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第23話 書かないために来た

語り手:地方紙記者 岸本真理(36歳)



バスを降りると、海からの風が来た。


前に来たときと、同じ風だった。

穏やかで、悪い意味を持たない。

この町のことを書いたとき、その風のことも書いた。

書いてから、少しだけ後悔した。

あの風は、書かれるためにあるものではなかった気がした。



記事は、三ヶ月前に出た。


県内版の、三段記事だ。

「財政の謎」という見出しは、デスクがつけた。私がつけたかった見出しとは、少し違った。


ただ、内容については、文句はない。

書けることを、書いた。

それは、きちんとできた。



記事が出てから、引っかかりが消えなかった。


書けなかったものがある、ということは、書いた直後から分かっていた。

それ自体は、珍しいことではない。

全部を書けた記事など、十二年のキャリアで一本もない。


ただ、今回は少し違った。


書けなかったものの輪郭が、ぼんやりとあった。

何かが、手の届かないところにある、という感じが続いた。

三ヶ月経っても、消えなかった。



だから来た。


取材ではない。

アポも取っていない。

録音機も、カメラも持ってきていない。

ノートだけ持ってきたが、使うつもりはなかった。

ノートを持たないと、落ち着かない性分なだけだ。



まず、前に歩いたのと同じ道を歩いた。


バス停から、役場の前を通って、スーパーの横を抜けて、港の方へ。

景色は変わっていなかった。

変わっているものを探そうとしていた自分に、途中で気づいた。

記者の癖だ。


探すのをやめた。


港に出ると、漁船が何隻か係留されていた。

作業している男が一人いた。

こちらを一度見てから、また作業に戻った。


それだけだった。



昼過ぎ、畑の近くまで歩いた。


前に来たときと同じ場所に立った。

柵の外から、赤土を見た。

光の加減で、少し色が違う。前は夕方だったからだ。

昼の赤土は、もう少し明るい。


しばらく立っていた。

何かを確かめようとしていたわけではない。

ただ、立っていた。


風が来た。

畑の土が、ほんの少し動いた。

それだけだった。



前に来たとき、「書けない」ということの意味を、ずっと考えていた。


事実が足りないから書けない、のではなかった。

確認が取れないから書けない、のでもなかった。


事実と事実をつなぐ言葉が、手元にない。

そう思っていた。


三ヶ月経って、少し考え方が変わった。


つなぐ言葉がないのは、言葉の問題ではなく、つながり方の問題かもしれない、と思い始めた。

あの畑と、この町の豊かさと、住民の表情は、確かにつながっている。

ただ、そのつながり方は、言葉でつなぐことができない種類のものかもしれない。



記者として、それは困る。


言葉でつなげないものを、記事にする方法がない。

だから書けなかった。

それは正しかった。


ただ、書けなかったことが失敗だったか、というと、そうは思っていない。

書けないと分かったことが、あの取材の成果だったのかもしれない。



畑を離れて、少し歩いた。


路地に入ると、古い家が続く。

前に来たときは通らなかった道だ。

八十代くらいの女性が、縁側に座っていた。

目が合った。


「取材ですか」


見ず知らずの女性に、いきなり言われた。

少し驚いた。


「いいえ。ただ、歩いています」

「前にも来てたでしょ、記者さん。顔、覚えてる」


私は少し笑った。


「そうです。また来てしまいました」

「なんで」


答えに少し迷ってから、言った。


「書けなかったものがあって」

「書きに来たの」

「いいえ、書けなかったまま、ここに来たかっただけです」


女性は少し考えてから、「ふうん」と言った。

それ以上は何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。


しばらくして、女性が言った。


「お茶、飲んでいきますか」



縁側で、麦茶をもらった。


特に話は弾まなかった。

天気の話を少しした。

バスの便が減ったという話を聞いた。

それだけだった。


帰り際、女性が言った。


「また来なさい。何かあっても、なくても」


何もない理由で来ていい、と言われたのは、初めてだった。

取材でもなく、用事でもなく、ただ来ていい。


記者になってから、そういうことを言われたことがなかった。



帰りのバスを待ちながら、ノートを少し開いた。


何も書かなかった。

書くべきことが思い浮かばなかったのではなく、書かなくていいと思った。


バス停のそばに、木が一本ある。

風が来ると、葉が少し揺れる。

それを見ていた。


前に来たとき、この町には「書かれるべきではないもの」があると思った。

今は、少し違う言い方をする気がした。


書かれなくても、あるものがある。

書いてもらわなくても、続いているものがある。

そういうものが、この町にはある。


記者として、それを書こうとしていた。

書けなかった。


書けなかったのは、そういうものだったからだ。

そのことが、三ヶ月越しに、ここに来てようやく分かった気がした。



バスが来た。


乗りながら、窓の外に畑が見えた。

少しだけ遠くなって、やがて見えなくなった。


書けなかったものは、まだある。

この先も、書けないままかもしれない。


それでいい、とまでは思っていない。

ただ、書けないことを、今日はここに置いてきた気がした。


次に来るとしたら、またノートを持ってくるだろう。

使うかどうかは、そのときになってみないと分からない。


それだけのことが、今は十分に思えた。



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