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赤土の畑のとなりで ―人口5000人の町に、何かがある―  作者: 泥靴


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第21話 言わないことの重さ

語り手:浜田静(50歳・健一の妻)



 夫が起きるのは、朝の四時前だ。


 暗いうちに台所に来て、冷や飯を少し食べて、出て行く。

 二十六年、ずっとそうだ。

 私は、その音で目が覚めることが多い。

 最初の頃は一緒に起きて見送っていたが、いつの頃からか、布団の中でただ音を聞くだけになった。

 夫もそれを知っている。だから、静かに動く。


 台所で、椅子の脚が少し鳴る音。水道の音。箸の音。

 順番まで、だいたい分かるようになった。



 今年の春頃から、出て行くまでの時間が、少しだけ長くなった。

 気のせいかもしれない。


 ただ、台所の音が終わってから、玄関の音がするまでの間に、少し間がある。

 何をしているのか、分からない。

 窓から外を見ているのかもしれない。縁側に出ているのかもしれない。


 確かめに行ったことは、ない。



 夕方、夫が帰ってくる。


「今日はどうだった」


「まあまあだな」


 いつもの会話だ。

 それ以上は、お互いに聞かない。


 漁師の妻として、聞かない方がいいことがある、ということは、結婚する前から知っていた。

 私の父も、海で仕事をしていた。

 母は、父の仕事のことをほとんど聞かなかった。


 海のことは海が決める、と言っていた。

 それが最初は冷たく見えたが、長く一緒にいると、そういうことではないのだと分かった。



 今年の夏のある晩、夫が縁側に出て、煙草を吸っていた。


 珍しいことではない。ただ、時間が長かった。

 私は台所で片付けをしながら、その背中を見ていた。

 海の方を見ていた。


 いつもの、海を見る目とは、少し違った。

 考えている、という感じだった。

 何かを決めかねている、という感じに見えた。


 話しかけようかと思った。


 やめた。



 夫は、話したいことがあるとき、自分から言う。


 言う前に、少し時間をかける。

 それが一日のこともあれば、一週間のこともある。


 急かした方がいい、と思ったことは、あまりない。

 急かすと、かえって遠くなる。


 そういう人だと、知っている。



 先月、港で町長と少し話したらしかった。


 夫は帰ってきて、ご飯を食べながら言った。


「誠一に会った」

「そう」

「港で、少しだけ」


「何か話した?」

「いや、大したことは」


 それだけだった。


 夫が「大したことは」と言うとき、だいたい何かがある。


 ただ、それ以上は聞かなかった。



 誠一、というのは、町長のことだ。


 夫とは子供の頃からの付き合いだと聞いている。

 互いに名前で呼ぶ。他の人間には、そうしない。


 二人が一緒にいるところを見ると、言葉が少ない割に、何か通じているように見える。

 長い時間が、あるのだろうと思う。

 その長さには、私は入っていない。


 それでいいと思っている。



 この町は、ここのところ外から人が来ることが多くなった。

 私はそのことを、直接見聞きしているわけではない。


 スーパーで、隣のおばさんと話す中で、そういえば最近見慣れない人が多い、という話になった。

 それくらいのことだ。


 町が、何かで注目されているらしい、ということは、ぼんやりと知っている。

 何で注目されているのかは、あまりよく分かっていない。


 夫に聞いたことは、ない。



 赤土の畑のことは、子供の頃から知っている。


 この町で生まれ育ったから、あの畑はずっとそこにあった。

 何が特別なのか、何を生んでいるのかは、詳しくは知らない。


 ただ、この町が豊かなのは、あの畑のおかげだと、誰もが言う。

 あの畑があるから、病院のお世話になっても何もかからない。

 あの畑があるから、子供が大学に行っても戻ってくる。


 そういうことが、当たり前のようにある。


 だから、あの畑のことを、誰も特別に話さない。

 水のことを毎日話す人間がいないのと、同じかもしれない。



 夫は、海と畑の話をしたことがある。

 結婚してすぐの頃のことだ。


 夕飯のあと、少し喋っていた。


「俺は海を見ているが、誠一は土を見ている。見ているものは違うが、たぶん同じものを見ている気がする」


「同じものって」


「うまく言えん」


 そこで話が終わった。

 続きを聞こうとは思わなかった。


 うまく言えないと言ったときの夫の顔が、真剣だったから。

 真剣に考えていることを、急いで言葉にさせるのは、いいことではない。



 今年になってから、夫は少しだけ変わった。

 怒っているわけでも、落ち込んでいるわけでもない。


 ただ、考えていることがある、という感じだ。

 海のことだと思う。

 理由は、説明できない。


 ただ、長く一緒にいると、そういうことが分かるようになる。

 根拠はない。ただ、分かる。



 先週の朝、夫が出て行く前に、玄関の近くで少し止まる音がした。


 いつもはすぐに出て行く。

 あの間は、何だったのか。


 戻ってきたときに聞こうかとも思ったが、やめた。


 夕方に帰ってきた夫は、いつもと変わらなかった。


「今日はどうだった」


「まあまあだ」


 夫は飯を食べて、風呂に入って、早めに寝た。



 夫が寝たあと、私は少しだけ縁側に出た。


 夫が毎晩ここで煙草を吸う。

 海の方に、暗い空が広がっていた。

 波の音がした。


 何かを抱えているのに、言わない。

 その重さは、言わない分だけ、夫の中にある。

 そういうことが、いつか軽くなるとき、夫は話す。


 私は聞く。


 それだけのことだ。



 夫のことを、分かっているとは思っていない。

 分かっていないことが、たくさんある。


 漁師として何を考えているか。あの海で、毎朝何を見ているか。

 誠一という旧友と、何十年もかけて何を積んできたか。

 そのほとんどを、私は知らない。


 ただ、知らなくていいことと、知らなくていい理由が別のことは、分かる。



 今朝も、夫は四時前に起きた。


 台所で、椅子の音がした。水道の音がした。

 今日は、出て行くまでの間が、少し短かった気がした。

 気のせいかもしれない。


 玄関の音がして、エンジンの音がして、遠くなった。

 私は目を閉じたまま、波の音だけを聞いていた。


 海は、今日も続いている。

 畑も、今日もある。

 夫は、今日もそこへ行く。


 それだけのことが、何十年も、続いている。



 起き上がって、台所に行った。

 夫が使った茶碗を、洗った。


 窓の外が、少しずつ明るくなってきた。

 東の方が、ほんの少しだけ赤かった。

 毎朝そうなる。


 特別なことは、何もない。


 ただ、今日も夫は海の上にいる、と思うと、少しだけ落ち着く。


 そのことが、今の自分にとって、十分なことだと思っている。



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