第26話 書ける範囲で、書く
語り手:土壌研究者 松田浩二(45歳)
◇
あの畑を訪れてから、一年が経った。
フィールドノートは、引き出しに入れたままになっている。
開けるたびに、少し考えて、また閉める。
それを、何度か繰り返した。
データは、ある。
ただ、そのデータで何かを書けるかどうかが、ずっと決まらなかった。
◇
研究者として、データは書くためにある。
引き出しに入れたままにする理由は、本来ない。
ただ、今回は少し事情が違った。
現地で測った数値と、ラボで出た数値が、大きく食い違った。
採取量が少なすぎた可能性。輸送中の環境変化。乾燥による組成の変化。
説明の候補は、いくつかある。
どれも否定はできない。
ただ、これほどの差を全部説明できるとも、正直思っていない。
そこで止まっていた。
◇
今年の春、同じ研究分野の同僚と話す機会があった。
学内の研究会で、土壌分析の手法について議論する場だった。
その流れで、あの町のデータを少し出した。詳細は伏せたまま、数値の乖離だけを見せた。
同僚は、少し黙ってから言った。
「これ、どこのデータ?」
「特定の地域の土壌。詳しくは言えないけど」
「輸送誤差にしては、大きすぎるな」
「そう思う」
「測定器の問題じゃなくて?」
「確認した。問題なかった」
しばらく考えてから、同僚は言った。
「こういうデータ、たまに出るんだよ。説明できないやつ。ほとんどは、誰も発表しない」
「なんで」
「査読が通らないから。あるいは、自分でも信用できなくて」
その言い方が、少し残った。
◇
査読が通らない、というのは、現実的な問題だ。
科学論文は、手順の妥当性と結果の再現性を根拠にする。
現地でしか出ない数値、というのは、再現性の観点から致命的に弱い。
「もう一度同じ場所で測れば、同じ数値が出るかもしれない」では、論文にならない。
ただ、発表しない、という選択も、また違う気がしていた。
あの数値は、確かにあった。
あの畑の土の質感、においは、確かにあった。
それを、引き出しの中に留めておくことが、誠実かどうか。
研究者として、少し迷った。
◇
六月のある夜、デスクに座って、ノートを開いた。
まず、書けることを書き出した。
土壌の物理的特性については、現地での観察と簡易測定の結果をそのまま使える。
粘土質が強く、保水性が高い。通気性は良くない。
微生物の多様性については、目視と簡易キットの範囲でいくつかの観察がある。
これだけで、短い報告にはなる。
問題は、現地とラボの数値の乖離だ。
これを論文に入れるかどうか。入れるとすれば、どう書くか。
◇
「書ける範囲で書く」という言葉が、頭に浮かんだ。
書ける範囲で書く、というのは、妥協のように聞こえる。
研究者として、全部を解明してから発表するのが理想だろう、という気持ちもある。
ただ、全部解明できない場合に、何も書かないでいることが正しいかどうかは、別の話だ。
書ける範囲で書いて、書けない部分を「書けない」と明示する。
それも、一つの誠実さだと思った。
◇
乖離の部分について、文章を書いてみた。
「現地測定値とラボ分析値の間に有意な差が認められた。差の原因としては、採取量の少なさ、輸送中の環境変化、乾燥による組成変化が考えられるが、いずれも差の全体を説明するには不十分であった。この点については、今後の追加調査が必要である」
何度か読み返した。
嘘はない。誇張もない。ただ、本当のことを全部書いているかというと、そうでもない。
「今後の追加調査」と書いたが、追加調査ができる見込みは、今のところない。
サンプルの提供は断られたままだ。再訪の計画もない。
それでも、この文章が嘘だとは思わない。
今後、誰かが調査できるかもしれない。
私ではなくても。
◇
一つだけ、書かなかったことがある。
あの土は、あそこにあるから、あの土なのかもしれない。
持ち出した時点で、何かが変わる。
だから、数値が合わなかった。
この考えは、一年前から頭を離れていない。
ただ、これは論文に書ける話ではない。
証明する方法がない。仮説として提出できる形でもない。
研究者が論文に書いていいのは、証拠のある話か、検証可能な仮説だ。
「持ち出すと変わる」は、そのどちらでもない。
だから、書かなかった。
ただ、頭の中には、あり続けている。
◇
八月の終わりに、論文を投稿した。
タイトルは、「特異な土壌環境における微生物活性の予備的観察」にした。
「予備的」という言葉を使ったのは、これが結論ではなく、入口であることを示したかったからだ。
査読結果が戻ってくるのは、数ヶ月後だろう。
通るかどうかは、分からない。
◇
投稿した夜、少しだけ気持ちが軽くなった。
書いたものが正しいかどうかは、査読者が判断する。
書けなかったものは、まだ引き出しの中にある。
ただ、書けることを書いた。
それは、一年前には、できていなかったことだ。
データは引き出しに入れたままにしていた。
それを出した。書いた。出した。
それだけのことだが、研究者としては、それが仕事だと思っている。
◇
投稿の翌日、ふと気になって、あの町の方向を地図で確認した。
特に意味はない。
ただ、思い出した。
あの朝の土のにおい。似ているものが、どこにも見当たらなかったにおい。
膝をついて触ったときの、湿った重さ。
論文には書けなかった。
ただ、あれは確かにあった。
それだけのことを、確認したかっただけだ。




