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第15話 何を教えるか

語り手:小学校教師 大野文子(41歳)



 六月の初め、総合学習の時間に「ふるさとを知ろう」という単元をやることにした。


 四年生の担任で、今年で三年目のクラスだ。

 子供たちに、この町のことを調べさせてみようと思った。


 最初は、軽い気持ちだった。



 この町で生まれて、この町の小学校に通い、外の大学に出て、戻ってきた。

 教師になって十六年になる。


 ずっと、この町の子供たちを教えてきた。

 町のことは、知っているつもりだった。

 少なくとも、子供たちに教えられる程度には。


 そう思っていた。



 単元の最初の授業で、子供たちに聞いた。


「この町の特徴って、何だと思う」


 いくつか手が挙がった。


 海がある。山がある。魚が新鮮。野菜が安い。

 病院が大きい。


 最後の方で、一人が言った。


「お金、かからないじゃないですか。いろいろ」


 他の子供たちが、うなずいた。

 当たり前のこととして、うなずいていた。



 次の授業で、調べ学習をさせた。

 図書室の資料や、家族への聞き取りを使っていい、と言った。


 翌週、発表をさせた。


 海の漁獲量、山の面積、病院の病床数。

 住民税がないこと、医療費がかからないこと。

 数字は、きちんと調べてきた。


 ただ、一人が手を挙げて言った。


「なんで、そうなのかが分からなかった」


 私は少し間を置いてから言った。


「どういうこと?」

「お金かからない理由が、お父さんに聞いても、よく分からなかった」


 他の子も、何人かうなずいた。

 私は答えた。


「赤土の畑が関係しているらしいよ」

「何を作ってるの」


 そこで、私は止まった。



 止まったのは、答えを知らなかったからだ。


 知っているつもりだったが、聞かれると、言葉が出てこなかった。

 赤土の畑が、この町の財政を支えている。


 それは知っている。


 あの畑で何が作られているのか。

 なぜあの土だけが特別なのか。

 なぜここでしかできないのか。


 三十年以上、この町にいるのに、答えられなかった。



 職員室に戻ってから、少し考えた。


 教えられないことが、こんなにあるとは思っていなかった。


 先輩の教師に、少し話した。

 六十代の、長くこの町で教えている人だ。


「総合で、町のことを調べさせたら、赤土の畑の話になって」

「なるね」

「何を教えればいいんですかね」


 先輩は、少し間を置いてから言った。


「私も、ちゃんとは知らないよ」

「知らないまま、教えてたんですか」

「知らないことを、知らないと言えるのも、教育だよ」


 そう言って、採点の続きに戻った。


 放課後、一人で畑の方まで歩いた。


 教員になってから、意識して近づいたのは、初めてだった。

 柵の外から、赤土を見た。


 子供の頃から見ていた景色だ。

 変わっていない。


 ただ、今日は少し違って見えた。

 見慣れていたものが、急に遠くなる感じ。

 知っているようで、知らなかったものが、そこにある感じ。



 翌週の授業で、子供たちに正直に言った。


「先生も、赤土の畑で何を作っているか、ちゃんとは知らない」


 少し静かになった。


「でも、知らなくても困っていない。みんなも、そうでしょ」


 何人かがうなずいた。


「知らないことと、知ろうとしないことは、違う。知ろうとするのは、大事なことだよ」


 自分で言いながら、整理しきれていないとは思った。

 ただ、今の自分に言えることは、それだけだった。



 蓮が、授業の後に残った。


 木下蓮は、去年の春に赤土の畑を触ったと、親から聞いていた。

 町長が触らせてくれた、と言っていたらしい。


「先生、赤土、触ったことある?」

「ない」

「ひんやりして、やわらかいよ」

「触ったの?」

「去年。お父さんと行ったとき」


 蓮は少し得意そうな顔をした。

 子供らしい顔だ、と思った。


「下の方が、もっと赤いんだよ」


 そう言って、帰っていった。



 この町には、生まれた頃から知っているのに、知らないものがある。

 三十年以上、隣にいたのに。


 ただ、子供たちは困っていない。

 蓮も、困っていない。


 知らないまま触って、ひんやりして、それだけで十分そうだった。

 もしかしたら、そういうものなのかもしれない。


 知るべきものと、知らなくていいものが、最初から分かれているわけではない。

 ただ、触れるかどうかだけが、違う。


 蓮は触れた。

 私は、三十年触れなかった。

 それだけのことかもしれない。



 単元の最後に、子供たちに一枚、作文を書かせた。


 「この町の好きなところ」というテーマだ。

 海のことを書いた子が多かった。

 魚のことを書いた子もいた。

 蓮は、赤土のことを書いた。

 短い文章だった。


 「ひんやりして、やわらかかった。なんで赤いのかは、まだ分からない。でも、また触りたいと思った」


 読んで、少しだけ笑った。


 教えられることと、教えられないことの境界は、まだよく分からない。


 ただ、蓮の作文には、その境界の手前にある何かが、ちゃんとあった。

 それが何なのかは、うまく言えない。

 

ただ、そういう文章だった。


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