第22話 ただの土ではない、ということ
語り手:帰還者 田中朔(29歳)
◇
戻ってきて、一年が経った。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来た。
そしてまた、春が来ている。
一年というのは、思ったより早かった。
東京にいた頃の一年は、もっと長く感じた気がする。
◇
仕事は、今も同じだ。
赤土の畑から出てくる数値を、扱いやすい形に整えて、次の人間に渡す。
それだけだ。
入った頃より、少し手際がよくなった。
それ以外は、大して変わっていない。
◇
戻ってきた当初、この町は「異常」だと思っていた。
住民税がない。医療費がかからない。子供が大学を出ても戻ってくる。
東京を知っている目で見ると、全部が普通ではなかった。
一年経った今、その感覚が薄くなっている。
薄くなった、というのは正確ではないかもしれない。
慣れた、とも少し違う。
この町の普通が、自分の普通に戻りつつある、という感じだ。
出る前に持っていた感覚が、少しずつ戻ってきている。
◇
先週、東京の友人から連絡が来た。
就職して、一年が経ったという話をした。
都市部の会社に入って、企画の仕事をしているらしい。
忙しいが面白い、と言っていた。
私の仕事の話も聞かれた。
「データの管理みたいなことをしてる」
「何のデータ?」
「農業関連の数値、みたいなもの」
「地味だね」
「そうかもしれない」
地味、という言葉を、否定しなかった。
否定する理由がない、とも思ったし、否定する気にならない、とも思った。
◇
仕事の中身を、外の人間に話せるかというと、難しい。
別に守秘義務があるわけではない。
ただ、話しても伝わらない。
数値を整えて渡す、という説明は、嘘ではない。
ただ、何のための数値を、何に向けて整えているのかを話すとき、言葉が追いつかなくなる。
自分でも、よく分かっていないからだ。
◇
今年の初め、先輩に少し聞いたことがある。
三十代の後半で、私の一つ上のポジションにいる。
この町の出身で、ずっとここで働いてきた人だ。
「このデータって、他の施設のものと比べたことありますか」
「ある」
「どうでした」
先輩は少し間を置いた。
「合わない」
「何が」
「数値のパターンが。他の場所のデータとは、前提が違う感じがする」
「前提が違う、というのは」
「うまく言えないが、ここの数値は、ここにいるから出てくる数値なんだと思う」
それ以上の説明は、なかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
◇
ここにいるから出てくる数値。
その言葉が、少し残った。
数値というのは、本来どこでも同じものだと思っていた。
二は、どこでも二だ。
同じ条件で測れば、同じ結果が出る。
それが、データというものの前提だ。
ただ、先輩の言い方は、そうではなかった。
この場所を離れたら、別の数値になる。
あるいは、この場所でしか出ない数値がある。
そういう意味に聞こえた。
◇
以前、外部の研究者が来たあとの話を、職場で聞いたことがある。
土壌のサンプルを持ち帰ろうとした、という話だ。
断られた、とも聞いた。
なぜ断ったのかは、誰も教えてくれなかった。
ただ、先輩の言葉と合わせて考えると、少し分かる気がした。
持ち出すと、意味がなくなる。
蓮という子供に、町長がそう言ったという話を、職場の誰かから聞いた。
持ち出すと意味がなくなる土と、ここにいるから出てくる数値は、同じことを言っているのかもしれない。
◇
春の終わり頃、仕事で少し違うことが起きた。
定例の数値整理をしていたとき、過去のデータと現在のデータを並べる作業があった。
三年分のデータと、今年のデータを照合する。
その作業を、入って以来何度かやってきた。
いつもと同じ手順で進めていたとき、ふと気づいた。
過去のデータを作ったのは、誰か、ということを。
◇
データにはそれぞれ、作成者の記録が残っている。
三年前のデータは、別の担当者が作っている。
その前は、また別の人間だ。
十年前のデータを見ると、今の仕事のやり方の原型がある。
誰かがその形を作って、次の人間に渡した。
その次の人間が、また渡した。
今の私は、それを受け取っている。
そして私も、いつか誰かに渡す。
◇
その日、仕事が終わってから、少しだけ畑の近くを歩いた。
日が傾いていた。
赤土の色が、夕方の光で少し濃くなっていた。
子供の頃は、ただの土だと思っていた。
東京に出てから戻ってきたとき、ただの土ではないと分かった。
それでも、見た目は変わらなかった。
ただの土に見えるものが、ただの土ではない。
それは一年前と同じだ。
ただ、今日少し思ったことがある。
◇
この畑も、誰かから受け取ったものだ。
町長が発見した。研究した。形にした。
それを、今の住民が受け取っている。
私が受け取っているデータも、同じだ。
誰かが整えた数値を、私が受け取って、次に渡す。
それは、この町がやっていることと、形が似ている。
受け取って、続ける。
続けることが、渡すことになる。
◇
たいした発見ではないかもしれない。
ただ、仕事の意味が、少しだけ変わった気がした。
数値を整えるのは、情報を保存するためだ、と思っていた。
それだけではないかもしれない、と思い始めた。
誰かから受け取ったものを、次の人間に渡す。
そのための仕事だ。
渡された先で何になるかは、私には分からない。
分からなくても、渡すことはできる。
◇
帰り道、スーパーに寄った。
米と、豆腐と、野菜を買った。
どれも、この町で作られたものだ。
米を作った人を、私は知らない。
ただ、誰かが作って、誰かに渡した。
私は、それを受け取って、食べる。
そういうことが、この町ではたくさんある。
当たり前すぎて、誰も言わない。
◇
夜、自分の部屋の窓から、畑の方向を見た。
暗くて、何も見えない。
それでも、そこにある、ということは分かる。
出ていた頃は、ここにあることを忘れていた。
戻ってきて、また知った。
一年経って、それが当たり前になりつつある。
当たり前になることを、悪いことだとは思わない。
当たり前として受け取ることが、ここにいるということの意味なのかもしれない。
◇
東京にいた頃の友人に、「地味だね」と言われた。
否定しなかった。
ただ、今日の帰り道に、少し思った。
地味なことが、長続きする。
長続きするものが、続いていく。
続いていくものの中に、自分がいる。
それが今の自分の場所だ、と言い切れるかどうかは、まだ分からない。
ただ、それが悪い場所だとは、もう思っていない。
一年前より、少しだけはっきりと。




