第18話 海の底のこと
語り手:漁師 浜田健一(54歳)
◇
網を引き上げたとき、魚の入りが少し変わっているのに気づいた。
量が減ったわけではない。むしろ、少し増えている。
種類が、変わった。
いつも入るものが入らず、あまり入らないものが入っている。
そういうことは、年に何度かある。潮の流れや水温で、魚の動きは変わる。
珍しいことではない。
ただ、今年に入ってから、その頻度が増えている。
◇
漁師になって三十五年になる。
親父の代から、この海で獲ってきた。
海のことは、分かっているつもりだ。
分かっている、というのは、全部を知っているという意味ではない。
何が普通で、何が普通でないかが分かる、という意味だ。
今年の海は、少しだけ普通ではない。
◇
最初に気づいたのは、春先だった。
三月の終わり、底引きの網に、見慣れないものが入った。
泥だった。
泥が入ること自体は、珍しくない。海底の地形が変われば、網に泥が混じることはある。
ただ、色が違った。
普通の海底の泥は、灰色か、暗い茶色だ。
あの泥は、少しだけ赤みがあった。
最初は気のせいだと思った。
ただ、四月にも入った。五月にも入った。
毎回ではない。場所による。
ただ、以前は入らなかったものが、入るようになった。
◇
誰にも言っていない。
言わない理由は、いくつかある。
まず、確信がない。赤い泥が混じることと、何かが変わっていることの間に、因果があるかどうかは分からない。
それに、言ったところで、どうなるかも分からない。
もう一つ、理由がある。
赤い泥を見たとき、頭に浮かんだのは、あの畑のことだった。
赤土の畑。
あそこの土と、海底の泥の色が、似ている気がした。
似ている、というのは、科学的な根拠ではない。
ただ、色が、似ていた。
それを誰かに言うのは、まだ早いと思った。
◇
誠一に話そうかと、何度か考えた。
誠一とは、子供の頃からの付き合いだ。あいつが畑をやって、俺は海をやる。それで三十年以上、やってきた。
話せないわけではない。
ただ、話すなら、ちゃんと話したい。
「海の底の泥が赤い気がする」では、足りない。
かといって、それ以上のことは、今の俺には言えない。
もう少し、見てからでいい。
海は急がない。急いだって、変わらない。
◇
五月の中頃、いつもの漁場より少し沖に出た。
理由があったわけではない。潮の具合で、そっちの方がよさそうだった。
網を入れて、引き上げたとき、また泥が入った。
今度は、量が多かった。
船の上で、泥を手に取った。
やわらかかった。粒が細かい。
色は、やはり少し赤みがある。
においを嗅いだ。
海の泥のにおいと、少しだけ違うものが混じっている気がした。
気がした、というだけだ。確かめる方法は、俺にはない。
泥を海に戻した。
◇
家に帰って、静が夕飯を作っていた。
「今日はどうだった」
「まあまあだな」
いつもの会話だ。
静は、それ以上は聞かない。
食卓で、少し考えた。
静に話そうかとも思ったが、やめた。
話して、心配させるようなことでもない。
ただ、海の泥が少し赤い、というだけの話だ。
ただ、というには、少し引っかかりが大きい。
◇
翌日、港で別の漁師と話した。
年上の、六十代の男だ。この海域を一番長くやっている。
「最近、網に泥が多くないか」
男は少し考えた。
「多いな。春先から」
「色は」
「色?」
男は首をかしげた。
「泥の色なんか、気にしたことないな」
それ以上は聞かなかった。
色を気にしているのは、俺だけかもしれない。
気にする理由があるのも、俺だけかもしれない。
◇
夜、縁側で煙草を吸いながら、海の方を見た。
暗くて、何も見えない。波の音だけが聞こえる。
海と畑は、つながっているのかもしれない。
地下で。水脈で。何か、俺の知らない経路で。
そういうことを考えるのは、俺の仕事ではない。
俺は漁師だ。海の上のことをやる。
ただ、海の下のことが、少しだけ気になり始めている。
◇
誠一に話すのは、もう少し先でいい。
もう少し、見る。もう少し、確かめる。
確かめる方法は、網を入れて、引き上げて、泥を見ることしかない。
科学的な方法ではない。ただ、俺にできるのは、それだけだ。
海は、急がない。
畑も、急がない。
急がないもの同士が、地面の下でつながっているとしたら、それもきっと急がない。
だから、俺も急がない。
◇
翌朝、いつも通りに船を出した。
海は凪いでいた。風もない。
空が、少しだけ赤かった。朝焼けだ。
海面にも、その赤が映っていた。
ただの朝焼けだ。
ただの朝焼けなのに、少しだけ、畑のことを思い出した。




