第21話 言わないことの重さ
語り手:浜田静(50歳・健一の妻)
◇
夫が起きるのは、朝の四時前だ。
暗いうちに台所に来て、冷や飯を少し食べて、出て行く。
二十六年、ずっとそうだ。
私は、その音で目が覚めることが多い。
最初の頃は一緒に起きて見送っていたが、いつの頃からか、布団の中でただ音を聞くだけになった。
夫もそれを知っている。だから、静かに動く。
台所で、椅子の脚が少し鳴る音。水道の音。箸の音。
順番まで、だいたい分かるようになった。
◇
今年の春頃から、出て行くまでの時間が、少しだけ長くなった。
気のせいかもしれない。
ただ、台所の音が終わってから、玄関の音がするまでの間に、少し間がある。
何をしているのか、分からない。
窓から外を見ているのかもしれない。縁側に出ているのかもしれない。
確かめに行ったことは、ない。
◇
夕方、夫が帰ってくる。
「今日はどうだった」
「まあまあだな」
いつもの会話だ。
それ以上は、お互いに聞かない。
漁師の妻として、聞かない方がいいことがある、ということは、結婚する前から知っていた。
私の父も、海で仕事をしていた。
母は、父の仕事のことをほとんど聞かなかった。
海のことは海が決める、と言っていた。
それが最初は冷たく見えたが、長く一緒にいると、そういうことではないのだと分かった。
◇
今年の夏のある晩、夫が縁側に出て、煙草を吸っていた。
珍しいことではない。ただ、時間が長かった。
私は台所で片付けをしながら、その背中を見ていた。
海の方を見ていた。
いつもの、海を見る目とは、少し違った。
考えている、という感じだった。
何かを決めかねている、という感じに見えた。
話しかけようかと思った。
やめた。
◇
夫は、話したいことがあるとき、自分から言う。
言う前に、少し時間をかける。
それが一日のこともあれば、一週間のこともある。
急かした方がいい、と思ったことは、あまりない。
急かすと、かえって遠くなる。
そういう人だと、知っている。
◇
先月、港で町長と少し話したらしかった。
夫は帰ってきて、ご飯を食べながら言った。
「誠一に会った」
「そう」
「港で、少しだけ」
「何か話した?」
「いや、大したことは」
それだけだった。
夫が「大したことは」と言うとき、だいたい何かがある。
ただ、それ以上は聞かなかった。
◇
誠一、というのは、町長のことだ。
夫とは子供の頃からの付き合いだと聞いている。
互いに名前で呼ぶ。他の人間には、そうしない。
二人が一緒にいるところを見ると、言葉が少ない割に、何か通じているように見える。
長い時間が、あるのだろうと思う。
その長さには、私は入っていない。
それでいいと思っている。
◇
この町は、ここのところ外から人が来ることが多くなった。
私はそのことを、直接見聞きしているわけではない。
スーパーで、隣のおばさんと話す中で、そういえば最近見慣れない人が多い、という話になった。
それくらいのことだ。
町が、何かで注目されているらしい、ということは、ぼんやりと知っている。
何で注目されているのかは、あまりよく分かっていない。
夫に聞いたことは、ない。
◇
赤土の畑のことは、子供の頃から知っている。
この町で生まれ育ったから、あの畑はずっとそこにあった。
何が特別なのか、何を生んでいるのかは、詳しくは知らない。
ただ、この町が豊かなのは、あの畑のおかげだと、誰もが言う。
あの畑があるから、病院のお世話になっても何もかからない。
あの畑があるから、子供が大学に行っても戻ってくる。
そういうことが、当たり前のようにある。
だから、あの畑のことを、誰も特別に話さない。
水のことを毎日話す人間がいないのと、同じかもしれない。
◇
夫は、海と畑の話をしたことがある。
結婚してすぐの頃のことだ。
夕飯のあと、少し喋っていた。
「俺は海を見ているが、誠一は土を見ている。見ているものは違うが、たぶん同じものを見ている気がする」
「同じものって」
「うまく言えん」
そこで話が終わった。
続きを聞こうとは思わなかった。
うまく言えないと言ったときの夫の顔が、真剣だったから。
真剣に考えていることを、急いで言葉にさせるのは、いいことではない。
◇
今年になってから、夫は少しだけ変わった。
怒っているわけでも、落ち込んでいるわけでもない。
ただ、考えていることがある、という感じだ。
海のことだと思う。
理由は、説明できない。
ただ、長く一緒にいると、そういうことが分かるようになる。
根拠はない。ただ、分かる。
◇
先週の朝、夫が出て行く前に、玄関の近くで少し止まる音がした。
いつもはすぐに出て行く。
あの間は、何だったのか。
戻ってきたときに聞こうかとも思ったが、やめた。
夕方に帰ってきた夫は、いつもと変わらなかった。
「今日はどうだった」
「まあまあだ」
夫は飯を食べて、風呂に入って、早めに寝た。
◇
夫が寝たあと、私は少しだけ縁側に出た。
夫が毎晩ここで煙草を吸う。
海の方に、暗い空が広がっていた。
波の音がした。
何かを抱えているのに、言わない。
その重さは、言わない分だけ、夫の中にある。
そういうことが、いつか軽くなるとき、夫は話す。
私は聞く。
それだけのことだ。
◇
夫のことを、分かっているとは思っていない。
分かっていないことが、たくさんある。
漁師として何を考えているか。あの海で、毎朝何を見ているか。
誠一という旧友と、何十年もかけて何を積んできたか。
そのほとんどを、私は知らない。
ただ、知らなくていいことと、知らなくていい理由が別のことは、分かる。
◇
今朝も、夫は四時前に起きた。
台所で、椅子の音がした。水道の音がした。
今日は、出て行くまでの間が、少し短かった気がした。
気のせいかもしれない。
玄関の音がして、エンジンの音がして、遠くなった。
私は目を閉じたまま、波の音だけを聞いていた。
海は、今日も続いている。
畑も、今日もある。
夫は、今日もそこへ行く。
それだけのことが、何十年も、続いている。
◇
起き上がって、台所に行った。
夫が使った茶碗を、洗った。
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。
東の方が、ほんの少しだけ赤かった。
毎朝そうなる。
特別なことは、何もない。
ただ、今日も夫は海の上にいる、と思うと、少しだけ落ち着く。
そのことが、今の自分にとって、十分なことだと思っている。




