第20話 波の形
語り手:町長 村上誠一(55歳)
◇
朝、畑に立つと、風が来た。
海からの風だ。
この季節は、いつもこの方向から来る。
赤土が、朝の光の中にある。
昨日と同じ色だ。一年前と同じ色だ。
私が最初にここに立った日から、変わっていない。
◇
この一年で、外から来る人間の数が増えた。
記者が来た。研究者が来た。企業の担当者が来た。省庁の人間も、また来た。
全員に、答えられる範囲で答えた。
全員に、答えられない部分は答えなかった。
悪い人間は、一人もいなかった。
みんな、何かを知りたいと思って来ていた。
それは、正直なことだと思う。
ただ、知らせられないものは、知らせられない。
理由を説明できないものも、ある。
それでも、断らなければならないときは、断る。
波が来ている。
来ていることは、分かっている。
ただ、波に形はない。悪意もない。
だから、押し返す必要もない。
ただ、ここに立っていればいい。
◇
中島から、移住問い合わせの件数を聞いた。
増え続けている。
中島は、真面目にやっている。判断が難しいものも、自分で考えながら対応している。
二年前より、顔つきが変わった。
誰が来て、誰を断るか。
文書にできない基準を、あの男は少しずつ自分の中で作っている。
それでいい。
言葉にした瞬間に、基準は硬直する。
硬直したものは、長続きしない。
◇
健一のことが、少し気になっている。
先月、港で少し話した。
いつもと変わらない様子だった。ただ、何かを言いかけて、やめた。
そういう間が、一度あった。
聞かなかった。
健一が言う気になったときに、言うだろう。
あいつは、黙るべきときに黙る人間だ。
それを三十年以上、知っている。
◇
火曜日の朝、蓮が来た。
受付から連絡が入ったとき、少し笑った。
子供が一人で役場にアポを取ってきた、という話を、中島から聞いていた。
応接室に入ると、蓮が座っていた。
ノートを持っていた。表紙に何か書いてある。
背筋が伸びていた。緊張しているのが分かった。
「来てくれたね」
蓮は少し頷いた。
「自由研究で赤土を調べているって、聞いた」
「はい。でも、サンプルは採れないって父に言われて」
「そうだね。持ち出せないんだ」
「なんでですか」
◇
少し間を置いた。
子供だから、誤魔化していい、とは思わない。
ただ、正確に答えられるかどうかも分からない。
「あの土は、あそこにあるときだけ、あの土なんだ」
蓮は少し考えた。
「持ち出すと、変わるってことですか」
「そうかもしれない」
「なんで変わるんですか」
「分からない」
蓮は、その答えを予想していなかった顔をした。
しばらくして、ノートを開いた。
「もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「最初に気づいたのは、いつですか」
◇
その質問を、子供から聞くとは思っていなかった。
窓の外を、少し見た。
遠くに、畑が見える。
最初に気づいたのは、いつだったか。
幼い頃のことを、思い出した。
誰も見ていない畑で、一人でしゃがんでいた。
土が赤いのが、不思議だった。
ただの不思議だった。その頃は、それだけだった。
「小さい頃だよ。君と同じくらいの頃」
「そのときから、ずっと気になってたんですか」
「そうだな」
「何十年も」
「何十年も」
蓮は、ノートに何か書いた。
何を書いたかは、見えなかった。
◇
「赤土のこと、もっと調べたいんですけど」
「うん」
「畑に入れますか」
少し考えた。
「今すぐは難しいけど、一度、案内できると思う」
「本当ですか」
「お父さんと来なさい。秋になったら、連絡してみて」
蓮の顔が、少し変わった。
三年前、畑で土を触らせたときの顔に、少し似ていた。
◇
蓮が帰った後、しばらく応接室にいた。
最初に気づいたのは、いつだったか。
あの頃、誰も気にしていなかった。父も、近所の人間も、赤い土をただの土として扱っていた。
自分だけが、何かあると思っていた。
ただの子供の勘だった。
ただ、その勘を、捨てなかった。
蓮も、何かを感じている。
三年前に触って、忘れないでいる。自由研究のテーマにして、役場にアポを取って、ノートを持って来た。
子供の勘を、捨てていない。
それが、何になるかは分からない。
ただ、捨てなければ、いつかどこかへ繋がる。
◇
夕方、もう一度畑に行った。
日が傾いて、赤土の色が濃くなっていた。
この時間のこの色が、一番好きだ。
何十年も、そう思っている。
しゃがんで、土を触った。
ひんやりしている。やわらかい。
いつも通りだ。
波は来た。
記者も来た。研究者も来た。企業の人間も来た。
みんな、何かを持ち帰ろうとした。
みんな、持ち帰れなかった。
持ち帰れないものが、ここにある。
それがこの町を、この町にしている。
◇
立ち上がって、空を見た。
西の方が、少し赤かった。
この先も、波は来るだろう。
形を変えて来るだろう。
それでいい。
来るたびに、ここに立てばいい。
畑は変わらない。土は変わらない。
私が何をすべきかも、変わらない。
続けること。
それだけだ。
難しいことではない。
ただ、それだけのことが、一番大事なことだと、今は思っている。
◇
帰り道、海からの風が来た。
いつもの風だ。
健一が何かを言いかけていた。
そのことを、もう一度思った。
あいつが話す気になったとき、聞けばいい。
急がない。
海も、畑も、急がない。
家に帰ると、恵子が台所にいた。
何か言いかけて、やめた。
「おかえり」
「ただいま」
それだけだった。
それだけで、十分だった。




