第23話 書かないために来た
語り手:地方紙記者 岸本真理(36歳)
◇
バスを降りると、海からの風が来た。
前に来たときと、同じ風だった。
穏やかで、悪い意味を持たない。
この町のことを書いたとき、その風のことも書いた。
書いてから、少しだけ後悔した。
あの風は、書かれるためにあるものではなかった気がした。
◇
記事は、三ヶ月前に出た。
県内版の、三段記事だ。
「財政の謎」という見出しは、デスクがつけた。私がつけたかった見出しとは、少し違った。
ただ、内容については、文句はない。
書けることを、書いた。
それは、きちんとできた。
◇
記事が出てから、引っかかりが消えなかった。
書けなかったものがある、ということは、書いた直後から分かっていた。
それ自体は、珍しいことではない。
全部を書けた記事など、十二年のキャリアで一本もない。
ただ、今回は少し違った。
書けなかったものの輪郭が、ぼんやりとあった。
何かが、手の届かないところにある、という感じが続いた。
三ヶ月経っても、消えなかった。
◇
だから来た。
取材ではない。
アポも取っていない。
録音機も、カメラも持ってきていない。
ノートだけ持ってきたが、使うつもりはなかった。
ノートを持たないと、落ち着かない性分なだけだ。
◇
まず、前に歩いたのと同じ道を歩いた。
バス停から、役場の前を通って、スーパーの横を抜けて、港の方へ。
景色は変わっていなかった。
変わっているものを探そうとしていた自分に、途中で気づいた。
記者の癖だ。
探すのをやめた。
港に出ると、漁船が何隻か係留されていた。
作業している男が一人いた。
こちらを一度見てから、また作業に戻った。
それだけだった。
◇
昼過ぎ、畑の近くまで歩いた。
前に来たときと同じ場所に立った。
柵の外から、赤土を見た。
光の加減で、少し色が違う。前は夕方だったからだ。
昼の赤土は、もう少し明るい。
しばらく立っていた。
何かを確かめようとしていたわけではない。
ただ、立っていた。
風が来た。
畑の土が、ほんの少し動いた。
それだけだった。
◇
前に来たとき、「書けない」ということの意味を、ずっと考えていた。
事実が足りないから書けない、のではなかった。
確認が取れないから書けない、のでもなかった。
事実と事実をつなぐ言葉が、手元にない。
そう思っていた。
三ヶ月経って、少し考え方が変わった。
つなぐ言葉がないのは、言葉の問題ではなく、つながり方の問題かもしれない、と思い始めた。
あの畑と、この町の豊かさと、住民の表情は、確かにつながっている。
ただ、そのつながり方は、言葉でつなぐことができない種類のものかもしれない。
◇
記者として、それは困る。
言葉でつなげないものを、記事にする方法がない。
だから書けなかった。
それは正しかった。
ただ、書けなかったことが失敗だったか、というと、そうは思っていない。
書けないと分かったことが、あの取材の成果だったのかもしれない。
◇
畑を離れて、少し歩いた。
路地に入ると、古い家が続く。
前に来たときは通らなかった道だ。
八十代くらいの女性が、縁側に座っていた。
目が合った。
「取材ですか」
見ず知らずの女性に、いきなり言われた。
少し驚いた。
「いいえ。ただ、歩いています」
「前にも来てたでしょ、記者さん。顔、覚えてる」
私は少し笑った。
「そうです。また来てしまいました」
「なんで」
答えに少し迷ってから、言った。
「書けなかったものがあって」
「書きに来たの」
「いいえ、書けなかったまま、ここに来たかっただけです」
女性は少し考えてから、「ふうん」と言った。
それ以上は何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
しばらくして、女性が言った。
「お茶、飲んでいきますか」
◇
縁側で、麦茶をもらった。
特に話は弾まなかった。
天気の話を少しした。
バスの便が減ったという話を聞いた。
それだけだった。
帰り際、女性が言った。
「また来なさい。何かあっても、なくても」
何もない理由で来ていい、と言われたのは、初めてだった。
取材でもなく、用事でもなく、ただ来ていい。
記者になってから、そういうことを言われたことがなかった。
◇
帰りのバスを待ちながら、ノートを少し開いた。
何も書かなかった。
書くべきことが思い浮かばなかったのではなく、書かなくていいと思った。
バス停のそばに、木が一本ある。
風が来ると、葉が少し揺れる。
それを見ていた。
前に来たとき、この町には「書かれるべきではないもの」があると思った。
今は、少し違う言い方をする気がした。
書かれなくても、あるものがある。
書いてもらわなくても、続いているものがある。
そういうものが、この町にはある。
記者として、それを書こうとしていた。
書けなかった。
書けなかったのは、そういうものだったからだ。
そのことが、三ヶ月越しに、ここに来てようやく分かった気がした。
◇
バスが来た。
乗りながら、窓の外に畑が見えた。
少しだけ遠くなって、やがて見えなくなった。
書けなかったものは、まだある。
この先も、書けないままかもしれない。
それでいい、とまでは思っていない。
ただ、書けないことを、今日はここに置いてきた気がした。
次に来るとしたら、またノートを持ってくるだろう。
使うかどうかは、そのときになってみないと分からない。
それだけのことが、今は十分に思えた。




