第2話 海の仕事、畑の仕事
彼が海に出るのは、夜明け前だ。
町の人間はみんな知っている。
だから誰も、その時間に波止場へは行かない。
邪魔をしてはいけないと、なんとなく分かっているからだ。
名前は、健一という。
幼い頃から、そうだった。
口数が少なく、笑いもしないが、怒りもしない。
いつも、何かをしていた。
遊んでいる記憶が、あまりない。
小学校のとき、私が畑の端をいじっていると、健一が通りかかることがあった。
覗いていくこともあれば、黙って通り過ぎることもあった。
ある日、健一が言った。
「何してんの」
「わからん。でも、育ちが違う」
健一は少し見て、うなずいた。
「そうやな」
それだけだった。
だが、それで十分だった。
誰かに「そうやな」と言われたのは、初めてだった。
健一の家は、漁師だ。
代々そうで、健一もそうなった。
特に迷ったふうはなかった。
それ以外の話を、聞いたことがない。
高校を出て、私は東北へ行った。
健一は残った。
帰省のたびに会ったが、話すことは多くなかった。
それでも、違和感はなかった。
長く会っていない気がしない相手というのが、いる。
健一は、そういう人間だった。
大学院を出て戻ってきた年の、秋のことだ。
海が荒れた日があった。
夕方から風が変わり、夜には波が高くなった。
翌朝、沖に小舟が一隻、出ていた。
町の老人だった。
耳が遠く、天気予報を聞いていなかった。
波止場に人が集まり始めたとき、健一はもういなかった。
どこから聞きつけたのか、あるいは聞きつけてもいなかったのか。
気づいたら、海の上にいた。
老人を連れて戻ってきたとき、健一の顔に特に何もなかった。
「大丈夫やったか」
老人に言い、肩を貸して歩いた。
それだけだった。
私はそれを、波止場の端で見ていた。
翌日、私は健一の家に行った。
「昨日の話じゃない」
最初に言った。
「畑の話をしたい」
健一は黙って茶を出した。
私は、これまでのことを全部話した。
子供のころから、大学で調べたこと、大学院で絞ったこと、まだ分からないこと。
健一は途中で口をはさまなかった。
最後まで聞いた。
「で、人手がいる」
「ああ」
「俺でいいんか」
「お前がいい」
健一は少し考えた。
「漁は続ける」
「構わん」
「なら、手伝う」
それだけだった。
最初の一年は、失敗が多かった。
私が考えていたことと、実際が違った。
繰り返した。
やり直した。
また繰り返した。
健一は文句を言わなかった。
記録を取り、次の日もまた来た。
あるとき、私が手順を変えようとすると、健一が首を振った。
「もう少し、このままやってみろ」
理由は言わなかった。
だが、私はそうした。
正しかった。
それ以来、健一が首を振るときは、私は止まるようにした。
健一が何を考えているのかは、今でもよく分からない。
町一番の働き者と言われているのは知っている。
本人は知らないか、知っていても気にしていない。
困っている人間を見ると、先に動く。
自分のことは、後回しにする。
それが損なのかどうかも、たぶん考えていない。
先日、視察の男たちを案内したあと、畑に健一がいた。
何かを確かめていた。
膝をついて、土に触れていた。
私が近づくと、一度だけ顔を上げた。
「人が来とったな」
「ああ」
「なんと言っとった」
「信じられないと言っていた」
健一は土を見たまま、少しだけ笑った。
「そうやろな」
それから、また作業に戻った。
赤土の畑に、夕方の光が横から差し込んでいた。
健一の手が、土の上を静かに動いていた。
私は、しばらくそれを見ていた。
言うことは、何もなかった。




