第11話 隣にいた人間
語り手:町長の妻 村上恵子(52歳)
◇
朝、夫が出る前に、電話が鳴った。
この頃、朝に鳴ることが増えた。
以前は、役場からの用件は昼過ぎが多かった。今は違う。誰からなのかは、聞いていない。夫は短く話して、切った。
「行ってくる」
それだけ言って、玄関を出た。
私は台所で、その背中を見ていた。
特別なことは、何もない。いつもの朝だ。
ただ、いつもの朝とは、少し違う。
うまく言えないが、そういう感じがする。
◇
夫とは、二十三年になる。
出会ったのは、夫が大学院を出て帰ってきた翌年のことだ。
私はこの町の生まれで、その頃は役場に勤めていた。
夫は、すでに畑で何かをやっていた。
近所の人間は、「あの子、また変なことやってる」と言っていた。
悪意ではない。ただ、誰も中身を知らなかった。
私も知らなかった。
◇
最初に話したのは、役場の窓口だ。
夫が、土地の利用に関する書類を持ってきた。
手続きの説明をしながら、私は思った。
変な人だ、と。
説明を聞いているのか聞いていないのか、よく分からない顔をしていた。
だが、返事はちゃんとしていた。
もう一度来たとき、同じ窓口に当たった。
書類の不備があったからだ。
「すみません、ここが足りていなかった」
夫は少しも面倒くさそうではなかった。
「教えてくれてよかった」
そう言って、書き直しに行った。
◇
結婚する前、一度だけ畑に連れて行かれたことがある。
特別な場所だとは思わなかった。
赤い土が、なだらかに広がっているだけだった。
「これが何なの」
聞いたら、夫は少し考えてから言った。
「まだ、説明できる言葉を持っていない」
変な答えだと思った。
だが、その顔は本気だった。
それでいいと思った。
説明できない本気の顔は、説明できる嘘より、ずっと信用できる。
◇
結婚してから、夫の仕事のことを誰かに聞かれることが増えた。
「何をしてらっしゃるの、旦那さん」
「畑の仕事を」
「ああ、農家さん?」
「少し違いますが、まあそんなものです」
それ以上、説明したことはない。
説明できないからではなく、する必要がないと思ったからだ。
夫が「使える」と言って帰ってきた、ということ。
それだけを、私は知っていた。
それで十分だった。
◇
町が変わり始めた頃のことを、よく覚えている。
急に変わったわけではない。
水道代の通知が変わった。医療費の手紙が来た。
役場の窓口に問い合わせが増えた。
夫は、以前とたいして変わらなかった。
朝早く出て、夕方に帰る。
帰ってきたら、少し話して、本を読む。
外では何かをしているはずだが、家では静かだ。
それが不満だったか、というと、そうではない。
ただ、そういう人間だということを、早いうちに理解していた。
◇
義父が「飽きた」と言い出したのは、そういう頃だった。
前の町長、私からすれば義父だ。
話したことは少なくない。
飄々とした人で、何を考えているのか分からなかったが、人を困らせることには無頓着だった。
「飽きたから辞める」
聞いたとき、私は少しだけ笑ってしまった。
そういう家だ、と思った。
夫が町長になるかもしれないという話が出たとき、夫は特に何も言わなかった。
夜、布団の中で一度だけ言った。
「断る理由が思いつかん」
「それは引き受けるということ?」
「そうなるな」
それだけだった。
◇
町長になってから、夫は相変わらず同じ人間だった。
帰りが遅くなることは増えた。
だが、家での様子は変わらなかった。
休日には畑に行く。
それも変わらなかった。
ただ、最近は少しだけ違う。
帰ってきたときの顔が、以前より少し、何かを持っている。
考えている顔とも違う。
疲れているわけでもない。
うまく言えないが、耳を澄ましているような顔、と言えばいいのか。
◇
先日、夕飯の後に珍しく自分から話をした。
「最近、外から連絡が増えている」
「どんな」
「いろいろだ。調べたい、見せてほしい、話を聞かせてほしい」
特に感情のない言い方だった。
「困ってる?」
「困ってはいない。ただ」
そこで少し止まった。
「前とは、違うものが来ている気がする」
それだけ言って、本を開いた。
◇
前と違うものが何なのか、私には分からない。
夫も、それ以上は言わなかった。
聞かなかった。
この人は、言葉にできないことを言葉にしようとしない。
無理に出てきた言葉は、本当のことではないと、たぶん思っている。
それが正しいのかどうかは分からない。
ただ、二十三年、それで過ごしてきた。
◇
夫が畑に行くときは、大体一人だ。
健一が来ることはあるが、それ以外は来客があっても、最後は一人になる。
何をしているのかは聞いたことがない。
土を触っているのは知っている。
先日、蓮という子供が触ったという話を、夫が少しだけ話した。
「下の方が赤いねって言った」
「そう言ったの」
「ああ」
夫の顔が、少しだけ柔らかくなった。
そういう顔を、この人はたまにする。
滅多にしないから、余計に分かる。
◇
朝の電話が増えていることを、私は誰にも話していない。
話す相手もいないし、話す必要もない。
ただ、変化があるということは、知っている。
この町の外で、何かが動き始めているのだろうと思う。
夫は、それを分かった上で、今まで通りに動いている。
毎朝出て、夕方帰る。
休日には畑に行く。
変わらない。
それが、この人の答えなのだと思う。
言葉にはしない。
ただ、そうしている。
◇
台所を片付けながら、窓の外を見た。
遠くに、畑が見える。
朝の光の中で、赤土が少し明るくなっている。
あの土が何なのか、私はまだよく知らない。
二十三年、隣にいたのに。
夫もたぶん、全部は知らない。
でも、一番近くにいるのは私だ。
それが何かになるわけでも、何かの役に立つわけでもない。
ただ、そういうことを、たまに思う。
波の音が、遠くから聞こえる。
この町では、いつも聞こえている。
今日は、少しだけ大きい気がした。




