表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤土の畑のとなりで ―人口5000人の町に、何かがある―  作者: 泥靴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/32

第30話(最終話) 続いていくもの

語り手:町長 村上誠一(56歳)



冬の朝は、まだ暗い。


家を出るのは、いつも六時前だ。

役場が開く前に、畑を一度見て回るのが、習慣になっている。

誰に頼まれたわけでもない。

ただ、そうしている。


外に出ると、息が白かった。

風はない。

冷たい空気が、頬に当たるだけだった。



畑までの道は、何百回も歩いている。


舗装された道を二百メートル。

右に曲がって、土の道に入る。

そこから三百メートルで、畑の端に着く。


子供の頃から、同じ道だ。

小学生の頃は、もっと速く歩けた。

今は、少し遅くなった。

それも当たり前のことだ。


土の道に入ると、霜が降りていた。

踏むと、少し音がする。

その音を聞きながら、ゆっくり歩いた。



畑の柵の前に着くと、空が少しだけ明るくなり始めていた。


赤土の色は、まだはっきりしない。

夜明け前の畑は、いつも灰色に見える。

光が入ると、赤くなる。

それが、毎朝の小さな変化だ。


鍵を開けて、中に入った。

誰もいない。

当たり前だ。

この時間に、ここに来る人間は、私以外にいない。


しゃがんで、土に手をついた。

冷たかった。

霜は、表面にだけ降りていた。

少し掘ると、その下は、いつもの温度だった。



去年の今頃、私はここで何を考えていただろう。


正確には思い出せない。

ただ、似たような朝だったような気がする。


冬は、訪問が少ない季節だ。

研究者も、企業の担当者も、雪の降りそうな町には、あまり来ない。

電話やメールは続くが、面会のアポは減る。


その分、考える時間が増える。

考える時間が増えると、答えが出るかというと、出ない。

ただ、考えながら過ごす日が増える。

それだけのことだ。



今年も、いろいろあった。


岸本という記者が、もう一度来たらしい。

中島が、すれ違いに会ったと言っていた。

ノートを持っていたが、開いていなかった、と。


健一が、海の底の泥のことを話しに来た。

あれは、十一月だった。

赤い泥が網に入ると言っていた。

あの色を、私も思った。


蓮が、秋に三年ぶりに土に触りに来た。

父親と一緒に来た。少し背が伸びていた。

質問を、いくつかしてきた。

答えられたものと、答えられなかったものがあった。


そういう一年だった。

派手なことは、何も起きていない。

ただ、いつも通りに、いろんなことが、いろんな場所で続いていた。



今朝、畑の端に、何かが落ちているのに気づいた。


近づいて、拾った。

小さな紙の切れ端だった。

鉛筆で、何か書いてある。


「11月の土はひんやりしていた」


それだけだった。


筆跡には覚えがあった。

蓮のノートを、夏に少し見せてもらったことがある。

あの字だった。


最近、また来ていたのかもしれない。

柵の外から見るだけだろうが、それでも、来ていた。

ノートを取り出して、書きながら、紙を一枚落としたのだろう。


紙を、ポケットに入れた。

取っておこうかと思ったが、しばらく考えて、また畑の中に置いた。

あいつのノートに、戻すのが筋だと思った。

今度会ったときに、渡そう。



子供の頃、私もここに来ていた。


誰も来ない区画に、一人で来ていた。

ノートを取っていた。

書いていたことは、今のあいつとそう変わらないだろう。


「今日の土はやわらかい」

「昨日より赤い気がする」

「雨の翌日は、においが違う」


そういう類のことだった。

五十年経って、それを書いた紙は、もう一枚も残っていない。


ただ、書いていた時間は、残っている。

あの時間が、私を今の私にした。

そういうことだと、最近思う。



蓮が、あの紙に書いていることが、五十年後にどうなっているかは、分からない。


あいつがどうなっているかも、分からない。

医者になるかもしれないし、別の何かになるかもしれない。

この町に残るかもしれないし、出ていくかもしれない。


ただ、十一月の土がひんやりしていた、と書いた事実は、もう動かない。

誰がそれを読まなくても、なくならない。


そういうものが、人間の中に少しずつ積もっていく。

積もったものが、いつか、その人の動き方を決める。


私の場合は、それが畑になった。

あいつの場合は、何になるかは分からない。

ただ、何かになる、ということは、たぶん同じだろうと思う。



役場に着くと、まだ職員は誰も来ていなかった。


電気をつけて、ストーブを入れる。

湯を沸かして、茶を淹れる。

そういう小さな仕事を、自分でする。


机の上に、書類が積んである。

朝のうちに、目を通しておきたいものがいくつかある。


ペンを持って、書類を開いた。

いつもの仕事だ。

派手なことは何もない。


ただ、これを毎日続けてきた。

続けてきたから、町が今の形になっている。

続けることに、特別な意味はない。

ただ、続けないと、続かない。

それだけのことだ。



九時に、中島が来た。


「町長、おはようございます」

「ああ」


「今日の移住相談、午後にお一人入っています」

「分かった」

「看護師の方です。話していて、感じはよかったです」

「そうか」


「では、また午後に」


中島は出ていった。


あの男は、最初は不安そうだった。

今は、少し落ち着いている。

基準は、まだ言葉にしていないと思う。

それでいい。


言葉にしないまま使う、というのを、この町は何代もやってきた。

あいつも、その一人になりつつある。



午前中、書類を片付けた。


昼に少し、外を歩いた。

冬の空気が、変わらず冷たかった。


ふと、波止場の方に足が向いた。


健一の船は、もう戻っていた。

朝早く出て、昼前に帰る。それが冬の漁師の動き方だ。


港の端に、健一がいた。

網を直していた。


「誠一」

「健一」


しばらく、横に座った。


「冬の海は、どうだ」

「変わらん。泥はまだ入る」

「色は」

「変わらん」


それで会話が終わった。

お互いに、それで十分だった。


立ち上がって、役場に戻った。



夕方、また畑に行った。


朝と違って、もう光がない。

赤土の色は、暗い赤になっていた。


明日もここに来るだろう。

明日も、その次の日も、たぶん来る。

来られなくなる日まで、来る。


来られなくなる日のことは、まだ考えていない。

五十六歳だ。

父は八十二まで生きている。私もそれくらいは、たぶん生きる。

ただ、いつかは終わる。


そのとき、誰かが、ここに来るかもしれない。

今のところ、決まった後継者はいない。

息子もいないし、職員にも適任がまだいない。


ただ、誰かは来るだろうと思う。


蓮が来るかもしれない。

朔が来るかもしれない。

あるいは、まだ会っていない誰かが来るかもしれない。


決めなくていい。

決めようとすると、たぶん、決まらない。



赤土の色は、夕方の光の中で、少し沈んでいた。


この色を、私は何十年見てきた。

父も見ていた。父の父も見ていた。

五十年前、誰も見向きもしなかった頃から、ここにあった。


今は、外からも見られるようになった。

それでも、土は変わっていない。

見られても、変わらない。


それが、この土の強さだと思っている。


人間は、見られると変わる。

褒められれば嬉しくなり、批判されれば気にする。

土は、そういうことがない。


赤土の隣で、何代も人が暮らしてきた。

その人たちも、少しずつ、土に似てきたのかもしれない。


見られても、変わらない。

褒められても、断る。

分からないことを、分からないまま続ける。


そういう町に、なった。

なった、というより、もともとそうだったのかもしれない。



家に戻ると、暗くなっていた。


縁側の電気は、消えていた。

父は、もう寝たらしい。

八時を過ぎると、たいてい寝ている。


茶を淹れて、自分の部屋に持っていった。


ノートを開いた。

役場に提出する書類とは別に、自分のためのノートが、机の引き出しに入っている。

子供の頃から書いている、土のノートの続きだ。


今日のページに、書いた。


「冬の朝、霜が降りていた。掘ると下はいつも通り。蓮が紙を落としていた。十一月の土はひんやりしていた、と」


それだけ書いて、ノートを閉じた。



このノートは、誰にも見せない。


ただ、書く。

五十年、そうしてきた。


このノートを誰かが読むことは、たぶんない。

読まれなくても、いい。

書くことが、私の続け方だからだ。


蓮が、あいつのノートを書き続けるかどうかは、分からない。

書き続けてくれたら、いい。

書き続けてくれなくても、別の誰かが、別の何かを書き続ける。


そういうふうに、続いていく。

続いていく中に、自分が入っている。

それだけのことが、思っていたより、十分なことだ。



電気を消して、布団に入った。


明日も六時前に起きる。

畑に行く。

冷たい土に手をついて、色を見て、戻る。


一年後も、たぶん同じことをしている。

十年後も、まだしているかもしれない。


していないときが来たら、誰かがその時間に、別の形で、何かを始めているだろう。


赤土は、そこにあり続ける。

私たちは、その隣で生きてきた。

これからも、そうやって、続いていく。


それが、この町だ。


(了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ