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第11話 隣にいた人間

語り手:町長の妻 村上恵子(52歳)



 朝、夫が出る前に、電話が鳴った。


 この頃、朝に鳴ることが増えた。

 以前は、役場からの用件は昼過ぎが多かった。今は違う。誰からなのかは、聞いていない。夫は短く話して、切った。


「行ってくる」


 それだけ言って、玄関を出た。


 私は台所で、その背中を見ていた。

 特別なことは、何もない。いつもの朝だ。


 ただ、いつもの朝とは、少し違う。

 うまく言えないが、そういう感じがする。



 夫とは、二十三年になる。


 出会ったのは、夫が大学院を出て帰ってきた翌年のことだ。

 私はこの町の生まれで、その頃は役場に勤めていた。

 夫は、すでに畑で何かをやっていた。


 近所の人間は、「あの子、また変なことやってる」と言っていた。


 悪意ではない。ただ、誰も中身を知らなかった。


 私も知らなかった。



 最初に話したのは、役場の窓口だ。


 夫が、土地の利用に関する書類を持ってきた。

 手続きの説明をしながら、私は思った。

 変な人だ、と。


 説明を聞いているのか聞いていないのか、よく分からない顔をしていた。

 だが、返事はちゃんとしていた。

 もう一度来たとき、同じ窓口に当たった。

 書類の不備があったからだ。


「すみません、ここが足りていなかった」


 夫は少しも面倒くさそうではなかった。


「教えてくれてよかった」


 そう言って、書き直しに行った。


 結婚する前、一度だけ畑に連れて行かれたことがある。

 特別な場所だとは思わなかった。


 赤い土が、なだらかに広がっているだけだった。


「これが何なの」


 聞いたら、夫は少し考えてから言った。


「まだ、説明できる言葉を持っていない」


 変な答えだと思った。

 だが、その顔は本気だった。

 それでいいと思った。


 説明できない本気の顔は、説明できる嘘より、ずっと信用できる。



 結婚してから、夫の仕事のことを誰かに聞かれることが増えた。


「何をしてらっしゃるの、旦那さん」

「畑の仕事を」

「ああ、農家さん?」

「少し違いますが、まあそんなものです」


 それ以上、説明したことはない。


 説明できないからではなく、する必要がないと思ったからだ。

 夫が「使える」と言って帰ってきた、ということ。

 それだけを、私は知っていた。


 それで十分だった。



 町が変わり始めた頃のことを、よく覚えている。

 急に変わったわけではない。


 水道代の通知が変わった。医療費の手紙が来た。

 役場の窓口に問い合わせが増えた。

 夫は、以前とたいして変わらなかった。

 朝早く出て、夕方に帰る。

 帰ってきたら、少し話して、本を読む。


 外では何かをしているはずだが、家では静かだ。

 それが不満だったか、というと、そうではない。

 ただ、そういう人間だということを、早いうちに理解していた。



 義父が「飽きた」と言い出したのは、そういう頃だった。


 前の町長、私からすれば義父だ。

 話したことは少なくない。

 飄々とした人で、何を考えているのか分からなかったが、人を困らせることには無頓着だった。


「飽きたから辞める」


 聞いたとき、私は少しだけ笑ってしまった。

 そういう家だ、と思った。


 夫が町長になるかもしれないという話が出たとき、夫は特に何も言わなかった。

 夜、布団の中で一度だけ言った。


「断る理由が思いつかん」

「それは引き受けるということ?」

「そうなるな」


 それだけだった。



 町長になってから、夫は相変わらず同じ人間だった。


 帰りが遅くなることは増えた。

 だが、家での様子は変わらなかった。

 休日には畑に行く。

 それも変わらなかった。


 ただ、最近は少しだけ違う。

 帰ってきたときの顔が、以前より少し、何かを持っている。

 考えている顔とも違う。

 疲れているわけでもない。


 うまく言えないが、耳を澄ましているような顔、と言えばいいのか。



 先日、夕飯の後に珍しく自分から話をした。


「最近、外から連絡が増えている」

「どんな」

「いろいろだ。調べたい、見せてほしい、話を聞かせてほしい」


 特に感情のない言い方だった。


「困ってる?」

「困ってはいない。ただ」


 そこで少し止まった。


「前とは、違うものが来ている気がする」


 それだけ言って、本を開いた。



 前と違うものが何なのか、私には分からない。

 夫も、それ以上は言わなかった。

 聞かなかった。


 この人は、言葉にできないことを言葉にしようとしない。

 無理に出てきた言葉は、本当のことではないと、たぶん思っている。

 それが正しいのかどうかは分からない。


 ただ、二十三年、それで過ごしてきた。



 夫が畑に行くときは、大体一人だ。


 健一が来ることはあるが、それ以外は来客があっても、最後は一人になる。

 何をしているのかは聞いたことがない。


 土を触っているのは知っている。

 先日、蓮という子供が触ったという話を、夫が少しだけ話した。


「下の方が赤いねって言った」

「そう言ったの」

「ああ」


 夫の顔が、少しだけ柔らかくなった。

 そういう顔を、この人はたまにする。

 滅多にしないから、余計に分かる。



 朝の電話が増えていることを、私は誰にも話していない。

 話す相手もいないし、話す必要もない。


 ただ、変化があるということは、知っている。


 この町の外で、何かが動き始めているのだろうと思う。

 夫は、それを分かった上で、今まで通りに動いている。


 毎朝出て、夕方帰る。

 休日には畑に行く。

 変わらない。


 それが、この人の答えなのだと思う。

 言葉にはしない。


 ただ、そうしている。



 台所を片付けながら、窓の外を見た。


 遠くに、畑が見える。

 朝の光の中で、赤土が少し明るくなっている。


 あの土が何なのか、私はまだよく知らない。


 二十三年、隣にいたのに。

 夫もたぶん、全部は知らない。


 でも、一番近くにいるのは私だ。


 それが何かになるわけでも、何かの役に立つわけでもない。

 ただ、そういうことを、たまに思う。


 波の音が、遠くから聞こえる。

 この町では、いつも聞こえている。


 今日は、少しだけ大きい気がした。


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