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第20話 波の形

語り手:町長 村上誠一(55歳)



 朝、畑に立つと、風が来た。


 海からの風だ。

 この季節は、いつもこの方向から来る。


 赤土が、朝の光の中にある。

 昨日と同じ色だ。一年前と同じ色だ。


 私が最初にここに立った日から、変わっていない。



 この一年で、外から来る人間の数が増えた。

 記者が来た。研究者が来た。企業の担当者が来た。省庁の人間も、また来た。


 全員に、答えられる範囲で答えた。

 全員に、答えられない部分は答えなかった。


 悪い人間は、一人もいなかった。

 みんな、何かを知りたいと思って来ていた。

 それは、正直なことだと思う。


 ただ、知らせられないものは、知らせられない。


 理由を説明できないものも、ある。

 それでも、断らなければならないときは、断る。


 波が来ている。


 来ていることは、分かっている。


 ただ、波に形はない。悪意もない。

 だから、押し返す必要もない。

 ただ、ここに立っていればいい。



 中島から、移住問い合わせの件数を聞いた。

 増え続けている。

 中島は、真面目にやっている。判断が難しいものも、自分で考えながら対応している。


 二年前より、顔つきが変わった。


 誰が来て、誰を断るか。

 文書にできない基準を、あの男は少しずつ自分の中で作っている。


 それでいい。


 言葉にした瞬間に、基準は硬直する。

 硬直したものは、長続きしない。



 健一のことが、少し気になっている。


 先月、港で少し話した。

 いつもと変わらない様子だった。ただ、何かを言いかけて、やめた。

 そういう間が、一度あった。


 聞かなかった。

 健一が言う気になったときに、言うだろう。

 あいつは、黙るべきときに黙る人間だ。


 それを三十年以上、知っている。



 火曜日の朝、蓮が来た。


 受付から連絡が入ったとき、少し笑った。


 子供が一人で役場にアポを取ってきた、という話を、中島から聞いていた。


 応接室に入ると、蓮が座っていた。

 ノートを持っていた。表紙に何か書いてある。


 背筋が伸びていた。緊張しているのが分かった。


「来てくれたね」


 蓮は少し頷いた。


「自由研究で赤土を調べているって、聞いた」

「はい。でも、サンプルは採れないって父に言われて」

「そうだね。持ち出せないんだ」

「なんでですか」



 少し間を置いた。


 子供だから、誤魔化していい、とは思わない。


 ただ、正確に答えられるかどうかも分からない。


「あの土は、あそこにあるときだけ、あの土なんだ」


 蓮は少し考えた。


「持ち出すと、変わるってことですか」

「そうかもしれない」

「なんで変わるんですか」

「分からない」


 蓮は、その答えを予想していなかった顔をした。

 しばらくして、ノートを開いた。


「もう一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「最初に気づいたのは、いつですか」



 その質問を、子供から聞くとは思っていなかった。


 窓の外を、少し見た。

 遠くに、畑が見える。


 最初に気づいたのは、いつだったか。

 幼い頃のことを、思い出した。


 誰も見ていない畑で、一人でしゃがんでいた。

 土が赤いのが、不思議だった。

 ただの不思議だった。その頃は、それだけだった。


「小さい頃だよ。君と同じくらいの頃」

「そのときから、ずっと気になってたんですか」

「そうだな」

「何十年も」

「何十年も」


 蓮は、ノートに何か書いた。

 何を書いたかは、見えなかった。



「赤土のこと、もっと調べたいんですけど」

「うん」

「畑に入れますか」


 少し考えた。


「今すぐは難しいけど、一度、案内できると思う」

「本当ですか」

「お父さんと来なさい。秋になったら、連絡してみて」


 蓮の顔が、少し変わった。

 三年前、畑で土を触らせたときの顔に、少し似ていた。



 蓮が帰った後、しばらく応接室にいた。


 最初に気づいたのは、いつだったか。

 あの頃、誰も気にしていなかった。父も、近所の人間も、赤い土をただの土として扱っていた。


 自分だけが、何かあると思っていた。

 ただの子供の勘だった。

 ただ、その勘を、捨てなかった。


 蓮も、何かを感じている。

 三年前に触って、忘れないでいる。自由研究のテーマにして、役場にアポを取って、ノートを持って来た。

 子供の勘を、捨てていない。


 それが、何になるかは分からない。

 ただ、捨てなければ、いつかどこかへ繋がる。



 夕方、もう一度畑に行った。


 日が傾いて、赤土の色が濃くなっていた。

 この時間のこの色が、一番好きだ。

 何十年も、そう思っている。


 しゃがんで、土を触った。

 ひんやりしている。やわらかい。

 いつも通りだ。


 波は来た。


 記者も来た。研究者も来た。企業の人間も来た。


 みんな、何かを持ち帰ろうとした。

 みんな、持ち帰れなかった。


 持ち帰れないものが、ここにある。

 それがこの町を、この町にしている。



 立ち上がって、空を見た。

 西の方が、少し赤かった。


 この先も、波は来るだろう。

 形を変えて来るだろう。


 それでいい。


 来るたびに、ここに立てばいい。

 畑は変わらない。土は変わらない。

 私が何をすべきかも、変わらない。


 続けること。

 それだけだ。


 難しいことではない。

 ただ、それだけのことが、一番大事なことだと、今は思っている。



 帰り道、海からの風が来た。

 いつもの風だ。


 健一が何かを言いかけていた。


 そのことを、もう一度思った。

 あいつが話す気になったとき、聞けばいい。

 急がない。


 海も、畑も、急がない。

 家に帰ると、恵子が台所にいた。


 何か言いかけて、やめた。


「おかえり」

「ただいま」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。



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