「城下町の市場調査-巡礼編XXⅦ-家政婦体験篇XⅤ-」
【おいおいおい……待て待て待て。
そこは俺の席だろうが?
どういう了見だ、これは】
彼が指さす先――
そこには、涼しい顔でナーレが腰を下ろしている。
足を組み、まるで最初から自分の指定席であったかのように。
≪忘れたのか?
座らせたのは、お前だ≫
≪十二番にしろ、と言ったのもな≫
沈黙。
彼のこめかみが、わずかに引き攣る。
【……は?】
男は、少しだけ視線を斜め右上に泳がせた。
【あぁ~……そうだったね。
僕の指定席は、そこだったんだけどな……】
わざとらしく肩を竦める。
【さて、と。
今、どこが空いているんだっけ?】
≪一番、二番、五番、八番、九番、十一番だ≫
間。
≪お前が決めた。
“十二分の一”にする、と≫
男の指先が、空席をなぞる。
【……あぁ。そうだった。
確率は平等。だが、運命は偏る――だったか?】
男は空席を見渡した。
王座も、深淵も、革命も、始まりも――
【結局?
俺は、どれなんだろうな?】
≪どれ、ではない≫
≪お前は“座る席”で定義されるのではない。
座った後に、席を変質させる側だ≫
男は、わずかに笑う。
【それとも――空席そのものか?】
沈黙。
≪十二分の一だ。
だが、選択は一度きりだ≫
男は指先で、空気に円を描く。
【……違うな。
俺は、呼ばれている席に座る】
男はしばし空席を見渡し――
一番、八番、九番、十一番。
その四脚を、ゆっくりと引き寄せた。
木が床を擦る音が、食堂に乾いて響く。
それらを一直線に並べる。
≪……お前、何をしている≫
男は答えない。
椅子を四つ揃えたまま、その上へと仰向けに身を投げた。
【座る? 違うな。】
腕を広げ、天井を仰ぐ。
【座を一つ選ぶんじゃない。
座を横断する】
≪愚かだな≫
≪四座を跨げば、どこにも属さぬ≫
男は目を閉じた。
【属する必要なんてないさ。
俺は通過点でいい】
天井の見えない一点で、
何かが、わずかに嗤った。
【素っ頓狂だ。
だが、理屈は通っている】
男は身を起こし、半身だけこちらを向ける。
【あそこは“竪琴を持った人魚”の席だ。
旋律と海鳴りの境界――】
視線がわずかに揺れる。
【俺は、あそこで世界を俯瞰してたんだ】
≪ならば奪い返すか?≫
男は笑う。
【いや。奪うのは、格好悪いだろ】
再び横になる。
【だから寝る。星を跨いでな】
【素っ頓狂ついでに、もう一つ言わせてもらおう。
うむ――此処が中世でよかった】
男は仰向けのまま、片手をひらひらと振る。
【もし平成や令和であればな?
あの雲間から、レディーの“あけすけならぬ何か”が
見え隠れしてしまうやもしれん】
≪……具体的に言ってみろ≫
【言えるか。
紳士だぞ、私は】
≪寝転がって四席を占拠している紳士がいるか≫
男は一瞬、黙る。
【……形式上は、紳士だ】
≪形式だけだな≫
【メイドの前でやってみろ?
殺されるぞ?】
≪エスリンを呼ぼうか?
切除してくれるかもしれんぞ?≫
男はぴくりと起き上がる。
【待て待て待て。
物騒すぎるだろう】
≪安心しろ。
的確だ≫
【僕はそんな癖はないよ!
まだヴィーウィ先輩の莫迦さ加減に
茶々入れている方が健全だ!】
≪最低の比較対象だな≫
【健全だ!】
≪声が大きい≫
【防音だ! 完璧だ!】
≪逆位相で増幅している≫
【え?】
≪食堂中に響いている≫
ヴィーウィ先輩、ぱちぱちと拍手。
「文化論、続けます?」
男、四席から転げ落ちる。
【ふぅ……ふぅ~ん……なかなかやるじゃないの?】
男は余裕ぶって腕を組む。
【それで?
少女である君が、僕に勝てるわけないじゃん――
アルデバイジャン】
≪何の国名だ≫
【語感だよ語感】
≪意味はないのか≫
【勢いだ】
背後から、静かな声。
「誰が、少女ですって?」
男、硬直。
ゆっくりと振り向く。
ヴィーウィ先輩は腕を組んでいた。
実際――どことは言わないが、豊満であった。
男は視線を逸らす。逸らしきれない。
【君はそこに居てくれ。
それ以上揺れると、風紀に関わる】
沈黙。
≪お前のな≫
「風紀委員、呼びましょうか?」
【違う、違うんだ。
これは純粋な安全配慮だ】
≪視線が純粋でない≫
ヴィーウィ先輩、にこりと笑う。
「揺らします?」
男、即答。
【物理法則が悪い。
重力が悪い。
私は被害者だ】
≪万有引力に謝れ≫
【流石に豊満なやつで、下向きの重力を説く勇気は無いぞ?】
男は真顔だった。
真顔なのが余計に悪い。
≪説くな。今すぐ黙れ≫
【いや待て、これは科学の話だ。
私は自然現象を――】
「自然“現象”ですって?」
ヴィーウィ先輩、にこり。
【違う、違う。
自然“文化財”】
≪悪化したな≫
男、汗が一筋。
【私はただ、重力の偉大さに敬意を――】
「試してみます?」
ヴィーウィ先輩が一歩踏み出す。
男、反射的に後退。
【やめてください本当に】
≪勇気は無いのだな≫
【命が惜しい】
【万有引力は平等だ。
しかし、影響力は平等ではない】
≪何の研究論文だ≫
【観測者の精神力が問われる】
≪お前が最も弱い≫
【なんだ? 男の自然現象でも説くのか?
上向きの重力が発生するって?】
空気が、凍る。
≪黙れ≫
「……へぇ?」
ヴィーウィ先輩の笑みが、ひどく静かになる。
男は腕を組んだまま、まだ余裕ぶっている。
【科学的好奇心だ。
未知の重力現象は探究すべき――】
ガタン。
椅子が引かれる音。
エスリンが、無言で立つ。
≪お前の“自然現象”は今から人工的に止められるぞ≫
【待て待て待て待て待て】
「上向き、でしたっけ?」
ヴィーウィ先輩が一歩近づく。
男、後退。
【理論だ! 仮説だ!
実証は不要だ!】
≪既に破綻している≫
男、壁に追い詰められる。
【私はただ重力について――】
「では、落ちてみますか?」
静かに差し出される手。
男、即座に正座。
【すみませんでした】
≪自然に還ったな≫
【えー、はいはい。
戻りますよ~】
男は両手をひらひら振りながら、四席に転がり落ちる。
【ちょっとお茶目なくらい、赦してくれよな。
手詰まり感、半端ないんだからさ】
≪お前の人生の話か≫
【今この場の話だよ】
「手詰まり、ですか?」
ヴィーウィ先輩が首を傾げる。
【だってさ、席は埋まってるし、
星座は呼ばないし、
重力は味方しないし】
≪重力は最初から敵だ≫
男、肩をすくめる。
【少し場を動かしたかっただけだ】
沈黙。
ナーレが静かに言う。
「動いたわよ。
あなたの評価が」
≪下降方向にな≫
男、立ち止まる。
【……下向きの重力か】
≪学習していないな≫
【それで、皆さんこの先の展開を言ってくれ。
真面目に手詰まりしてんだわ。
呑気にお食事シーンやるの一回? いや、何回もしてんだよ】
沈黙。
≪作者に聞け≫
【お前らが登場人物だろうが】
「展開、ですか?」
ヴィーウィ先輩がフォークを置く。
「じゃあ提案です」
男、身を乗り出す。
「誰かが席を一つ失う、とか?」
【不穏!!】
ナーレが静かに言う。
「十二の席。
空いているのは六。
満ちるか、欠けるか」
≪お前が欠けるか?≫
【やめろ……物理的に削るな】
エスリンがぽつり。
「事件が起きれば、進みますよ?」
男、凍る。
【物騒なの禁止! 平和的に!】
≪では選択だな≫
ヴァルが指を立てる。
≪一、星座が揃う。
二、裏切りが起きる。
三、席の意味が暴かれる。
四、お前が本気を出す≫
男、目を細める。
【最後のだけ現実味がない】
≪自覚はあるのだな≫
【僕が本気出すと読者が困るっしょ?
どんだけ此処で暴れてると思ってる?】
男は腕を組み、どこか誇らしげだ。
≪主に口だな≫
【精神的破壊力は高いぞ?】
≪評価は下降中だがな≫
ヴィーウィ先輩がくすりと笑う。
「本気、出してみます?」
【いや、出さない。
世界が壊れる】
≪主にお前の立場がな≫
ナーレが淡々と告げる。
「暴れているのではなく、
足場を崩しているだけよ」
【同じことだろ?】
≪違う。
前者は力がある。
後者は不用意だ≫
男、沈黙。
【……おい、急に哲学やめろ。
笑いの流れだっただろ?】
【あぁー、食事前に祈るから!
エスリンさんがいけないんだよ】
男は両手を広げて抗議する。
【あんなに高尚にされたらさ、
軸がずらせないじゃん?】
静寂。
≪お前の軸は最初からずれている≫
「祈りが、悪いと?」
エスリンが穏やかに微笑む。
男、即座に後退。
【違う違う違う、
悪いなんて言ってない。
荘厳すぎるって意味で――】
≪お前が軽すぎるのだ≫
ヴィーウィ先輩が小首を傾げる。
「では、次はもっと俗っぽく祈ります?」
【やめろ、それはそれで困る】
≪注文が多いな≫
【いや! だってファンタジーなんだから高尚でないとね。
それはそれで困るんだよ、ヴァル。地盤が崩れる】
男は急に真顔になる。
さっきまで祈りを茶化していた口とは思えない。
≪……ほう?≫
【世界観ってのはさ、
張り詰めた糸みたいなもんだろ?
一度“軽い”方に倒れたら、戻すの大変なんだよ】
ヴィーウィ先輩が目を細める。
「では、あなたは軽い側なのですか?」
【緩衝材だよ】
≪衝撃源の間違いだな≫
男は肩をすくめる。
【高尚があるから、俺が暴れても壊れない。
エスリンさんが軸を作ってくれてるから、
俺は端で揺らせる】
沈黙。
ナーレが静かに言う。
「自覚しているのね」
【してるよ。
本気で崩したら、物語が終わる】
≪読者が困ると言ったな≫
【困る。
だってこれはまだ“始まりの席”だろ?】
空気が、ほんの少しだけ締まる。
男は、揃えた四席にもう一度寝転がった。
【うーん……雲間から視えないんだよ。
あけすけな祝詞がね? 本当に詰まったな】
天井を見つめたまま、ぼやく。
≪祝詞は“あけすけ”であってはならん≫
【だから困ってるんだよ。
綺麗すぎても刺さらない。
砕けすぎると壊れる】
ヴィーウィ先輩が椅子に頬杖をつく。
「雲間、ということは……
まだ覆われているのですね?」
【そう。
まだ“降りてきてない”】
ナーレが静かに言う。
「降ろすのではなく、整えるのよ」
≪お前が騒ぐから乱流が起きている≫
男、片目だけ閉じる。
【乱流も必要だろ?
完全な静止は、物語を殺す】
沈黙。
エスリンがゆっくりと告げる。
「ならば、あなたは祈りなさい」
【俺が?】
「混ざらぬ祝詞を」
男、天井を見上げたまま。
【……それが視えないって言ってんだよ】
≪だから詰まっているのだ≫
男は天井を見たまま、ぼそりと呟く。
【魔法が出涸らしになっちまうな。
皆が『お願い』してくれてたら、出るかもしれん】
沈黙。
≪他力本願か≫
【違う。共鳴だよ】
ヴィーウィ先輩がゆっくり瞬きをする。
「私たちが、願えば?」
【魔法ってのはな、
一人で出すと暴発する。
皆で向けると“意味”になる】
ナーレが視線を上げる。
「では、あなたは媒体?」
【触媒だな。
火種は持ってる。
けど、酸素が足りん】
エスリンが静かに手を組む。
「……ならば、願いましょう」
空気が、少しだけ張る。
≪軽口は封じろ≫
男は四席の上で目を閉じる。
【一回だけだぞ。
出なかったら、また飯の話に戻る】
「保証は?」
【ない】
≪正直だな≫
男は、四席からゆっくりと身を起こす。
【俺が、高尚っぽく諳んじればいいんだろ?】
深く息を吸う。
【あぁ~全く、お前らときたらよ。
食事シーンカットすんのに力使わせるな】
≪主にお前のせいだ≫
「静かに」
エスリンの一言で、空気が締まる。
男は肩を鳴らし、視線を落とす。
さっきまでの軽さが、わずかに消える。
【……では】
一拍。
【Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.
Domine Deus,
caelorum plenitudo et lux vespertina,
respice me propitius et vultum tuum super me inclina.
Non semel tantum te invoco, Domine,
sed quotiens haec nox redeat et orbem circumdet,
usque ad diem mortis meae.
Effunde super me gratiam tuam, Deus misericors,
et auge in me lumen tuum,
ut in splendore tuo ambulem omnibus diebus vitae meae.
Per saecula saeculorum. Amen.】
物語が始まるっ――!!
「Domine et Fili,
qui vesperam bonam esse voluisti,
gratias tibi agimus.
Tu, Deus bone,
nosti quid sit vere bonum,
et in sapientia tua omnia disponis.
Sorores, audite!
Usque in finem attendite
et quod bonum est audite atque custodite.
Laus tibi, Domine,
nunc et in aeternum. ****.」
エスリンの祝詞が終わる。
「****」
その一語が、静かに卓上へ落ちた。
それを合図にしたかのように、
食事もまた、終わりを告げる。
皿の触れ合う音さえ控えめに、
燭の火だけがゆらりと揺れた。
――まるで、誰かがそう願ったかのように。
アヴェーラはエスリンさんに声を掛けて、
少しするとエスリンさんは奇麗な布を用意し、
アヴェーラの口を拭っていた。
「じっとしていてくださいませ、お嬢様」
そう囁くエスリンさんの手つきは、先ほどまで天に祈りを捧げていた時と同じくらい、
丁寧で、祈りに似た真剣さを帯びている。
拭われるアヴェーラの頬に、エスリンさんの指の温もりが布越しに伝わる。
食卓の蝋燭が小さく爆ぜ、二人の影を壁に長く、優しく揺らした。
「アヴェーラ? そろそろ……
私たちも寝ない?」
フィーネは目をこすりながら、眠たげにそう告げた。
アヴェーラはくすりと笑う。
「あら? お風呂には入りませんの?
ずいぶんお疲れですのね、フィーネ?」
フィーネはむうと頬を膨らませる。
「だって……祝詞、長いんだもの」
「あなたも唱和していたでしょう?」
「途中から半分寝てた」
「罰当たりですわね」
アヴェーラは肩をすくめる。
「では、せめて湯に浸かってからにしましょう。
祈りの後ですもの、清めは大切ですわ」
フィーネは観念したように立ち上がる。
「……じゃあ、少しだけ」
燭台の火がひとつ、またひとつと落とされていく。
私は一つだけ気になったところがあった、
一つの絵画の下に四つ並べられた席があった。
黒、青、紫が溶け合う壁面。
その絵画には羊皮紙のような巻物の図案。
その中央に描かれていたのは、一体の獣――ではなかった。
≪Domine meus,
qui in vesperam migras et in tenebras descendis,
regnum tuum permaneat.
Sit aetas tua super nos,
dum nox transit et iterum redit.
Custodi nos in umbra tua,
donec lux redeat.≫
よく見れば、重なっている。
四つ。
ひとつは、翼を持つ獅子。
夜を裂くような、鋭い瞳。
ひとつは、角を戴く牡牛。
重く、沈黙を踏みしめる蹄。
ひとつは、人の顔をした影。
目を閉じ、何かを聴いている。
そして最後に、
羽を広げた鷲。
宵の高みへと昇る姿。
四獣。
それぞれが、黒・青・紫の濃淡で溶け合いながら、
ひとつの円環を成している。
その円環は、閉じているようで、
どこかが欠けている。
テーブルを見る。
十二脚のうち、四脚。
壁に描かれた四獣と――同じ
―――どういう意味??
(それって……この四脚だけってこと?)
私は、絵画の下に置かれた四脚を指差した。
壁の四獣と、
卓の四席。
一致しているのは、そこだけだ。
≪どうだろうな≫
ヴァルは、わずかに視線を上げる。
≪此処の屋敷を設計した者は、
なかなか趣きがある≫
それだけ言って、口を閉じた。
それ以上は語らない、という態度。
私は改めて室内を見回す。
十二の椅子。
四の円環。
そして、残る八。
八は、沈黙している。
だけど――
沈黙しているからといって、
意味がないとは限らない。
≪四だけで完成するものもあれば、
十二でなければ開かぬものもある≫
ヴァルは、そう付け足した。
≪急ぐな。まだ、宵は深い≫
「おい! ナーレ、早く行くぞ。
アヴェーラが“お風呂行こう”ってうるさいからさ?」
先に行っていたはずなのに、
フィーネはわざわざ戻ってきたらしい。
心配、だったのだろう。
私は、壁の四獣から視線を外す。
「あぁ、うん!」
そう答えると、
フィーネはほっとしたように笑った。
「何ぼーっとしてんだよ。
また難しいこと考えてたろ?」
「別に。……少し、ね」
「夜に考え事すると、変な夢見るぞ」
そう言って、私の手首を軽く引く。
廊下の向こうから、
アヴェーラの声が響く。
「遅いですわよー!」
一瞬だけ、
獅子の瞳が、こちらを見た気がした。
**********
「早く行きましょ! ナーレ♪
ヴィーウィも、エスリンも!」
くるりと回る仕草が、妙に軽やかだ。
エスリンは控えめにため息をつく。
「お嬢さま、はしゃがないでくださいませ」
ヴィーウィ先輩も困ったように笑う。
「そうですよ~お嬢様。
いつもお屋敷で入っているじゃないですか?」
その一言を聞いた瞬間。
アヴェーラの頬が、ぷくーっと膨らんだ。
私とフィーネは、顔を見合わせる。
「あ」
「言っちゃったな」
「だって、今日はみんなで入れるんですもの!」
拗ねたように言うが、目はきらきらしている。
フィーネが肩をすくめる。
「じゃあ先に押すぞー」
エレベーターのボタンが、柔らかく灯る。
その光が、一瞬だけ紫を帯びた気がした。
私は、無意識に振り返る。
廊下の奥は静かで、
四獣のある食堂は、もう闇に沈んでいる。
――今は。
エレベーターの扉の脇。
壁面に、古びた石の装飾が嵌め込まれている。
「フィーネ様? すみません。
その魚と壺のレリーフを、嵌めていただけませんか?」
エスリンが、穏やかにそう願い出た。
フィーネは振り返る。
「え? これ?」
壁際の台に立てかけられていた石板。
半円形の彫刻。
水を注ぐ壺。
そして、その水流の中を泳ぐ魚。
≪……成程な≫
ヴァルの低い声。
フィーネは、何も知らぬまま軽く持ち上げる。
「ここに、嵌めるんだよな?」
壁の窪みは、ちょうどそれと同じ形をしていた。
石が嵌まる。
カチリ、と乾いた音。
エレベーターの表示灯が、一瞬だけ青く脈打つ。
エレベーターの数字が、
まだ押していないのに動き始めた。
――〈Ὑδροχόος ―― οἶκος ὁ δωδέκατος〉――
青い光が文字の輪郭をなぞり、
やがて静かに沈んだ。
エレベーターが動く。
上ではない。
下へ。
低く、重い振動。
表示灯が、≪Aries — domus prima≫を示す。
……通り過ぎた。
「え?」
フィーネが息を呑む。
私たちが来た一階を、
減速もせず、素通りする。
地階表示も出ない。
ただ、深く、降りていく。
ヴァルの声が、静かに響く。
≪水は上から下へ注がれる。
だが、円環は地の底で閉じる≫
アヴェーラが小さく呟く。
「……これ、どこへ行きますの?」
床に、水紋が浮かぶ。
そして。
不意に、止まる。
表示灯が、ゆっくりと現れる。
――〈οἶκος ὁ δωδέκατος――Lavacrum metamorphosis〉――
エレベーターの扉が、静かに開いた。
湯気。
それは白く濃く、
光を柔らかく散らす霧のように漂っていた。
音は遠い。
水の落ちる、かすかな律動だけが聞こえる。
床には、青紫の紋様が薄く刻まれている。
まるで、誰かがここで
変わろうとして、戻ることを忘れたかのように。
≪……降りろ≫
ヴァルの声は低かった。
フィーネが小さく息を呑む。
「……ここ、少し変じゃない?」
アヴェーラが頷く。
「変ですわ。
とても、静かすぎますもの」
エスリンだけが、わずかに目を閉じた。
「――清めの場です」
水の匂いがする。
しかしそれは、
湯の匂いというより、
夜に濡れた石の匂いに近かった。
私は、一歩だけ踏み出した。
湯気が、
肌ではなく、輪郭を撫でた気がした。
胸の奥で静かに響いていた。
「……本当に、ここはお風呂場なのでしょうか?
エスリン?」
アヴェーラは戸惑った声で尋ねた。
お風呂場、と聞いて思い描いていたものと、
目の前の光景は少し違っていたのだろう。
エスリンは静かに頷く。
「はい。
ここは、確かに沐浴の間です」
アヴェーラは周囲を見回す。
湯船があるわけでもない。
石造りの空間。
淡く漂う湯気。
水音は遠く、反響するように聞こえるだけ。
「……もっと、こう……」
言葉を探すように、指先を宙に泳がせる。
「泡とか……
桶とか……
お湯がちゃぷちゃぷしてる感じとか……」
フィーネが肩をすくめる。
「観光施設じゃないんだからさ」
アヴェーラは頬を膨らませた。
「だって、お風呂場って言ったら普通……」
そこで言葉を切る。
エスリンは、少しだけ微笑んだ。
「ここは、身体を洗う場所ではありません」
湯気が、ゆっくりと揺れた。
まるで、誰かが頷いたかのように。
「どちらかというと……蒸し蒸ししてます!」
ヴィーウィ先輩は、湯気の立ち込める空間を気にする様子もなく、元気よく言った。
じめじめとした密閉空間だというのに、
むしろ楽しそうに見える。
フィーネが小声で呟く。
「この人、こういうの平気なんだ……」
アヴェーラも頷く。
「ヴィーウィは、湿気に強いですものね」
ヴィーウィ先輩は胸を張る。
「湯気は肌に良いんですよ!
毛穴が開いて!」
≪発言が俗物的だな≫
ヴァルの声が低く響く。
ヴィーウィ先輩は気にしない。
「美容は大事ですから!」
壁際には、石で作られた棚があった。
浴槽というよりも、むしろ――
「サウナみたいな場所なんですね、ここ」
フィーネがぽつりと呟く。
湯気は薄く漂っているが、
水に浸かるための設備は見当たらない。
どちらかというと、
熱気に包まれるための空間に近かった。
「一応、石の棚がありますから」
アヴェーラが説明する。
ヴィーウィ先輩は腕を組む。
「汗をかく場所ですね!」
「健康に良いんですよ、汗!」
フィーネは小さく息を吐く。
「……暑くなりそう」
湯気が、わずかに濃くなった気がした。
まるで、
誰かがゆっくりと呼吸を始めたように。
湯気が、わずかに動いた。
≪ナーレ、俺は一応聞く。
俺はどうすればいいんだ?≫
(あっ……でも、貴方は――)
そういえば、この空間にはヴァルがいた。
(あっち向いてて……)
≪準備できたら、いや。服を着たら呼んでくれ≫
「とりあえず、脱ぎませんこと?
エスリン、手伝って頂戴♪」
アヴェーラは軽く言った。
湯気の中、頬がほんのり赤く染まっている。
「承知いたしました、お嬢様!」
エスリンは慣れた様子で頷く。
「ヴィーウィ先輩は、私が手伝うか」
フィーネがそう言って、少し視線を逸らした。
「うん? フィーユちゃんが手伝うの? ありがとぅ♪」
ヴィーウィ先輩は嬉しそうに笑う。
湯気の向こうで、衣擦れの気配がする。
アヴェーラとエスリンが、静かに準備を整えているらしい。
私は、自分の服をゆっくりと脱いだ。
湯気が肌を撫でる。
冷たいような、温かいような、
曖昧な感覚が背中を流れていく。
石棚の上に、丁寧に畳んで置いた。
少しだけ、躊躇う。
この場所の静けさが、
まるで何かを見られているような気がしたからだ。
≪……ナーレ≫
ヴァルの声が、低く呼んだ。
「なに?」
≪少し、話さないか?≫
私は小さく息を吐く。
湯気はまだ、ゆっくりと呼吸している。
誰かが眠る前の、静かな呼吸。
その中心は、見えないままだった。
(何を話したいの?
あっちを向いてっていったじゃないの?)
ヴィーウィ先輩とエスリンさんはその綺麗な肢体を魅せていた。
言うまでもなく、その山頂を豊かな大地に侍らし、
薄紅色の注ぎ口から垂れ往く雫が叡智を湛えている。
≪話したいことがあるだけだ。ナーレ。そのなんだ≫
≪大丈夫だ、そのうち……≫
ヴァルは何を言いたかったのか良く分からないかったけど。
(……ヴァル?)
≪何だ≫
返ってきた声は、相変わらず曖昧で、ゆっくりしていた。
(今、何か失礼なことを言わなかった?)
沈黙が、ひとつ。
湯気が、また呼吸した。
まるで、言葉を飲み込むみたいに。
≪……気のせいだろう≫
(絶対、違う)
そう思ったけれど、口には出さなかった。
出したところで、どうせまた、あの曖昧な沈黙が返ってくるだけだ。
夜は、まだ静かに、眠る前の呼吸を続けていた。
≪――あのな。ナーレ。
そのなんだ。俺が実体しても隣に居ていいか?
『どこでも』≫
ヴァルの問掛けは非常に難しい問題だった。
胸の奥が、わずかに重くなる。
それは困惑というより、もっと曖昧で、名前の付けにくい感触だった。
(…変なことを聞くのね)
小さく、ため息の前みたいな声になった。
ヴァルの問いは、簡単そうで、ひどく難しい。
「隣に居ていいか」という言葉は、場所の問題ではなかったからだ。
実体がどうとか、距離がどうとか。
そういうものより、もっと柔らかくて、壊れやすいところを触ってくる。
(どこでも、って……)
本当にどこでも、なら。
それはきっと――少しだけ、怖い。
(……考える時間を、少しだけちょうだい)
≪済まない、ナーレ……その時間は短い。≫
ヴァルの聲は誰かの手で覆われて。
ナーレには聞こえなかった。
(……今、何か言った?)
ヴァルの声が、ひどく遠くなった気がした。
誰かに手で覆われたみたいに、言葉だけが、途中で途切れている。
(……ヴァル?)
呼んでみたけれど、返事はなかった。
湯気が、静かに揺れている。
眠る前の呼吸は、まだここにあるのに、何かひとつだけ欠けたような感覚が残った。
短いと言われた時間の意味を、
考えようとして――やめた。
答えを急いでも、きっと、また曖昧な沈黙が返ってくるだけだから。
夜は、少しだけ深くなった。
【あらあら、ヴァル君、そんなに伝えたかったの~?】
≪……余計なことを言うな≫
【うーん。僕が一番いいロケーションあげたって言うのに
エスリンさんとヴィーウィ先輩を気にしてて、しゃべる時間無くなっちゃったねぇ?】
≪……別に、気にしていたわけじゃない≫
そう答えた声は、少しだけ硬かった。
本当は、話すべき言葉が、まだ形になっていなかっただけだ。
【ちょっと、エッチだったかい?
ヴァル。今の君は十三歳だからね。
仕方ないわな。精神も十三になっちまって。
あらあら可哀そうに。】
≪……そういう言い方はやめろ≫
声は、少しだけ低くなった。
怒っているわけではない。
ただ、どこか遠くを踏まれたような、曖昧な不快さがあった。
その言葉の重さを、ゆっくりと考える。
肉体がどうとか、精神がどうとか。
そういう区切りが、本当に正しいのかは分からない。
湯気が、またひとつ呼吸した。
眠る前の静けさは、少しも壊れていないのに、胸の奥だけがわずかにざわついていた。
≪……可哀そうとか、言わないでいい≫
小さく、そう付け加えた。
それは、誰に向けた言葉でもなく。
たぶん、自分自身に言い聞かせるみたいな声だった。
【君の姿を見せたら、彼女はびっくりするだろう。
父性と思っていたのが、同年代だったとはね?
そして、君には朗報だ中性だしね。
下を隠したら、まぁ。女の子と言っても過言ではない】
≪……やめろ。そういう見方はしないでいい≫
声は、静かだった。少しだけ疲れた響きも混じっている。
(姿がどうとか、性別がどうとか)
そういうことを、誰かに評価されるのは落ち着かない。
十三歳という数字が意味するものも、実際のところ、よく分かっていない。
湯気が、ゆっくりと呼吸を続けている。
眠る前の静けさは変わらないまま、ただ時間だけが少しだけ伸びた気がした。
≪……びっくりするかどうかは、別に、どうでもいい≫
そう言ってから、少しだけ間を置いた。
≪姿より……したいことがあるだけだ≫
夜は、まだ、何も答えなかった。




