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第12話 出ていたぶんだけ

語り手:帰還者 田中朔(28歳)



 コンビニがない、ということを、ここを出るまで気にしたことがなかった。

 出てから、気になるようになった。


 戻ってきたとき、それがまだないのを確認して、少し笑った。

 笑った理由は、うまく言えない。



 大学は、東京に出た。


 農学部ではない。

 情報系だ。

 親には少し心配されたが、反対はされなかった。


 この町では、大学で何を学ぶかよりも、戻ってきてから何ができるかで判断される。

 少なくとも、私はそう理解していた。


 東京に出て最初の一年、頭の中にあったのは、帰ってきてから何をするか、という話だった。



 同期の連中は、よく言った。


「地元に帰るの?もったいない」

「なんで」

「せっかく東京出てきたのに」


 そのやりとりを、最初の頃は何度もした。

 途中から、しなくなった。


 説明しても、たぶん伝わらない、と思い始めたからだ。



 伝わらないものが、具体的に何なのかは、出てみて初めて分かった。


 東京では、何かをするたびにお金が要った。

 当たり前のことだ。


 だが、私には少し時間がかかった。

 病院に行けば、お金を払う。

 それが普通だと、頭では分かっていた。

 財布を出すたびに、毎回少しだけ驚いた。


 慣れたのは、二年目の後半だった。

 慣れてから、自分がどういう場所で育ったのかが、少し分かった。



 友人に、一度だけ話したことがある。


「俺の生まれた町、住民税がないんだけど」


 相手は笑った。


「何それ、嘘でしょ」

「本当だよ」

「どういう仕組みで」

「よく分からん。畑があって、それで何かできてるらしくて」

「畑って何、農業?」

「まあ、そういうものだと思う」


 相手は少し考えてから言った。


「宗教じゃないの」


 笑い話として終わった。

 悪意はなかった。


 ただ、その後から、あの町のことを人に話すのをやめた。



 卒業して戻ってきたのは、就職先が決まったからだ。


 町の関連施設で、データ管理の仕事をしている。

 赤土の畑から出てくる数値を、扱いやすい形に整える仕事だ。

 詳しい内容は、入ってから学んだ。


 学べば学ぶほど、何を扱っているのかが、よく分からなくなった。

 それは今も続いている。



 仕事を始めて半年ほど経った頃、先輩に聞いたことがある。


「これ、何のデータなんですか」


 先輩は少し考えてから言った。


「そういう質問、最初は誰でもする」

「答えはないんですか」

「答えはある。ただ、その答えが、聞きたいものかどうかは分からない」

「どういう意味ですか」

「数値としては全部ある。なぜそうなるかは、ない」


 それ以上は教えてもらえなかった。

 教える気がないというより、それ以上のことを、先輩も知らないのだと思った。



 東京にいた頃の話を、母にしたことがある。


「病院で払ったりするんだな、と思った」


 母は少し不思議そうな顔をした。


「そうじゃない町が、あっちでは普通なんでしょ」

「ほとんどそうだよ」

「大変ね」


 大変、という言葉の使い方が、少しずれているとは思った。

 だが、正確でもある。


 何かをするたびにお金が要るということが、母にとっては「大変」に聞こえる。

 それが普通だと思って生きてきた人間には、そう聞こえる。


 どちらが正しいのかは、分からない。



 戻ってきてから、この町が「異常」だということは、はっきり分かった。

 出る前は分からなかった。

 出てみて、戻ってきて、初めて分かった。


 異常、というのは悪い意味ではない。

 ただ、普通ではない。


 普通ではない場所で育ったということを、外に出て初めて理解した。

 そしてその理解は、戻ってきてから、もう少し深くなった。



 今年の春から、問い合わせの数が増えた。


 仕事で関わる範囲ではないが、職場の空気で分かる。


 電話が増えた。

 来訪者が増えた。

 外から来る研究者が、以前より少し多い。


 特に何も言われていない。

 だが、何かが変わっている気がする。



 先日、同期の吉田と話した。


 吉田はこの町の生まれで、大学も出ずにそのまま残った。

 畑の管理をしている。


「最近、外から人来るな」


 吉田に言ったら、少し間を置いて答えた。


「前からおったけどな」

「増えてない?」

「増えとるかもしれん」

「気にならない?」


 吉田は首を少しかしげた。


「気にするべきなのか」


 そう言って、作業に戻った。

 私には、その感覚がない。

 出て戻ってきた人間と、ずっとここにいた人間では、見え方が違う。


 どちらが正しいのかは、分からない。



 夜、自分の部屋から畑の方向を見ることがある。

 暗くて、何も見えない。


 ただ、そこにある、ということは分かる。

 私が生まれる前から、あそこにあった。


 誰も気にしなかった頃から、あそこにあった。


 今は、外から人が来て見ていく。

 それでも、土は変わっていない。

 変わったのは、見る人間の方だ。



 戻ってきたことを、後悔しているかと聞かれれば、していない。

 ただ、戻ってきてよかった、とも、まだ言い切れない。


 東京にいた頃の自分と、ここにいる今の自分と、どちらが正しいのかを考えることが、たまにある。

 正しい、という問い方が、そもそも合っていないかもしれない。


 ここが異常なのではなく、ここが特別なのだ、と言う人もいる。

 特別と異常の違いが何なのかは、今もよく分からない。



 ただ、一つだけ分かることがある。


 出なければ、この町のことを分からなかった。


 出てきてよかったのは、その一点においては、確かだ。

 帰ってきてよかったのかどうかは、もう少し先にならないと分からない。

 今は、仕事をして、数値を整えて、データを次の人間に渡す。

 それだけをしている。


 それで十分なのかどうかも、まだ分からない。



 朝、出勤するとき、畑の横を通ることがある。

 赤土が、朝の光の中にある。


 子供のころは、ただの土だった。

 今も、ただの土だ。

 ただの土ではない、ということは、今は知っている。

 知っていても、見た目は変わらない。


 それが不思議なのか当たり前なのかも、よく分からない。


 私はまだ、この町の見方を、探している途中だ。

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