第24話 持って帰るもの
語り手:宮本さや(19歳・医学部2年)
◇
大学に来て、一年半が経つ。
朝のバスには、知らない人間が乗っている。
顔を見ても、どこで降りるか分からない。
それが、まだ少し落ち着かない。
◇
医学部に入ったのは、去年の春だ。
県外の、大きな国立大学だ。
キャンパスは広くて、人が多い。
最初の一ヶ月は、人の多さに少し疲れた。
今は慣れた。慣れたから疲れなくなった、というより、気にしなくなった。
授業の難しさは、思っていた通りだった。
予習と復習を繰り返す。
それは、高校のときとやることが変わらない。
◇
同じ学部に、石川という男がいる。
出身は、都市部だ。
頭が良くて、要領もいい。
よく話しかけてくる。
先月、学食で一緒に飯を食っていたとき、石川が言った。
「宮本って、バイトしてないよな」
「してない」
「親が金持ちなの」
「そうじゃないけど」
「奨学金?」
「町が出してくれてる」
「町が? 市が?」
「市じゃなくて、小さい町。うちの出身の」
「何それ。なんで」
「なんでって言われると、うまく説明できないんだけど」
石川は少し変な顔をして、また飯を食い始めた。
「変わってるな」と言った。
悪い意味じゃない感じだった。
◇
それが気になって、夜に少し考えた。
奨学金を借りている同級生は、たくさんいる。
家が遠いからアパートを借りて、その費用も自分で出している人間もいる。
バイトと授業を両立させながら、それでも休まない人を知っている。
私はそれを、今まであまり意識していなかった。
生活に困っていないから、考えなかった。
考えなくて済む状況に、ずっといた。
◇
帰省したとき、親に聞いたことがある。
「うちの町って、なんで学費を出してくれるの」
「あの畑のおかげでしょ」と母は言った。
「あの畑って、何を作ってるの」
「さあ。野菜じゃないとは思うけど」
それ以上の答えは、出なかった。
中学のときに一度だけ来た講師の先生が言っていた。
「普通に暮らせる条件が、最初から揃っているところ」
あのとき、よく分からなかった。
今も、完全には分からない。
ただ、少し輪郭が見えてきた気はした。
◇
大学に来て、初めて分かったことがある。
お金のことを心配しながら勉強するのは、しんどい、ということだ。
当たり前のことだが、当事者でないと分からなかった。
石川は成績が良い。要領も良い。
それでも、バイトが忙しかった週は、顔が少し疲れている。
本人は言わないが、見ていると分かる。
私は、そういう疲れ方を、したことがない。
それが当たり前だと思っていた。
違った。
◇
医者になりたいと思った理由を、今もうまく言えない。
ただ、小さい頃の記憶がある。
祖母が入院していたとき、病院の廊下で待っていた。
看護師が通った。
忙しそうだったのに、足を止めて、「大丈夫よ」と言ってくれた。
それだけだった。
あのとき、何かが動いた。
それが今につながっている。
◇
同級生に、地元の話をすることがある。
町の規模を話すと、だいたい驚かれる。
「そんな小さいのに大きい病院あるの」と言われる。
「学費を全部出してくれるって、本当に」と言われる。
毎回、うまく説明できない。
「赤土の畑があって、それが財源になってる」と言っても、伝わらない。
「なんの畑?」「農業系?」「農業でそんなに稼げるの?」
質問が来て、私は止まる。
詳しいことは、知らないからだ。
生まれた頃から、あの畑はそこにあった。
何を作っているか、なぜあれほどの価値があるのか、誰も教えてくれなかったし、聞こうとも思わなかった。
知らなくても困らなかったから。
◇
今は、困っていないが、知りたいと思う。
知りたいのは、仕組みではない。
何が、あの土地をそうしたのか、という部分だ。
いや、それも正確じゃない。
何を持って帰るかを、考え始めた、ということだと思う。
◇
帰省したとき、バスに乗った。
一番後ろに座った。
窓の外に、赤土の畑が見えた。
高校の頃と、変わらない景色だった。
ただ、見え方が少し変わった気がした。
「あそこがあるから、自分はここにいる」という感覚が、前よりはっきりしていた。
感謝、と呼ぶには少し違う。
ただ、知らなかった頃より、一枚、近づいた感じがした。
◇
来年、病院実習が始まる。
外来で、患者と話す。
検査の意味を、少しずつ覚えていく。
医者になっても、全部が分かるわけじゃない、というのは、入って一年で分かった。
分からないまま、それでも判断していく仕事だ、ということも。
あの畑のことも、そうかもしれない。
全部分からなくても、そこにあり続ける。
それで十分な何かが、あるのかもしれない。
◇
この町で医者になりたい、という気持ちは、変わっていない。
ただ、高校のときより、少し中身が変わった。
あの頃は、「この町がいい」という感覚だった。
今は、「この町に何かを戻したい」という感覚に近い。
受け取ってきたものが、ある。
それを持って帰る。
形は、まだ分からない。
ただ、そういうことだと思っている。
◇
朝のバスで、窓の外を見る。
大学のある町の、見慣れた風景だ。
知らない人が乗っていて、どこで降りるか分からない。
それでも、前より少し落ち着いている。
帰る場所があると、知っているからかもしれない。
帰ったとき、何を持って帰るかを、少しずつ考えているからかもしれない。
どちらでも、たぶん、いい。




