第12話 出ていたぶんだけ
語り手:帰還者 田中朔(28歳)
◇
コンビニがない、ということを、ここを出るまで気にしたことがなかった。
出てから、気になるようになった。
戻ってきたとき、それがまだないのを確認して、少し笑った。
笑った理由は、うまく言えない。
◇
大学は、東京に出た。
農学部ではない。
情報系だ。
親には少し心配されたが、反対はされなかった。
この町では、大学で何を学ぶかよりも、戻ってきてから何ができるかで判断される。
少なくとも、私はそう理解していた。
東京に出て最初の一年、頭の中にあったのは、帰ってきてから何をするか、という話だった。
◇
同期の連中は、よく言った。
「地元に帰るの?もったいない」
「なんで」
「せっかく東京出てきたのに」
そのやりとりを、最初の頃は何度もした。
途中から、しなくなった。
説明しても、たぶん伝わらない、と思い始めたからだ。
◇
伝わらないものが、具体的に何なのかは、出てみて初めて分かった。
東京では、何かをするたびにお金が要った。
当たり前のことだ。
だが、私には少し時間がかかった。
病院に行けば、お金を払う。
それが普通だと、頭では分かっていた。
財布を出すたびに、毎回少しだけ驚いた。
慣れたのは、二年目の後半だった。
慣れてから、自分がどういう場所で育ったのかが、少し分かった。
◇
友人に、一度だけ話したことがある。
「俺の生まれた町、住民税がないんだけど」
相手は笑った。
「何それ、嘘でしょ」
「本当だよ」
「どういう仕組みで」
「よく分からん。畑があって、それで何かできてるらしくて」
「畑って何、農業?」
「まあ、そういうものだと思う」
相手は少し考えてから言った。
「宗教じゃないの」
笑い話として終わった。
悪意はなかった。
ただ、その後から、あの町のことを人に話すのをやめた。
◇
卒業して戻ってきたのは、就職先が決まったからだ。
町の関連施設で、データ管理の仕事をしている。
赤土の畑から出てくる数値を、扱いやすい形に整える仕事だ。
詳しい内容は、入ってから学んだ。
学べば学ぶほど、何を扱っているのかが、よく分からなくなった。
それは今も続いている。
◇
仕事を始めて半年ほど経った頃、先輩に聞いたことがある。
「これ、何のデータなんですか」
先輩は少し考えてから言った。
「そういう質問、最初は誰でもする」
「答えはないんですか」
「答えはある。ただ、その答えが、聞きたいものかどうかは分からない」
「どういう意味ですか」
「数値としては全部ある。なぜそうなるかは、ない」
それ以上は教えてもらえなかった。
教える気がないというより、それ以上のことを、先輩も知らないのだと思った。
◇
東京にいた頃の話を、母にしたことがある。
「病院で払ったりするんだな、と思った」
母は少し不思議そうな顔をした。
「そうじゃない町が、あっちでは普通なんでしょ」
「ほとんどそうだよ」
「大変ね」
大変、という言葉の使い方が、少しずれているとは思った。
だが、正確でもある。
何かをするたびにお金が要るということが、母にとっては「大変」に聞こえる。
それが普通だと思って生きてきた人間には、そう聞こえる。
どちらが正しいのかは、分からない。
◇
戻ってきてから、この町が「異常」だということは、はっきり分かった。
出る前は分からなかった。
出てみて、戻ってきて、初めて分かった。
異常、というのは悪い意味ではない。
ただ、普通ではない。
普通ではない場所で育ったということを、外に出て初めて理解した。
そしてその理解は、戻ってきてから、もう少し深くなった。
◇
今年の春から、問い合わせの数が増えた。
仕事で関わる範囲ではないが、職場の空気で分かる。
電話が増えた。
来訪者が増えた。
外から来る研究者が、以前より少し多い。
特に何も言われていない。
だが、何かが変わっている気がする。
◇
先日、同期の吉田と話した。
吉田はこの町の生まれで、大学も出ずにそのまま残った。
畑の管理をしている。
「最近、外から人来るな」
吉田に言ったら、少し間を置いて答えた。
「前からおったけどな」
「増えてない?」
「増えとるかもしれん」
「気にならない?」
吉田は首を少しかしげた。
「気にするべきなのか」
そう言って、作業に戻った。
私には、その感覚がない。
出て戻ってきた人間と、ずっとここにいた人間では、見え方が違う。
どちらが正しいのかは、分からない。
◇
夜、自分の部屋から畑の方向を見ることがある。
暗くて、何も見えない。
ただ、そこにある、ということは分かる。
私が生まれる前から、あそこにあった。
誰も気にしなかった頃から、あそこにあった。
今は、外から人が来て見ていく。
それでも、土は変わっていない。
変わったのは、見る人間の方だ。
◇
戻ってきたことを、後悔しているかと聞かれれば、していない。
ただ、戻ってきてよかった、とも、まだ言い切れない。
東京にいた頃の自分と、ここにいる今の自分と、どちらが正しいのかを考えることが、たまにある。
正しい、という問い方が、そもそも合っていないかもしれない。
ここが異常なのではなく、ここが特別なのだ、と言う人もいる。
特別と異常の違いが何なのかは、今もよく分からない。
◇
ただ、一つだけ分かることがある。
出なければ、この町のことを分からなかった。
出てきてよかったのは、その一点においては、確かだ。
帰ってきてよかったのかどうかは、もう少し先にならないと分からない。
今は、仕事をして、数値を整えて、データを次の人間に渡す。
それだけをしている。
それで十分なのかどうかも、まだ分からない。
◇
朝、出勤するとき、畑の横を通ることがある。
赤土が、朝の光の中にある。
子供のころは、ただの土だった。
今も、ただの土だ。
ただの土ではない、ということは、今は知っている。
知っていても、見た目は変わらない。
それが不思議なのか当たり前なのかも、よく分からない。
私はまだ、この町の見方を、探している途中だ。




