第15話 何を教えるか
語り手:小学校教師 大野文子(41歳)
◇
六月の初め、総合学習の時間に「ふるさとを知ろう」という単元をやることにした。
四年生の担任で、今年で三年目のクラスだ。
子供たちに、この町のことを調べさせてみようと思った。
最初は、軽い気持ちだった。
◇
この町で生まれて、この町の小学校に通い、外の大学に出て、戻ってきた。
教師になって十六年になる。
ずっと、この町の子供たちを教えてきた。
町のことは、知っているつもりだった。
少なくとも、子供たちに教えられる程度には。
そう思っていた。
◇
単元の最初の授業で、子供たちに聞いた。
「この町の特徴って、何だと思う」
いくつか手が挙がった。
海がある。山がある。魚が新鮮。野菜が安い。
病院が大きい。
最後の方で、一人が言った。
「お金、かからないじゃないですか。いろいろ」
他の子供たちが、うなずいた。
当たり前のこととして、うなずいていた。
◇
次の授業で、調べ学習をさせた。
図書室の資料や、家族への聞き取りを使っていい、と言った。
翌週、発表をさせた。
海の漁獲量、山の面積、病院の病床数。
住民税がないこと、医療費がかからないこと。
数字は、きちんと調べてきた。
ただ、一人が手を挙げて言った。
「なんで、そうなのかが分からなかった」
私は少し間を置いてから言った。
「どういうこと?」
「お金かからない理由が、お父さんに聞いても、よく分からなかった」
他の子も、何人かうなずいた。
私は答えた。
「赤土の畑が関係しているらしいよ」
「何を作ってるの」
そこで、私は止まった。
◇
止まったのは、答えを知らなかったからだ。
知っているつもりだったが、聞かれると、言葉が出てこなかった。
赤土の畑が、この町の財政を支えている。
それは知っている。
あの畑で何が作られているのか。
なぜあの土だけが特別なのか。
なぜここでしかできないのか。
三十年以上、この町にいるのに、答えられなかった。
◇
職員室に戻ってから、少し考えた。
教えられないことが、こんなにあるとは思っていなかった。
先輩の教師に、少し話した。
六十代の、長くこの町で教えている人だ。
「総合で、町のことを調べさせたら、赤土の畑の話になって」
「なるね」
「何を教えればいいんですかね」
先輩は、少し間を置いてから言った。
「私も、ちゃんとは知らないよ」
「知らないまま、教えてたんですか」
「知らないことを、知らないと言えるのも、教育だよ」
そう言って、採点の続きに戻った。
◇
放課後、一人で畑の方まで歩いた。
教員になってから、意識して近づいたのは、初めてだった。
柵の外から、赤土を見た。
子供の頃から見ていた景色だ。
変わっていない。
ただ、今日は少し違って見えた。
見慣れていたものが、急に遠くなる感じ。
知っているようで、知らなかったものが、そこにある感じ。
◇
翌週の授業で、子供たちに正直に言った。
「先生も、赤土の畑で何を作っているか、ちゃんとは知らない」
少し静かになった。
「でも、知らなくても困っていない。みんなも、そうでしょ」
何人かがうなずいた。
「知らないことと、知ろうとしないことは、違う。知ろうとするのは、大事なことだよ」
自分で言いながら、整理しきれていないとは思った。
ただ、今の自分に言えることは、それだけだった。
◇
蓮が、授業の後に残った。
木下蓮は、去年の春に赤土の畑を触ったと、親から聞いていた。
町長が触らせてくれた、と言っていたらしい。
「先生、赤土、触ったことある?」
「ない」
「ひんやりして、やわらかいよ」
「触ったの?」
「去年。お父さんと行ったとき」
蓮は少し得意そうな顔をした。
子供らしい顔だ、と思った。
「下の方が、もっと赤いんだよ」
そう言って、帰っていった。
◇
この町には、生まれた頃から知っているのに、知らないものがある。
三十年以上、隣にいたのに。
ただ、子供たちは困っていない。
蓮も、困っていない。
知らないまま触って、ひんやりして、それだけで十分そうだった。
もしかしたら、そういうものなのかもしれない。
知るべきものと、知らなくていいものが、最初から分かれているわけではない。
ただ、触れるかどうかだけが、違う。
蓮は触れた。
私は、三十年触れなかった。
それだけのことかもしれない。
◇
単元の最後に、子供たちに一枚、作文を書かせた。
「この町の好きなところ」というテーマだ。
海のことを書いた子が多かった。
魚のことを書いた子もいた。
蓮は、赤土のことを書いた。
短い文章だった。
「ひんやりして、やわらかかった。なんで赤いのかは、まだ分からない。でも、また触りたいと思った」
読んで、少しだけ笑った。
教えられることと、教えられないことの境界は、まだよく分からない。
ただ、蓮の作文には、その境界の手前にある何かが、ちゃんとあった。
それが何なのかは、うまく言えない。
ただ、そういう文章だった。




