「城下町の市場調査-巡礼編XXⅢ 家政婦体験篇Ⅺー」
さぁ! やるわよ、私。
(私がずっとしたかったこと。
ずっと──……一緒、よね?)
少し不安を抱いた願い。
甘酸っぱくて、純粋な想い。
ずっと三人。
ずっと一緒。
白と黒の鏡が、ぐるぐる回って。
目が追いつかないほどに、ぐるぐると。
鏡合わせにくっついた、その隙間から
アイツの聲が滲み出る。
【あと少し♪ もう一回!】
【もう少し、
ま~だだよ】
【もうちょっと──……
もう、何回目?】
狂った調子で、
嘲笑した。
【もうちょっと──……
もう、何回目?】
【もうちょっと──……
ま~だだよ。──まだ早い】
【もうちょっと──あと少し♪
──もう一回!】
【もう一回!】
【もう一回──!】
「……もう一回!、
何度でも──、──何度も」
扉絵に激突した神様に、
私達は出会った。
【もう──、良いよ♪】
虹色の扉絵の先に──
────フィンリーさんは言った。
≪本日の『家政婦体験』は……無事、終了≫
けれど、アヴェーラはこう言っていた。
≪今日の午後は、館の皆さんの身の回りのお世話をさせていただく予定≫
(……どっちが“終わり”で、
どっちが“これから”なの?)
行事としては幕引き。
でも、アヴェーラの中では――
まだ、役は降ろされていないらしい。
「では、ヴィーウィ先輩♪
連れ立ってくださいまし」
アヴェーラは不敵な笑みを湛えて、
ヴィーウィ先輩を急かした。
「えっとぉ……」
ヴィーウィ先輩はどうも、
予定外の出来事だったらしい。
視線が、
フィンリーさんとアヴェーラの間を、
右へ、左へと行き来する。
「あのぉ……どう為さいましょうか?」
ヴィーウィ先輩は視線を振るのをやめ、
誰もいない空間へ、その言葉を放った。
……拾う役は、もう決まっていた。
「そうね──。もう昼を越してしまっていますし。
ティータイム……というのも難しいですわね」
──どうも……どちらも決めきれていないようだった。
互いに譲る気はあるのに、
誰も最初の一歩を踏み出さない。
アヴェーラは、ちらちらとこちらを意識しているし。
ヴィーウィ先輩は、フィンリーさんへと
ちらちら視線を投げていた。
「────そういや。
確認してなかったんだけどさ?
今日の午後を終えたとして、俺達どうすんの?」
こういう時のフィーネは、
本当に、助け船を勝手に出してくれる。
アヴェーラは少し、
外の情景へと視線を動かした。
私も外の情景を見るために、
視線を動かす。
(外は少し、雪が強くなっている。
此処からだと、商家の施設の側面しか見えず。
どこを切り取っても、真っ白だった。
……行き先みたいに)
(私が──
音頭を執るしか、ない)
「確か──中央広場から、
別館に繋がっている……んでしょ?」
私は記憶を頼りに、アヴェーラに尋ねた。
「えぇ──。普段なら、
中央広場から、四阿を経由して、
家政婦住居である≪別館≫に行けますわ♪」
アヴェーラはいつもの癖をやりつつ、
どこか楽しげに、満足した様子を醸し出した。
(最初から、アヴェーラは≪別館≫に行きたかったらしい。
……なのに、
自分からは、決して言い出さない。
誰かに言わせる方が、
ずっと楽しいのかな?)
≪……いいや、ナーレ。
状況を見なさい。
曲がりなりにも商家とはいえ、
立場上、彼女がでしゃばるのは得策ではない。
──面倒だとは思うが。
彼女を立てておけ≫
「えっと──つまり、
俺達は別館で『御厄介』になる。
そういうこと?」
フィーネは眉間に皺が寄るほど、
「うーん、うーん」と唸りながら、
それでも要点だけは掴んでいた。
「そうよ──!!」
アヴェーラは腰に腕を組んで、
反り返った。
ヴィーウィ先輩は、今までのやりとりで、
やっと理解したようだ。
……が、
ポーズの件だけは譲れないらしい。
『お嬢様、それは私のポーズです。
取らないで下さい』
「それでは──
お嬢様。お二人はここに置いて、
『私達は≪別館≫に参りましょうか?』」
ヴィーウィ先輩はお父さんとフィンリーさんに
一度だけ視線を送り、
それが合図であるかのように、そう言った。
「そうね。ここでの『先回り』は失敗したから、
別のことで『先回り』しましょ♪」
……アヴェーラは何を“先回る”つもりなのかは、
あえて言わなかった。
「それでは、お父様、おじさま。
これにて、失礼いたします。
ごきげんよう──」
アヴェーラは恭しくお辞儀をした。
その仕草だけは、
どこまでも“お嬢様”だった。
ヴィーウィ先輩はそれに遅れて二人にお辞儀をし、
アヴェーラについていった。
フィーネと私は、少しだけ目配せを交わしてから、
「すいません、フィンリーさん、お父さん! これで!」
慌ただしさを隠しきれないまま、
急いで二人の後を追った。
残された二人の声が、
応接室から遅れて漏れ聞こえてくる。
≪乙女の嗜みってのも、限度がある≫
その言葉が、どちらの口から発せられたものなのか。
それとも、二人の声が重なったのか――
今の私には、到底判断できなかった。
**********
私たちはエントランスホール──
玄関正面の大階段前を横切った。
「アヴェーラ、改めて尋ねるけど、
別邸にはどう行くの?」
私はアヴェーラを先頭に、来た道を戻っている。
「先程、中央広場のエレベーターで此方に参りましたが、
≪別邸≫に今から向かうのでしたら、≪空中通路≫を使いましょう。」
アヴェーラはヴィーウィ先輩越しに、ゆっくりと私を振り返った。
その視線が私の肩越しにほんの一瞬触れ、まるで私の心を測るように揺れた。
彼女の瞳の奥に、わずかな好奇心と遊び心がちらりと光る──
それは微笑みにも似て、しかし確かに警告にもなった。
視線はすぐに前方に戻るが、私の胸にはまだその余韻が残った。
距離は物理的には同じでも、心理的には彼女と私の間に微かな壁が立ったままだった。
「ナーリュ。≪空中通路≫は、そこまで難しい話じゃないよ!
別邸に向かう通路の屋根部分は、内部が通路になっているの。
外から見ると屋根だけど、だから皆は≪空中通路≫って呼ぶんだよ!」
ヴィーウィ先輩は私を振り返り、にこやかに説明した。
頭の中でヴィーウィ先輩の言葉を整理する。
アヴェーラの余韻がまだ消えないまま、歩調を合わせて前に進んだ。
中央広場に着くと、二階から一階の家政婦たちが、
右往左往と動き回る様子が見えた。
「あっちよ」
アヴェーラが私達に指差した。自然と視線はそちらに向かう。
ラウンドアバウトのような円形通路は三方向に分かれている。
そのうち二本は、この二階に繋がるための通路と、通路を迂回するための通路だ。
残り一本は──私たちの対面に、小さな遊び場(広場)と一つの扉がある。
その扉は少し奥まって、凹んでいるように見えた。
一階の家政婦たちは中央広場で右往左往と動き回っている。
その上を縫うように、私たちは静かに進んでいく──視線の先には、あの扉が控えている。
「あの扉の向こうが≪空中通路≫。
その先で、私たちの『お家』に着くんだよ!」
ヴィーウィ先輩はアヴェーラに代わって、にこやかに説明してくれた。
一方、アヴェーラは何も話さず、距離感を保ったまま、私たちの動きを静かに見守っていた。
「アヴェーラ──? また碌な路じゃないんだろ?」
フィーネは、いつもの疑心暗鬼が顔に浮かび始めた。
「フィーネの直観は正しいですわ。
家政婦たちは≪打ち貫く通路≫と称して通りたがらないようですし」
アヴェーラは、例の癖で落ち着いた口調で返答した。
「えっとぉ、≪打ち貫く通路≫ではなく、
≪裡貫く通路≫の間違いです、お嬢様」
ヴィーウィ先輩は、アヴェーラの言葉を軽く訂正した。
≪裡貫く通路──妙だな?≫
ヴァルも同じく、疑問を抱いたらしい。
(どうしたの、ヴァル?)
≪裡貫く通路、ナーレ。
先程、ヴィーウィ先輩は≪空中通路≫のことをきちんと説明した。だが今はどうだ?
何故また、その意味を曖昧にしたのか。≫
(どういうこと……?)
私の頭の中で、言葉がぐるぐると回る。
ヴィーウィ先輩は確かに説明したはずだ──
でも、アヴェーラの言い方や、微妙な反応を見ると、
なんだか全てがもう一度曖昧になったように感じる。
裡貫く通路──その名の意味は理解できるはずなのに、視覚で見ている建物の構造と重ねると、頭の中でどうも噛み合わない。
安心すべきなのか、警戒すべきなのか、
私の判断は揺れていた。
「通路に入ったら、
各自『カンテラ』を持たないとダメなんだ。
とっても……遠いから!」
ヴィーウィ先輩は、あまりこの通路を通るのを好まない様子だった。
声の端に、微かに警戒心と面倒くささが混じっているのが分かる。
「今は此処を通るしかないわ。
一階からの通路を通りたいかしら?」
「いいえ、お嬢様。あちらの通路は今は通れません。死んでしまいます」
ヴィーウィ先輩の声には、ただの忠告以上の緊張感が込められていた。
私の心臓は少し早鐘を打ち、通路の長さと薄暗さが頭の中で映像になった──
これを通り抜けるのか、と思うと、
胸の奥がぞわりとする。
「ナーリュ、フィーユ。さっき、広場の一階からも道があるけど、そちらからでも別邸には行けるの。でも、今の天気じゃ……」
ヴィーウィ先輩は、広場の天井をじっと見上げていた。
広場の天井の一部はブラウン・ガラスであしらわれており、その向こう側で、風が一方向に物凄い勢いで雪を巻き上げているのが見えた。
「今、あちらの通路を通るのは駄目よ。
左右には壁がないただの通路だもの。
腰上はブラウン・ガラス製だから、実質的な壁にはなるけど」
「お嬢様、柱と屋根以外はほとんど腰以下しか壁がありません。それに、一部は庭に出るために通路自体が途切れてますしぃ~」
──どうやら、一階の広場に来たときに見た右側の通路は、まさにそんな通路らしい。
「おいおい、どうして、なんでそんな造りにしたんだ?」
フィーネは呆れ果てた声をあげ、思わず両手を軽く広げた。
「それは私が応えた方が宜しいそうですね、
フィーネ様───?」
(聞き慣れた声が、私たちの後ろから聞こえた)
≪うむ───私にも既視感がある。
……もう、声に出した方が良いのだろうか?≫
振り返る間もなく、背後の声が皮膚の奥にじんわりと緊張を走らせる。
フィーネは軽く眉をひそめ、私は思わず呼吸を整えた。
──やはり思った通り、彼女がそこに居た。
予想通り、アヴェーラとヴィーウィ先輩は言葉を噤み、互いの視線だけで状況を確認している。
三人の沈黙と微妙な間が、通路の冷たい空気以上に緊張感を漂わせていた。
「エ───エスリン婦長……」
ヴィーウィ先輩は、自然とその女性をそう称えた。
声には、驚きと敬意、そしてわずかな緊張が混じっていた。
「あら──エスリン。此処に居たのね?」
アヴェーラは、いつものように白を切り、微かに笑みを浮かべながらも、目だけは鋭く相手を見据えていた。
「はい。お嬢様の自室にて、待機しておりました」
エスリンは、いつものように笑顔を崩さず、アヴェーラの応酬に軽やかに答えた。
その笑顔の奥に、ほんのわずかな苛立ちが隠されているのも、私には見逃せなかった。
「エスリンさん、ごめんなさい。いつもの発作なんです」
私はエスリンにそう伝えた。
「大丈夫ですよ、ナーレ様。『いつも』の『発作』ですから」
エスリンは軽くため息をつき、呆れたような、
どうにかならないものかという微妙な空気を漂わせていた。
私はその表情を見て、思わず少し肩の力を抜いた。
「先程のご質問に対して、お答えします、フィーネ様」
エスリンは、いつもの調子で軽くお辞儀した。
その丁寧さに、ナーレの胸の奥で自然と緊張が引き締まる感覚があった。
「オウ──……」
フィーネは勢い余って、思わず変な応答をしてしまった。
慌てた口ぶりに、周囲の空気が少しだけ緩む。
アヴェーラは冷静なまま微かに眉を動かし、私たちの間に漂う緊張感をそっと確認しているようだった。
「嘗ての初代──オリヴァー・モーレイ、つまりご当主様のおじい様ですね。
オリヴァー・モーレイは、空の声を聴きたいと申して、一階の通路を作らせました。
二階の通路は、後にご当主様ご自身が作られたものなのです」
「二階の通路が『裡貫く通路』と呼ばれる所以は、すぐに分かると思います。
カンテラは、扉を開けて入ったすぐ横の棚にありますから」
「それって、入ってからのお楽しみってことかよ……。
お前の一族ってやつは、驚かせるのが好きなのか?」
フィーネはアヴェーラに視線を向け、ちらりとエスリンに戻す。
そのやり取りに、私も思わず息を飲んだ。
「申し訳ございません、フィーネ様。
これは序の口に過ぎません……。」
「初代──オリヴァー・モーレイは、星を臨みたいと
願い、そのために別邸を造りました。
私たちはこれから、その通路を通って向かうのです」
「エスリン、開けて頂戴──?
その方が、きっと良いと思うの」
アヴェーラは落ち着いた口調で、しかし微かに強い意志を込めて、エスリンに促した。
エスリンは一瞬視線をアヴェーラに送り、軽く頷く。
その間、私たちの間には一瞬の静寂が漂い、
通路の冷たい空気がより張り詰めたように感じられた。
エスリンさんを先頭に、五人で『裡貫く通路』へ向かった。
円形通路を渡り、小さな遊び場(広場)と一つの扉に繋がる一本の路を歩く。
途中で、なぜか壁際を沿って進むという妙な道だ。
壁越しに、外の冷気がひんやりと伝わってくる。
この一本の路は、通路の壁に基礎がくっついた構造で、
「路」という言葉では表現しきれない。
むしろ、壁から飛び出した端を渡る、と言った方が正しいだろう。
しかも幅は、独り分しかない。
なぜ、こんな危ない路を作ったのだろうか──。
思わずナーレの胸の奥に、緊張と戸惑いが広がる。
≪そもそも、この路自体──。
急遽作った、というのが正しいのかもしれない。
もとは一階の通路のみであった。
しかし……冬になれば、全く通れない絶対の孤島になる。
≪別邸≫になるのだ≫
ヴァルが、そんなことを口にした。
(なんで────?)
≪それはだな、ナーレ。
──それが浪漫。──だからだ。≫
───やっと、私たちは渡り切った。
意味不明な路を、一歩一歩確かめながら。
冷たい風と雪の余韻が、まだ肌に残る。
心臓は少し落ち着いたけれど、安心できるわけではない。
──この先には、さらに意味不明な場所が待っているらしい。
エスリンさんは、扉の前で立ち止まった。
そして、手にした布で何十回も、丹念に扉の表面を擦る。
擦るたびに微かに木の香りと冷たい金属の感触が伝わってくる。
その仕草には、ただの掃除や清拭ではない、慎重さと儀式めいた意味があることを感じた。
私たちは息をひそめ、エスリンの動きを見守る。
雪と冷気で緊張していた体の力が、さらに背筋に走るようだった。
「大丈夫なんですか? エスリンさん?」
私は、この先を見たいようで、同時に見たくもなかった。
「大丈夫ですよ、ナーレ様。
ただ──異常に遠いのです」
「誰もが、この凍てつく通路を──
『空中通路』を通りたがらないのです」
エスリンさんは、そっと、恐ろしいことを口にした。
その声の奥に潜む静かな重みが、私の背筋に冷たい緊張を走らせる。
エスリンさんは危険な扉を開いた。
────確かに、『空中通路』という呼び名は語弊ではない。
屋根の中央部分と、
腰上以上は、ブラウン・ガラス製で覆われている。
腰下は、白く塗装された石で作られた床が、
ずっと向こうまで続いていた。
そこからなだらかに上り、
途中からゆるやかに下っている。
ガラスの向こう側は、全て───
外の景色が広がり、冷気はまったく遮られていなかった。
風がガラスに吹き付け、微かに雪の粒が跳ね返る。
その冷たさが、腰下の石の床を伝い、足先までじんわりと染み込むようだ。
──この通路を歩く者に、寒さだけでなく、
緊張感も押し付けてくる。
カンテラは確かに、入ってすぐ横の棚にある。
十五個のカンテラ──。
この寒い通路で、一つのカンテラだけが手に渡される。
その光は、夜空の下、ガラス越しに広がる真っ暗な空に解き放たれるようだ。
凍える冷気と闇の中で、ほんの小さな光が頼り。
その灯りを頼りに、私たちはこの意味不明な通路を進むしかない──。
≪今日は星が見えないな……≫
ヴァルは独りだけ、悠長な様子だった。
(貴方はいいわね、体がなくて……)
私は、悠長なヴァルに内心で憤った。
≪あぁ──体が無いな。
ナーレ。私は、ここに居るという実感がまったく得られない≫
その言葉を聞きながら、私は足元の狭い通路と、吹き込む霊気を思い浮かべる。
ヴァルは悠長だが、私には一歩ごとに神経をすり減らす現実がある──。
「早く行きましょう……悠長はしておられません」
エスリンさんが、淡々としかし確実に私たちを急かす。
「エスリンさん、どれくらい歩くんだよ?」
フィーネは、この酷寒の通路で現実的な問いを口にした。
その声が、ひんやりとした空気に微かに反響する。
──通路は長く、幅は独り分。
「フィーネ様……どれくらい……
蝋燭が一本分……でしょうか……」
その言葉に、私たちは息を飲んだ。
──エスリンさんは、本当に、本当に恐ろしいことを口にしたのだ。
冷たい空気が胸に刺さり、通路の奥に漂う闇の重みが、五人の心を押さえつける。
一歩ごとに、慎重さと緊張が増していくのが分かった。
≪はぁ……はぁ……蝋燭一本だと……?
長さ115mmくらいの蝋燭一本!?≫
ヴァルは、ようやく現実に戻ってきたようだった。
あんまり聞きたくない話のはずだ。
(それって、どれくらいの時間……?)
≪大体、1時間10分くらいだ≫
(イチジカンジップン──??)
ヴァルの言った言葉が、全く頭に入ってこない。
聴いたこともない言葉で、
何を指しているのか全く分からなかった。
五人は、慎重に通路へ足を踏み入れた。
星々は私達を無慈悲に導ていく。
白いヴェールの向こう側で。
手にしたカンテラの炎が、石の床と壁をかすかに照らす。
光は小さく揺れ、影が壁に長く伸びる。
その揺れに、まるで通路自体が呼吸しているかのような錯覚を覚える。
一歩、また一歩──。
白い石床が外界にある雪と混じって、
何処が床石か外の雪なのか………
息をひそめ、足音を最小限に抑え、全神経を床と手元の光に集中させる。
冷たい風が壁の隙間から吹き込み、顔や手を容赦なく打つ。
息を吸うたびに、肺の奥まで冷気が染み渡る。
「……まだ半分も来てないんじゃないか?」
フィーネの小さな声が、緊張の静寂を割った。
──蝋燭はまだ、元気に半分くらい残っていた。
「落ち着いて、フィーネ。 急いでは駄目よ……」
アヴェーラの声は低く、しかし確かな響きでそう告げた。
その声が、狭く冷たい通路に微かに反響する。
「あと少しで、四阿だから……頑張って!!」
ヴィーウィ先輩は、無理に元気を装った声で励ます。
けれど、息遣いと足の震えから、本当は私たちと同じくらい緊張しているのが分かる。
私は、カンテラの小さな光を頼りに、凍てつく通路を慎重に進む。
一歩ごとに冷気が肌を刺し、狭い壁際で足を踏み外さぬよう神経を集中させた。
──あと少しで、四阿。
まだ見えぬ終わりに、心は揺れたままだ。
*********
≪四阿──≫
通路の中間にあるはずのその場所は、
遠く感じられた。
歩き続ける時間と冷気のせいで、
まだ先が見えぬような錯覚に囚われる。
──蝋燭が、ようやく半分を示したその頃、
私たちは≪四阿≫にたどり着いた。
少しの安堵が、心の奥にじんわりと広がる。
しかし、冷たい風と狭い通路は、
まだ私たちを解放しようとはしなかった。
一歩進むごとに、闇と冷気の圧迫が、
再び全身にまとわりつく。
床と屋根の境目には、
ほとんど隙間と呼べるものはない。
石と石の間。
一センチの隙間すらないほどに、
ガラス張りで覆われている。
ここが──
四阿の「屋根」にあたる空間なのだと、
ようやく理解した。
私たちの足元には、
四阿の基礎となる石組みと石畳が透けて見た。
この屋根の端には、
一階の四阿へと降りるための階段があった。
壁に沿うように取り付けられた、細く、頼りない階段。
見下ろすと、
石畳と石の机、椅子。
それが石床と石床の間から、
ガラス越しに歪んで見えた。
──降りようと思えば、今すぐにでも降りられる。
だが、その事実が、かえって足元を不安にさせた。
「今は、おやめになった方がよろしいですよ。
ナーレ様。――『下』には行けません」
エスリンさんは、
私が階段の方へ向けた視線に気づいていたかのように、低く、はっきりと釘を刺した。
その一言で、
背中に張りついていた冷気が、
さらに一段、重くのしかかる。
私は思わず、
足先を階段から遠ざけるように、一歩引いた。
階段の奥から、
ずっと「ゴォー……ゴォー……」と、
低く、鈍く、誰かの鼾のような音が響いている。
でも、そこに生き物の影は見えない。
それでも、確かに“眠っている何か”がいるように思えてしまう。
(外界の風が壁を沿って、
階段から昇っては、引いて行く。
でも、頭ではソレが何か理解していた。)
(しかし──……。)
《四阿が呼吸しているのさ、
ナーレ。四阿が胎動している──》
ヴァルがソレを補足した。
──下に行けば、どうなるのか。
考えるまでもなく、直感で分かってしまった。
「誰だよ……こんな通路を考えたやつ……!」
フィーネは、
ぶつける先のない怒りを抱えたまま、
行き場のない苛立ちを吐き出す。
怒鳴りつける相手は、
この世にはもういない。
それが分かっているからこそ、
声だけが虚しく、通路に吸い込まれていった。
四阿の壁にラテン語ではない文字が刻まれていた。
『Ἐνθάδε ὁρῶ τὸν ἄξονα τοῦ κόσμου·
ὁ μὲν ἄγγελος τοῦ βορέου καταδύεται,
ὁ δὲ ἄγγελος τοῦ νότου ἀναβαίνει·
κλίνουσι δὲ ἀλλήλοις
καὶ κύκλον χαράσσουσιν,
καὶ οὕτως περιέρχεται ὁ κόσμος.
— ἔτει πέμπτῳ』
≪我はここに世界の軸を視る──≫
ヴァルは、
そこに刻まれていた文字を、
まるで昔から知っていたかのように諳んじた。
風の音に紛れて、
その声だけが、ガラス張りの通路に低く反響する。
(……どうして、そんな言葉を知っているの?)
問いかける前に、
私は背中に、ぞわりとした悪寒を覚えていた。
≪ナーレ。私は、知識と選択を与える神だ。
読めて当たり前だろう。――当然ながら≫
ヴァルの声は、
いつもと変わらぬ軽さだった。
それが、かえって怖かった。
≪どうやら、この予言は真理を突いている。
この世界の在り方、そのものだ≫
ヴァルは淡々と告げた。
まるで、“知っていた事実を確認しただけ”のような口調で。
それが、私の胸の奥を、ひどくざわつかせた。
「ナーレ。……どうしたのですか?」
アヴェーラは、
ずっと壁の一点を見つめたまま動かない私に、
静かに声を掛けてきた。
その声は、
気遣いのようでもあり、
どこか探るようでもあった。
私は、
慌てて視線を逸らし、
何も考えていないふりをした。
「ううん……なんでもない。
それより……『此処』って、どういう場所なの?」
私は、ガラス越しに歪んで見える壁の奥をちらりと見やりながら、この空間そのものについて問いかけた。
さっきまで、“何か”を感じ取っていた自分を、
誤魔化すように。
「ここは、見ての通り──四阿の“屋根”ですわ。
二代目、ヴァーディ・モーレイが造ったものです」
「お嬢様……!
その方のお名前は、口にしてはなりません」
エスリンさんは、
言葉を遮るように一歩踏み出し、
低く、しかしはっきりと制した。
その声色には、
ただの作法や礼儀ではない、
“触れてはいけない何か”への畏れが滲んでいた。
「よろしいではありませんか。
もう、その方は荼毘に臥せておられます。
それに……魂だって──」
「それは……そうですが。
ですが……」
言いよどむエスリンさんの言葉に、
ヴィーウィ先輩はが苛立ちを隠さず割って入った。
「婦長、いいじゃない!
あんな……気狂いな方を……」
言い切った瞬間、通路の冷気が、
いっそう鋭くなったような気がした。
「一体、何の話なんですか?
その……二代目って?」
私は、どうしても気になってしまった。
「二代目、ヴァーディ・モーレイは……その、
大変、造詣の深いお方だったと。
そのように、大叔母から聞き及んでおります」
エスリンさんは、
もうこの世にいない人物に向けているとは思えないほど、
畏れ多そうに一礼した。
「話によると……ヴァーディ・モーレイ様は、
暗い空に奔る光を見ただの、
この世はすべて“運航している”だの、
死の女神はその貌を変えて、消えて往くだの……
そんな言葉を日誌に書きつけていたそうです。
そして――死ぬ前に、その日誌を、
この屋敷のどこかに隠した。
……そう言われております」
───とても不気味な話を、
私たちは聞いてしまったのかもしれない。
『死の女神はその貌を変えて、消えて往く、だってさ。その爺さん、もう耄碌してるよ。
女神なんて、数えるくらいしかいないじゃないか』
フィーネは指を折りながら、
ぶつぶつと女神の名を連ねていった。
≪あぁ……成程。そういうことか。≫
ヴァルだけが、
私たちの知らない“結論”に辿り着いているようだった。
(……やめてよ。
そういう言い方、いちばん怖い)
≪ある意味では、怖い話だな。
───とても不気味で、
人の正気を削る類の話だ。
まだ生きていたら、話してみたかった≫
「……長話が過ぎましたわ。
早く参りましょう……」
アヴェーラは、
それ以上の言葉を許さないように、そう促した。
エスリンさんは胸の前で静かに十字を切り、
再び、船頭を務める位置へと戻った。
風でガラス達が漣を揺らしていた。
≪……なるほどな。
“ガラス達”は、そういう意味だったか≫
その言葉だけを残して、ヴァルは黙った。
私はそれ以上、
何も問い返せないまま──
別邸へと、足を速めた……。
視線が床石に注がれる。
其処に不思議なマークがあった。
《◎》それが別邸に向かう途中で形を変えていく。
次に見たのは《✙》──。
その意味はまるで分からなかった──。
虹色の扉絵の先に──
また、出会った。
扉絵に激突した神様に──
また、出会った。
またまた、其処に斃れていた。
【奇異なことを尋ねよう。
──君が、何を視たのか?】
謎だけを残して。
虹色の扉絵の先で、
私は再び──
激突した神様と出会った。
《ASC》──。
読者達はナーレ達よりも早く。
別邸の玄関に到着した。




