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第24話 持って帰るもの

語り手:宮本さや(19歳・医学部2年)



大学に来て、一年半が経つ。


朝のバスには、知らない人間が乗っている。

顔を見ても、どこで降りるか分からない。

それが、まだ少し落ち着かない。



医学部に入ったのは、去年の春だ。


県外の、大きな国立大学だ。

キャンパスは広くて、人が多い。

最初の一ヶ月は、人の多さに少し疲れた。

今は慣れた。慣れたから疲れなくなった、というより、気にしなくなった。


授業の難しさは、思っていた通りだった。

予習と復習を繰り返す。

それは、高校のときとやることが変わらない。



同じ学部に、石川という男がいる。


出身は、都市部だ。

頭が良くて、要領もいい。

よく話しかけてくる。


先月、学食で一緒に飯を食っていたとき、石川が言った。


「宮本って、バイトしてないよな」

「してない」

「親が金持ちなの」

「そうじゃないけど」

「奨学金?」

「町が出してくれてる」

「町が? 市が?」

「市じゃなくて、小さい町。うちの出身の」

「何それ。なんで」

「なんでって言われると、うまく説明できないんだけど」


石川は少し変な顔をして、また飯を食い始めた。

「変わってるな」と言った。

悪い意味じゃない感じだった。



それが気になって、夜に少し考えた。


奨学金を借りている同級生は、たくさんいる。

家が遠いからアパートを借りて、その費用も自分で出している人間もいる。

バイトと授業を両立させながら、それでも休まない人を知っている。


私はそれを、今まであまり意識していなかった。


生活に困っていないから、考えなかった。

考えなくて済む状況に、ずっといた。



帰省したとき、親に聞いたことがある。


「うちの町って、なんで学費を出してくれるの」

「あの畑のおかげでしょ」と母は言った。

「あの畑って、何を作ってるの」

「さあ。野菜じゃないとは思うけど」


それ以上の答えは、出なかった。


中学のときに一度だけ来た講師の先生が言っていた。

「普通に暮らせる条件が、最初から揃っているところ」


あのとき、よく分からなかった。

今も、完全には分からない。

ただ、少し輪郭が見えてきた気はした。



大学に来て、初めて分かったことがある。


お金のことを心配しながら勉強するのは、しんどい、ということだ。

当たり前のことだが、当事者でないと分からなかった。


石川は成績が良い。要領も良い。

それでも、バイトが忙しかった週は、顔が少し疲れている。

本人は言わないが、見ていると分かる。


私は、そういう疲れ方を、したことがない。


それが当たり前だと思っていた。

違った。



医者になりたいと思った理由を、今もうまく言えない。


ただ、小さい頃の記憶がある。


祖母が入院していたとき、病院の廊下で待っていた。

看護師が通った。

忙しそうだったのに、足を止めて、「大丈夫よ」と言ってくれた。

それだけだった。


あのとき、何かが動いた。

それが今につながっている。



同級生に、地元の話をすることがある。


町の規模を話すと、だいたい驚かれる。

「そんな小さいのに大きい病院あるの」と言われる。

「学費を全部出してくれるって、本当に」と言われる。


毎回、うまく説明できない。


「赤土の畑があって、それが財源になってる」と言っても、伝わらない。

「なんの畑?」「農業系?」「農業でそんなに稼げるの?」

質問が来て、私は止まる。


詳しいことは、知らないからだ。


生まれた頃から、あの畑はそこにあった。

何を作っているか、なぜあれほどの価値があるのか、誰も教えてくれなかったし、聞こうとも思わなかった。


知らなくても困らなかったから。



今は、困っていないが、知りたいと思う。


知りたいのは、仕組みではない。

何が、あの土地をそうしたのか、という部分だ。

いや、それも正確じゃない。


何を持って帰るかを、考え始めた、ということだと思う。



帰省したとき、バスに乗った。


一番後ろに座った。

窓の外に、赤土の畑が見えた。


高校の頃と、変わらない景色だった。


ただ、見え方が少し変わった気がした。


「あそこがあるから、自分はここにいる」という感覚が、前よりはっきりしていた。

感謝、と呼ぶには少し違う。

ただ、知らなかった頃より、一枚、近づいた感じがした。



来年、病院実習が始まる。


外来で、患者と話す。

検査の意味を、少しずつ覚えていく。


医者になっても、全部が分かるわけじゃない、というのは、入って一年で分かった。

分からないまま、それでも判断していく仕事だ、ということも。


あの畑のことも、そうかもしれない。

全部分からなくても、そこにあり続ける。

それで十分な何かが、あるのかもしれない。



この町で医者になりたい、という気持ちは、変わっていない。


ただ、高校のときより、少し中身が変わった。


あの頃は、「この町がいい」という感覚だった。

今は、「この町に何かを戻したい」という感覚に近い。


受け取ってきたものが、ある。

それを持って帰る。

形は、まだ分からない。


ただ、そういうことだと思っている。



朝のバスで、窓の外を見る。


大学のある町の、見慣れた風景だ。


知らない人が乗っていて、どこで降りるか分からない。


それでも、前より少し落ち着いている。


帰る場所があると、知っているからかもしれない。

帰ったとき、何を持って帰るかを、少しずつ考えているからかもしれない。


どちらでも、たぶん、いい。


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