかった。
霜は、表面にだけ降りていた。
少し掘ると、その下は、いつもの温度だった。
◇
去年の今頃、私はここで何を考えていただろう。
正確には思い出せない。
ただ、似たような朝だったような気がする。
冬は、訪問が少ない季節だ。
研究者も、企業の担当者も、雪の降りそうな町には、あまり来ない。
電話やメールは続くが、面会のアポは減る。
その分、考える時間が増える。
考える時間が増えると、答えが出るかというと、出ない。
ただ、考えながら過ごす日が増える。
それだけのことだ。
◇
今年も、いろいろあった。
岸本という記者が、もう一度来たらしい。
中島が、すれ違いに会ったと言っていた。
ノートを持っていたが、開いていなかった、と。
健一が、海の底の泥のことを話しに来た。
あれは、十一月だった。
赤い泥が網に入ると言っていた。
あの色を、私も思った。
蓮が、秋に三年ぶりに土に触りに来た。
父親と一緒に来た。少し背が伸びていた。
質問を、いくつかしてきた。
答えられたものと、答えられなかったものがあった。
そういう一年だった。
派手なことは、何も起きていない。
ただ、いつも通りに、いろんなことが、いろんな場所で続いていた。
◇
今朝、畑の端に、何かが落ちているのに気づいた。
近づいて、拾った。
小さな紙の切れ端だった。
鉛筆で、何か書いてある。
「11月の土はひんやりしていた」
それだけだった。
筆跡には覚えがあった。
蓮のノートを、夏に少し見せてもらったことがある。
あの字だった。
最近、また来ていたのかもしれない。
柵の外から見るだけだろうが、それでも、来ていた。
ノートを取り出して、書きながら、紙を一枚落としたのだろう。
紙を、ポケットに入れた。
取っておこうかと思ったが、しばらく考えて、また畑の中に置いた。
あいつのノートに、戻すのが筋だと思った。
今度会ったときに、渡そう。
◇
子供の頃、私もここに来ていた。
誰も来ない区画に、一人で来ていた。
ノートを取っていた。
書いていたことは、今のあいつとそう変わらないだろう。
「今日の土はやわらかい」
「昨日より赤い気がする」
「雨の翌日は、においが違う」
そういう類のことだった。
五十年経って、それを書いた紙は、もう一枚も残っていない。
ただ、書いていた時間は、残っている。
あの時間が、私を今の私にした。
そういうことだと、最近思う。
◇
蓮が、あの紙に書いていることが、五十年後にどうなっているかは、分からない。
あいつがどうなっているかも、分からない。
医者になるかもしれないし、別の何かになるかもしれない。
この町に残るかもしれないし、出ていくかもしれない。
ただ、十一月の土がひんやりしていた、と書いた事実は、もう動かない。
誰がそれを読まなくても、なくならない。
そういうものが、人間の中に少しずつ積もっていく。
積もったものが、いつか、その人の動き方を決める。
私の場合は、それが畑になった。
あいつの場合は、何になるかは分からない。
ただ、何かになる、ということは、たぶん同じだろうと思う。
◇
役場に着くと、まだ職員は誰も来ていなかった。
電気をつけて、ストーブを入れる。
湯を沸かして、茶を淹れる。
そういう小さな仕事を、自分でする。
机の上に、書類が積んである。
朝のうちに、目を通しておきたいものがいくつかある。
ペンを持って、書類を開いた。
いつもの仕事だ。
派手なことは何もない。
ただ、これを毎日続けてきた。
続けてきたから、町が今の形になっている。
続けることに、特別な意味はない。
ただ、続けないと、続かない。
それだけのことだ。
◇
九時に、中島が来た。
「町長、おはようございます」
「ああ」
「今日の移住相談、午後にお一人入っています」
「分かった」
「看護師の方です。話していて、感じはよかったです」
「そうか」
「では、また午後に」
中島は出ていった。
あの男は、最初は不安そうだった。
今は、少し落ち着いている。
基準は、まだ言葉にしていないと思う。
それでいい。
言葉にしないまま使う、というのを、この町は何代もやってきた。
あいつも、その一人になりつつある。
◇
午前中、書類を片付けた。
昼に少し、外を歩いた。
冬の空気が、変わらず冷たかった。
ふと、波止場の方に足が向いた。
健一の船は、もう戻っていた。
朝早く出て、昼前に帰る。それが冬の漁師の動き方だ。
港の端に、健一がいた。
網を直していた。
「誠一」
「健一」
しばらく、横に座った。
「冬の海は、どうだ」
「変わらん。泥はまだ入る」
「色は」
「変わらん」
それで会話が終わった。
お互いに、それで十分だった。
立ち上がって、役場に戻った。
◇
夕方、また畑に行った。
朝と違って、もう光がない。
赤土の色は、暗い赤になっていた。
明日もここに来るだろう。
明日も、その次の日も、たぶん来る。
来られなくなる日まで、来る。
来られなくなる日のことは、まだ考えていない。
五十六歳だ。
父は八十二まで生きている。私もそれくらいは、たぶん生きる。
ただ、いつかは終わる。
そのとき、誰かが、ここに来るかもしれない。
今のところ、決まった後継者はいない。
息子もいないし、職員にも適任がまだいない。
ただ、誰かは来るだろうと思う。
蓮が来るかもしれない。
朔が来るかもしれない。
あるいは、まだ会っていない誰かが来るかもしれない。
決めなくていい。
決めようとすると、たぶん、決まらない。
◇
赤土の色は、夕方の光の中で、少し沈んでいた。
この色を、私は何十年見てきた。
父も見ていた。父の父も見ていた。
五十年前、誰も見向きもしなかった頃から、ここにあった。
今は、外からも見られるようになった。
それでも、土は変わっていない。
見られても、変わらない。
それが、この土の強さだと思っている。
人間は、見られると変わる。
褒められれば嬉しくなり、批判されれば気にする。
土は、そういうことがない。
赤土の隣で、何代も人が暮らしてきた。
その人たちも、少しずつ、土に似てきたのかもしれない。
見られても、変わらない。
褒められても、断る。
分からないことを、分からないまま続ける。
そういう町に、なった。
なった、というより、もともとそうだったのかもしれない。
◇
家に戻ると、暗くなっていた。
縁側の電気は、消えていた。
父は、もう寝たらしい。
八時を過ぎると、たいてい寝ている。
茶を淹れて、自分の部屋に持っていった。
ノートを開いた。
役場に提出する書類とは別に、自分のためのノートが、机の引き出しに入っている。
子供の頃から書いている、土のノートの続きだ。
今日のページに、書いた。
「冬の朝、霜が降りていた。掘ると下はいつも通り。蓮が紙を落としていた。十一月の土はひんやりしていた、と」
それだけ書いて、ノートを閉じた。
◇
このノートは、誰にも見せない。
ただ、書く。
五十年、そうしてきた。
このノートを誰かが読むことは、たぶんない。
読まれなくても、いい。
書くことが、私の続け方だからだ。
蓮が、あいつのノートを書き続けるかどうかは、分からない。
書き続けてくれたら、いい。
書き続けてくれなくても、別の誰かが、別の何かを書き続ける。
そういうふうに、続いていく。
続いていく中に、自分が入っている。
それだけのことが、思っていたより、十分なことだ。
◇
電気を消して、布団に入った。
明日も六時前に起きる。
畑に行く。
冷たい土に手をついて、色を見て、戻る。
一年後も、たぶん同じことをしている。
十年後も、まだしているかもしれない。
していないときが来たら、誰かがその時間に、別の形で、何かを始めているだろう。
赤土は、そこにあり続ける。
私たちは、その隣で生きてきた。
これからも、そうやって、続いていく。
それが、この町だ。
(了)




