「城下町の市場調査-巡礼編XXⅣ 家政婦体験篇Ⅻー」
私は別邸へと、足を速めた……。
あの「不思議なマーク」は、一体──?
路は進むほどに、緩やかに降下していく。
───雪と風の息吹が、
ブラウンガラスを細かく震わせる。
聞き慣れない聲だった。
――それは誰かの呼吸にも似ていて、
同時に――
屋敷そのものが、
軋んで、喋っている様にも思えた。
私はまだ、
それが“誰のものか”を、
知らなかった。
(誰かいるのかしら?)
そう、私は思い込む事にした。
≪あぁ──ナーレ。
確実に居るさ。
意志が息づいている……≫
ヴァルの聲に導かれるまま、
私は招かれていた。
二代目、ヴァーディ・モーレイ──
彼が過ごした別邸に……。
私達は歩みを進める。
程なく、通路は緩やかに下降していった。
外の情景は、風が失せ、
しんしんと雪だけが降り続く世界へと変わる。
まるで、外界の気配が、
少しずつ遠ざかっていく様だった。
「アヴェーラ? まだ着かないの!?」
フィーネはそう言いながら、
カンテラの蝋燭の塩梅を気にして、目前へと視線を走らせた。
「まだよ。……まだ」
アヴェーラはそう言って、まだ先は長いと示す様に微笑んだ。
「フィーネ様。
もう少しだけの辛抱です。
ここを越えれば、この通路とも暫しのお別れですから……」
その言葉は、慰めの様でもあり、
どこか“区切り”を告げる合図の様にも聞こえた。
エスリンさんは先頭に立ち、
ふと後ろを振り返って、皆の歩調を確かめていた。
「でも、あそこは別の冷たさじゃないですか~。
此処とは、別の──」
言葉の先を飲み込みながら、
ヴィーウィ先輩は小さく身を縮める。
それは寒さなのか、
それとも“これから起こる何か”への震えなのか。
ここに居る三人は、
その先を知っていて、
何も言わなかった。
エスリンさんは黙したまま、
私達を導く様に歩き出した。
アヴェーラとヴィーウィ先輩も、
その背に吸い寄せられる様に、続いた。
「ねっ? フィーネ、あと少しだって……。
断言はできないけど。
此処に居続けるのは、危険よ」
私は蝋燭に目を落とし、
その短さに、胸の奥がひやりとした。
──蝋燭は、もう三分の一しか残っていない。
「分かってるけどさ……」
フィーネは私の蝋燭に一瞬だけ視線を走らせ、
それから、渋々と足を前に運んだ。
路を進むと、
ふいに、広場の様な空間へと出た。
私達は、その広場の二階部分――
外を一望できる回廊の様な場所に立っている。
下には、階段が伸び、
その脇に、例のエレベーターが据えられていた。
一階からは、
そのまま外庭へ出られる仕組みのよう。
私は、
つい一階へ降りる階段の縁まで、身を乗り出す。
覗き込むと、
一階部分の広場が見え、
その奥に、さらに通路が続いているのが分かった。
視線を上下に動かして、
私は気づく。
「裡貫く通路」は、
一階の通路の“上”を、橋の様に走っているのだと。
「なんだか、複雑な場所ね?
アヴェーラ──?」
その言葉が、思わず口から零れた。
外は一面の銀世界で、
正面に見える邸宅は、雪の向こうにぼんやりと霞んでいる。
視線を左から右へと動かすと、
噴水と、水路が見えた。
噴水は凍りついているはずなのに、
水路のどこかで、
微かに“水の音”がした気がした。
その水路は幾重にも分岐し、
外に据えられた大きめのエレベーターへと、直結している様だった。
私は、慌てて身を引っ込めた。
外気は、想像以上に冷え切っていた。
皮膚の感覚が失われる前に、
私は在るべき場所へと、身を引き寄せる。
路は、此処で三倍ほどに広がっていた。
そして……
通路の左側の壁に沿って、
変な金製の枠の様なものが二段あり、
冷たい壁に貼り付く様に、奥まで続いていた。
極め付きに、
なだらかな半円を描く様な構造物が、
通路の右側にも、ずっと連なっている。
その木枠の横には、
樽と袋が、無造作に置かれていた。
「またですか。
偶に、途中のままになってるんですよね、これ」
エスリンさんは困った様子で、
袋を、なだらかな半円を描く様な構造物の上へと投げ置いた。
次の瞬間、
袋は、すぅっと音もなく、
勝手に滑っていった。
表面は木製のはずなのに、
まるで濡れた石の様に、
不自然なほど滑らかだった。
「ヴィーウィ。
その樽も、何とかして欲しいわ」
エスリンさんはヴィーウィ先輩を促し、
指先は、例の変な金製の枠の構造物を示していた。
「分かりましたよ~。
これ、大変なんですよ?」
ヴィーウィ先輩は一度、樽の横に立った。
私からは、彼女の背が見える。
先に、ヴィーウィ先輩は足踏みの様な動作を始めた。
すると、みるみる樽が地面から持ち上がっていき、
ガタンと音を立てた瞬間、
通路に小さな振動が走った気がした。
何かが軋み、かしむような音がして、
横になっていた樽は、金製の枠の構造物に収まった。
「また、詰まってますぅ~。えい!」
ヴィーウィ先輩は力任せに、横から足蹴りした。
横蹴りの衝撃で、
樽は金属製の枠の中をガラガラと音を立てながら転がっていった。
「さぁ、行きましょう。
後で、この仕事をした者を説教しなければ」
エスリンは両手をぱんぱんと叩いた。
ヴィーウィ先輩は両手を振り上げ、
「私じゃありませんよ~!」
と声を張り上げた。
エスリンは、そんな彼女を軽く笑いながら見つめた。
「では、行きましょう」
エスリンの声に従い、私たちは再び通路を進み始めた。
左右に連なる金属枠と半円状の構造物が、
冷たい壁と雪明かりに淡く照らされて、
不思議な影を落としている。
足音が静まり返った通路に反響し、
滑るように置かれた袋や樽のことを思い出すと、
何とも言えない不安が胸に広がった。
「やっと着いたわね……」
アヴェーラがそう口にした。
「着いたではないですよ、お嬢様。
まだ玄関前じゃないですか、やだー」
ヴィーウィ先輩は、少し揶揄うように応えた。
私たちは今、通路だと思っていた場所が、急に洞窟へと繋がっていることに気づいた。
しかも、例の構造物が、この洞窟内にも存在している。
ここも通路と同じく暗く、ひんやりしていることを認知した。
「一体、ここはどこなのさ、アヴェーラ。
そろそろ説明してくれないと、私は怒るよ?」
フィーネは、怒髪天というか、堪忍袋が空っぽになりそうなほど、
我慢の限界に達していた。
「ここは、そうね……
見ての通り、洞窟よ。天然の洞窟。
先代、つまり初代は、ここから鉱石や岩塩を掘り出していたみたいなの」
アヴェーラは、そう説明した。
アヴェーラの言葉に従い、
私たちは洞窟の奥を見渡す。
ひんやりと湿った空気に、鉱石のわずかな匂いが混ざっていた。
天井は遠く、影に覆われている。
側面の岩肌には、かすかに掘られた跡らしき溝が見える。
「みたいって?」
私は自然と視線を巡らせながら、アヴェーラに尋ねた。
「初代は文字が書けなかったのよ。
あるのは、鉱石を潰して描いた絵くらいしかないわ」
アヴェーラは困った顔をしながら、手に取った石を軽く蹴るように投げ捨てた。
その小さな音が、洞窟内の静寂に響いた。
「初代は、絵だけの造詣にはお強いと。
初代の妻であるアザレ様の日誌には、そう記されています」
エスリンさんが、そう付け足した。
アヴェーラの説明が終わると、私たちは静かに洞窟の奥を進み始めた。
ひんやりと湿った空気が肌を包み、足元の石の感触は冷たく、わずかに濡れている。
壁面には、鉱石を削った跡がかすかに残っていた。
小さな溝が連なり、ところどころに砕けた鉱石の粉が落ちている。
光を当てると、赤や青、銀色に光る粒が微かにちらつき、
まるで洞窟そのものが、過去の労働を静かに語っているかのようだった。
通路の両脇には、先ほど通路で見たあの半円状の構造物や、金属製の枠が並んでいる。
ここでも袋や樽が無造作に置かれ、時折小さな音を立てながら、冷気に揺れている。
「見て……ここにも痕跡が残ってるわ」
アヴェーラが指差す先には、鉱石を砕いた跡で描かれた、
かすかな絵のような模様が壁に浮かんでいた。
初代の手の痕が、今も洞窟に息づいているかのようだった。
私たちは慎重に足を運びながら、構造物の間を縫うように進む。
樽や袋を避け、滑りやすい石の上を踏みしめるたび、
冷たい空気と静寂が、次第に探検者の緊張感を高めていった。
洞窟は蛇のようにうねり、壁面の高さもまちまちで、
小さな穴や段差から、奥の暗闇がちらちらと覗いていた。
そこに、かすかにカンテラをぶら下げる取っ手の影が見え隠れしている。
「それにしても、きれい……」
通路内では寒々しく見えるものも、
ここでは星々が瞬いているかのように見えた。
その輝きは、カンテラの弱々しい光に増幅されて、
まるで洞窟全体が静かに光を宿しているようだった。
「どれも、鉱石の光ですわ」
カンテラの光が鉱石に反射し、壁面に小さな星屑のような輝きを散らしていた。
アヴェーラはその光を追うようにカンテラを揺らし、静かに魅入っていた。
私たちは、鉱石の幻想的な輝きに誘われるようにして、階下まで降りきった。
そのとき、蝋燭の灯が、完全に消えてしまった。
ひんやりとした空気が肌を突き、
足元の石の感触だけがかすかに伝わる。
周囲の静寂に、私たちの呼吸と心臓の音だけが響いた。
「大丈夫ですよ。もう少し待っててください」
エスリンさんは、異様に冷静だった。
私たちは、体がわずかに震えるのを感じながら、
ここに立ち尽くしていた。
暗闇に包まれ、足元の石の感触しかわからない。
風も音も消え、静寂だけが私たちを押し潰すように圧迫していた。
そうしているうちに、私たちは大きな扉の前に立っていることに気づいた。
≪……このために私たちは待っていたのだ≫
ヴァルの声が、静寂の洞窟に柔らかく反響する。
(そうか……!)
私の胸の奥で、心臓が小さく跳ねた。
やっと、エスリンさんの言っていた意味が理解できた。
「では、参りましょう」
エスリンさんは微笑むと、大きな扉を開いた。
その音は、どこか聞き覚えのあるものだった。
もう何度目か──あの音である。
その音がこの洞窟内に響き渡っていた。
***********
扉の向こう側は、なんとも不思議な場所だった。
まるで、切り取られた世界の一部を、
私たちが覗き見しているかのような感覚に、捕らわれた。
目の前には、絶壁が背景としてそびえ立っていた。
そして、その中央には、異様な塔のようなものが聳えている。
塔の表面は光をほとんど反射せず、黒光りするように鈍く輝いていた。
その形状も歪で、どこから見ても正確な輪郭を持たず、
まるで生き物のように迫ってくるかのようだった。
その塔の手前には、丸い基礎があり、
その周囲を囲む石堤のような構造物も見えた。
どうやら、それらは塔と一体となっているらしい。
私はフィーネから身を乗り出し、それらをじっと見つめた。
塔の正面に立つと、丸い基礎と石堤の構造物は、一列に整然と並んでいる。
そして、赤い布が結ばれた縄が、
横にたるんだように垂れ下がっていた。
エスリンさんは、そのたるんだ縄を手に取り、ゆっくりと引っぱった。
赤い布が、少しずつ上へと昇っていく。
私の目の前、黒い塔の先端からも、同じ赤い布が伸びていた。
白い情景に映えて、決して見逃すことはできないほど鮮やかだった。
塔の正面から、上げ橋がゆっくりと下がっていく。
その橋は、丸い基礎と石堤の構造物に、ぴたりと合わさった。
「ようこそ、お客様──
家政婦たちの棲み処、≪オニュクス・メラス≫へ──」
エスリンさんはそう告げた。
石堤の表面に、微かに光が反射し──
そこに刻まれた文字が、まるで自ら輝くかのように浮かび上がった。
『ὄνυξ μέλας』──黒い爪が大地を貫き、
地面が微かに震え、空気までもその威圧に震えた。
それは、確かに在った……。
やっと、着きましたね。
家政婦達の城に。
いやぁ~長かったね。
まだ、序章ですよ。
もっと気を張って?
まだ中に入ってないよ?




