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第26話 書ける範囲で、書く

語り手:土壌研究者 松田浩二(45歳)



あの畑を訪れてから、一年が経った。


フィールドノートは、引き出しに入れたままになっている。

開けるたびに、少し考えて、また閉める。

それを、何度か繰り返した。


データは、ある。

ただ、そのデータで何かを書けるかどうかが、ずっと決まらなかった。



研究者として、データは書くためにある。


引き出しに入れたままにする理由は、本来ない。

ただ、今回は少し事情が違った。


現地で測った数値と、ラボで出た数値が、大きく食い違った。

採取量が少なすぎた可能性。輸送中の環境変化。乾燥による組成の変化。

説明の候補は、いくつかある。


どれも否定はできない。

ただ、これほどの差を全部説明できるとも、正直思っていない。


そこで止まっていた。



今年の春、同じ研究分野の同僚と話す機会があった。


学内の研究会で、土壌分析の手法について議論する場だった。

その流れで、あの町のデータを少し出した。詳細は伏せたまま、数値の乖離だけを見せた。


同僚は、少し黙ってから言った。


「これ、どこのデータ?」

「特定の地域の土壌。詳しくは言えないけど」

「輸送誤差にしては、大きすぎるな」

「そう思う」

「測定器の問題じゃなくて?」

「確認した。問題なかった」


しばらく考えてから、同僚は言った。


「こういうデータ、たまに出るんだよ。説明できないやつ。ほとんどは、誰も発表しない」

「なんで」

「査読が通らないから。あるいは、自分でも信用できなくて」


その言い方が、少し残った。



査読が通らない、というのは、現実的な問題だ。


科学論文は、手順の妥当性と結果の再現性を根拠にする。

現地でしか出ない数値、というのは、再現性の観点から致命的に弱い。

「もう一度同じ場所で測れば、同じ数値が出るかもしれない」では、論文にならない。


ただ、発表しない、という選択も、また違う気がしていた。


あの数値は、確かにあった。

あの畑の土の質感、においは、確かにあった。

それを、引き出しの中に留めておくことが、誠実かどうか。


研究者として、少し迷った。



六月のある夜、デスクに座って、ノートを開いた。


まず、書けることを書き出した。


土壌の物理的特性については、現地での観察と簡易測定の結果をそのまま使える。

粘土質が強く、保水性が高い。通気性は良くない。

微生物の多様性については、目視と簡易キットの範囲でいくつかの観察がある。


これだけで、短い報告にはなる。


問題は、現地とラボの数値の乖離だ。

これを論文に入れるかどうか。入れるとすれば、どう書くか。



「書ける範囲で書く」という言葉が、頭に浮かんだ。


書ける範囲で書く、というのは、妥協のように聞こえる。

研究者として、全部を解明してから発表するのが理想だろう、という気持ちもある。


ただ、全部解明できない場合に、何も書かないでいることが正しいかどうかは、別の話だ。


書ける範囲で書いて、書けない部分を「書けない」と明示する。

それも、一つの誠実さだと思った。



乖離の部分について、文章を書いてみた。


「現地測定値とラボ分析値の間に有意な差が認められた。差の原因としては、採取量の少なさ、輸送中の環境変化、乾燥による組成変化が考えられるが、いずれも差の全体を説明するには不十分であった。この点については、今後の追加調査が必要である」


何度か読み返した。


嘘はない。誇張もない。ただ、本当のことを全部書いているかというと、そうでもない。


「今後の追加調査」と書いたが、追加調査ができる見込みは、今のところない。

サンプルの提供は断られたままだ。再訪の計画もない。


それでも、この文章が嘘だとは思わない。

今後、誰かが調査できるかもしれない。

私ではなくても。



一つだけ、書かなかったことがある。


あの土は、あそこにあるから、あの土なのかもしれない。

持ち出した時点で、何かが変わる。

だから、数値が合わなかった。


この考えは、一年前から頭を離れていない。


ただ、これは論文に書ける話ではない。

証明する方法がない。仮説として提出できる形でもない。


研究者が論文に書いていいのは、証拠のある話か、検証可能な仮説だ。

「持ち出すと変わる」は、そのどちらでもない。


だから、書かなかった。

ただ、頭の中には、あり続けている。



八月の終わりに、論文を投稿した。


タイトルは、「特異な土壌環境における微生物活性の予備的観察」にした。

「予備的」という言葉を使ったのは、これが結論ではなく、入口であることを示したかったからだ。


査読結果が戻ってくるのは、数ヶ月後だろう。

通るかどうかは、分からない。



投稿した夜、少しだけ気持ちが軽くなった。


書いたものが正しいかどうかは、査読者が判断する。

書けなかったものは、まだ引き出しの中にある。


ただ、書けることを書いた。

それは、一年前には、できていなかったことだ。


データは引き出しに入れたままにしていた。

それを出した。書いた。出した。


それだけのことだが、研究者としては、それが仕事だと思っている。



投稿の翌日、ふと気になって、あの町の方向を地図で確認した。


特に意味はない。

ただ、思い出した。


あの朝の土のにおい。似ているものが、どこにも見当たらなかったにおい。

膝をついて触ったときの、湿った重さ。


論文には書けなかった。

ただ、あれは確かにあった。


それだけのことを、確認したかっただけだ。


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