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第18話 海の底のこと

語り手:漁師 浜田健一(54歳)



 網を引き上げたとき、魚の入りが少し変わっているのに気づいた。


 量が減ったわけではない。むしろ、少し増えている。


 種類が、変わった。

 いつも入るものが入らず、あまり入らないものが入っている。


 そういうことは、年に何度かある。潮の流れや水温で、魚の動きは変わる。

 珍しいことではない。


 ただ、今年に入ってから、その頻度が増えている。



 漁師になって三十五年になる。


 親父の代から、この海で獲ってきた。


 海のことは、分かっているつもりだ。

 分かっている、というのは、全部を知っているという意味ではない。


 何が普通で、何が普通でないかが分かる、という意味だ。

 今年の海は、少しだけ普通ではない。



 最初に気づいたのは、春先だった。


 三月の終わり、底引きの網に、見慣れないものが入った。

 泥だった。

 泥が入ること自体は、珍しくない。海底の地形が変われば、網に泥が混じることはある。


 ただ、色が違った。

 普通の海底の泥は、灰色か、暗い茶色だ。

 あの泥は、少しだけ赤みがあった。


 最初は気のせいだと思った。

 ただ、四月にも入った。五月にも入った。


 毎回ではない。場所による。

 ただ、以前は入らなかったものが、入るようになった。



 誰にも言っていない。


 言わない理由は、いくつかある。


 まず、確信がない。赤い泥が混じることと、何かが変わっていることの間に、因果があるかどうかは分からない。

 それに、言ったところで、どうなるかも分からない。


 もう一つ、理由がある。

 赤い泥を見たとき、頭に浮かんだのは、あの畑のことだった。


 赤土の畑。


 あそこの土と、海底の泥の色が、似ている気がした。

 似ている、というのは、科学的な根拠ではない。


 ただ、色が、似ていた。

 それを誰かに言うのは、まだ早いと思った。



 誠一に話そうかと、何度か考えた。


 誠一とは、子供の頃からの付き合いだ。あいつが畑をやって、俺は海をやる。それで三十年以上、やってきた。


 話せないわけではない。


 ただ、話すなら、ちゃんと話したい。


 「海の底の泥が赤い気がする」では、足りない。


 かといって、それ以上のことは、今の俺には言えない。


 もう少し、見てからでいい。

 海は急がない。急いだって、変わらない。



 五月の中頃、いつもの漁場より少し沖に出た。


 理由があったわけではない。潮の具合で、そっちの方がよさそうだった。


 網を入れて、引き上げたとき、また泥が入った。

 今度は、量が多かった。


 船の上で、泥を手に取った。

 やわらかかった。粒が細かい。

 色は、やはり少し赤みがある。

 においを嗅いだ。

 海の泥のにおいと、少しだけ違うものが混じっている気がした。


 気がした、というだけだ。確かめる方法は、俺にはない。

 泥を海に戻した。



 家に帰って、静が夕飯を作っていた。


「今日はどうだった」

「まあまあだな」


 いつもの会話だ。


 静は、それ以上は聞かない。


 食卓で、少し考えた。

 静に話そうかとも思ったが、やめた。


 話して、心配させるようなことでもない。


 ただ、海の泥が少し赤い、というだけの話だ。

 ただ、というには、少し引っかかりが大きい。



 翌日、港で別の漁師と話した。


 年上の、六十代の男だ。この海域を一番長くやっている。


「最近、網に泥が多くないか」


 男は少し考えた。


「多いな。春先から」

「色は」

「色?」


 男は首をかしげた。


「泥の色なんか、気にしたことないな」


 それ以上は聞かなかった。

 色を気にしているのは、俺だけかもしれない。


 気にする理由があるのも、俺だけかもしれない。



 夜、縁側で煙草を吸いながら、海の方を見た。


 暗くて、何も見えない。波の音だけが聞こえる。


 海と畑は、つながっているのかもしれない。

 地下で。水脈で。何か、俺の知らない経路で。


 そういうことを考えるのは、俺の仕事ではない。

 俺は漁師だ。海の上のことをやる。


 ただ、海の下のことが、少しだけ気になり始めている。


 誠一に話すのは、もう少し先でいい。


 もう少し、見る。もう少し、確かめる。

 確かめる方法は、網を入れて、引き上げて、泥を見ることしかない。

 科学的な方法ではない。ただ、俺にできるのは、それだけだ。


 海は、急がない。

 畑も、急がない。

 急がないもの同士が、地面の下でつながっているとしたら、それもきっと急がない。


 だから、俺も急がない。



 翌朝、いつも通りに船を出した。


 海は凪いでいた。風もない。

 空が、少しだけ赤かった。朝焼けだ。

 海面にも、その赤が映っていた。

 ただの朝焼けだ。


 ただの朝焼けなのに、少しだけ、畑のことを思い出した。



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