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第92話 「願い」

 神は、いた。



 その事実は。



 一夜で世界を変えた。



 都市の朝。


 市場は開いている。


 水路は流れている。


 役人も歩いている。



 だが。



 空気が違う。



 誰もが空を見る。



「……そりゃそうなりますよね」


 リリアが呟く。


 昨日まで伝説だったものが。


 今は目撃情報になった。


 エルミナが静かに言う。


「ええ」


「価値観の根幹が揺らぎました」


 セリスが低く言う。


「……認識革命」


 ノアが笑う。


「祭りだね」



 広場では。



 新しい集団が生まれていた。



 ひざまずく者たち。


 白布をまとい、光の印を描く者たち。


 “顕現の日”を語る者たち。



「……増えてる」


 リリアが顔をしかめる。


 エルミナが頷く。


「ええ」


「旧神殿派とは別です」


 セリスが低く言う。


「……新興宗教」


 ノアが笑う。


「人類、仕事が早い」



 旧神殿派は、崩れた。



 神殿長は生かされ。


 失意のまま塔の外れで監視下に置かれている。



 だが。



 その空白に。



 新しい語り手たちが入った。



 “神は優しい”


 “王は神に選ばれた”


 “顕現の日に見た光で病が治った”



「……最後のやつ絶対嘘ですよね」


 リリアが言う。


 アレンが鼻で笑う。


「……盛るのが早い」



 一方で。



 別の動きもあった。



 役人たち。


 商人たち。


 守備隊。



 彼らは新王へ迫っていた。



 神の実在が証明された今。



 それを国家の正統性に使うべきだ、と。



「……来ましたね」


 エルミナが静かに言う。


「神授王権の誘惑です」


 セリスが低く言う。


「……最強の権威装置」


 ノアが笑う。


「使えば一気に固まるよ」



 王宮。



 新王は黙って報告を聞いていた。



 側近は言う。



 王は神と対話した。


 王だけが神と対等に立った。


 ならば王は選ばれた存在だ。



 それを宣言すれば。


 反対派は消える。


 国はまとまる。



「……うわ」


 リリアが呟く。


「めちゃくちゃ魅力的な誘惑ですね」



 新王は何も言わない。



 ただ。



 記録板を見ていた。



 初代王の言葉。


 “決めるのは、お前らだ”。



「……」


 アレンは少しだけ目を細める。



 どうする。



 神を使えば、勝てる。



 使わなければ、面倒が続く。



 夜。



 高台。



 新王が一人で空を見ていた。



 以前の王と同じ場所。



「……呼ばれてますよ」


 リリアが言う。


 アレンはため息をつく。



「……行かねぇと終わらねぇか」



 次の瞬間。



 アレンはその場に現れる。



 新王は驚かない。



 ただ、見る。



「……慣れてきましたね」


 リリアが笑う。



 新王は胸を叩く。


 次に都市を指す。


 次にアレンを指す。



「……?」


 エルミナが静かに読む。


「民が、あなたを求めている」



 続けて。



 新王は自分を指す。


 首を横に振る。



「……?」


 セリスが低く言う。


「……自分では足りない」



 新王は最後に。



 両手を広げる。



 願う姿勢。



「……」


 リリアが息を呑む。


「お願い、してる……」



 アレンは黙る。



 人類から。



 初めての正式な要求。



 征服でも。


 反乱でも。


 偶然の接触でもない。



 “頼みごと”。



「……何を望む」



 アレンが静かに問う。



 新王は。



 都市を指す。


 畑を指す。


 病に伏す者たちの区画を指す。


 干上がりかけた外縁の土地を指す。



 そして。



 空を見る。



「……」


 エルミナが小さく言う。


「雨」



「……え?」


 リリアが目を丸くする。



「雨を、望んでいます」



 沈黙。



 ノアが吹き出す。


「めっちゃ現実的」



 アレンも、一瞬黙る。



 もっとあると思った。


 不死。


 力。


 永遠。



 だが違った。



 欲しいのは。



 水。


 作物。


 民の命。



「……」


 新王は続ける。



 自分のためではない。


 都市のためだと。



「……」


 アレンは、その目を見る。



 嘘はない。



 この王は。


 最後まで現実の王だった。



「……」


 リリアが小さく言う。


「どうします?」


 エルミナが静かに続ける。


「ここで応えれば、信仰は決定的になります」


 セリスが低く言う。


「……だが救える命もある」


 ノアが笑わずに言う。


「難しいね」



 アレンは空を見る。



 雲は薄い。


 土地は乾いている。



 やろうと思えば。


 簡単だ。



 だが。



 その一度が。



 未来を変える。



「……」


 新王は待つ。



 強制しない。


 跪かない。



 ただ、願う。



 都市のために。



 アレンは小さく息を吐いた。



「……面倒な願いだ」



 そして。



 手を、空へ向けた。



 雲が、集まり始める。



「……っ!」


 リリアが目を見開く。


「やるんですか!?」



 アレンは答えない。



 空が暗くなる。


 風が変わる。



 都市中の者たちが見上げる。



 神話が。



 現実になる。



――第92話 完

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