「城下町の市場調査-巡礼編XXⅡ 家政婦体験篇Ⅹー」
誰一人、動かない──。
だが、この場にいる全員が理解していた。
これもまた、「デモンストレーション」だということを。
俺は応接室にいる娘の面前で、
あの方の視線に射抜かれ、縫い留められていた。
【ほ~ん……切ったねぇ?
アレフ。切っちゃったねぇ?
あは、随分と――思い切りがいいじゃない】
『貴方は、いつもそうして人を量る。
――今回は、何を試練とされるおつもりですか?』
【人は常に死にたがる。
――だからこそ、私は“生き方”を与えてあげてるんだけどさ】
【奇異な問いを与えよう。
這いつくばってでも“最底”を拾うか。
天国に手を伸ばし、“最上”の天井を掴むか。
それとも――
永遠に地平の彼方へと延び続ける、終わりなき到達点を選ぶか?】
──虹色の扉が開く。
その音は余りにも重々しく、
金属と金属を、爪で引き裂くような――
本来、開かれてはならぬ場所の音だった。
『第四……第四の音色を、聴かせたもう』
【アレフ。君は、第七音節の向こうまで望むのか?
それなら……最初から、そう言ってくれ】
──男が喇叭を鳴らす。
か細い音色はひどく調子外れで、
耳の奥を掻きむしるような、間抜けな轟音となって広がった。
(ファンファーレにしては、祝福と呼ぶには程遠い。)
その音が鳴った瞬間──
全ては、的外れな調子へと狂い始めた。
只、徒に。
宣告承知と謂わんばかりの悪戯。
俺は思った。
(何故だ? 何故――お前が、此処に居るんだ?)
そのとき、家政婦たちが応接室に入ってきた。
鼻先を掠めるハーブティーの香りに、ふと気づく――
娘は、いつの間にか家政婦たちに紛れていたのだ。
誰もそれを不自然だとは思っていない。
いや……違う。
そう“思わされている”だけなのかもしれない。
それすら――あの方の計らいなのだろうか。
ふと──
「その計略には、乗らない」と自分に言い聞かせ、
彼女が“娘であるか”を少しだけ試すことにした。
フィンリーがお茶のお替りを持って、俺に声を掛ける。
「お代わりはいかがか?」
……渡りに船だった。
「────そうですね。
私も一杯頂こうか。
そう……そちらの御嬢さんにお願いしようか?」
指を一人の家政婦へ向ける。
視線が交わる瞬間、微かに場の空気が震え、
時間が、ほんのわずかに止まったかのように感じられた。
少しの間、言葉を交わす。
(あぁ──やはり。
私の娘だ。
どのように切り取っても、それでも娘であってしまう)
手元の動作に集中しながらも、
室内の光と影、微かな沈黙の波、
それぞれの視線の交錯を感じる。
「御嬢さんは、今年で──?」
『十四になります──』
その仕草が大人びていた。
何も知らぬ顔で淡々と役目を果たす――
俺の胸の奥で、静かに軋む音がした。
――祝福と呼ぶには程遠い。
か細く間抜けなファンファーレの音色が、
耳の奥を掻き毟るように輪唱しながら広がっていく。
フィンリーが執務室から戻り、俺の対面に坐する。
「門出としては、良いのではないでしょうか?」
その眸は、一人の家政婦に注がれていた。
──彼女は虚空を指で絡めようとする素振りを見せている。
フィンリーは手振りでこちらへ合図し、耳元で囁く。
「門出としては、お互いにとって良いでしょう?」
「……貴方も、お気づきなのですか?」
「そういう貴方も。どう切り取っても、あの癖は娘の癖だ」
お互い身を引き、わずかに身動ぎするだけ。
微妙な間合いが、緊張をさらに深める。
「ご当主様。ナーレ様たちの家政婦体験について、お尋ねしたいのですが」
ヴィーウィと呼ばれる家政婦が切り出した。
「うん? 珍しいね、ヴィーウィ君。
いつもお道化ているのに」
「えっと……私、よく分からないんです。
エスリン婦長も教えて下さらなくて」
わざとらしく可愛く見せているその仕草。
──だがフィンリーは、その意図を承知の上で混乱を誘う。
「娘にも聞きたいことがある。
……それに、何やら“お客様”が増えているらしい。
ヴィーウィ、持ち場へ戻れ」
「ご当主様──。意味が分かりません」
ヴィーウィは上目遣いで返す。
その“間”に、視線がすっと逸れた。
(この少女……人の情を値踏みしている)
(しかも、こちらが探っていることまで承知の目だ)
ヴィーウィは一瞬、口を開きかけて閉じる。
そして先程の間抜けな調子に戻り、軽く頭を下げた。
(……“戻った”のではない。最初からその顔だった。
今また、仮面を被り直しただけだ)
フィンリーは窘める。
「ヴィーウィ、いつも私を驚かせるな。
余り、やんちゃが過ぎると困る」
「ご当主様ぁ、体験なされば宜しいのに」
ヴィーウィの眸は、先程の“家政婦”のものではなかった。
「君がそうしたいのは分かる。
いや、それを“別の話”に昇華したいのだろう。
君が此処に辿り着いた理由についても」
フィンリーは言葉を呑み込み、ヴィーウィの反応を測る。
その目には、甘えた笑みと狡猾さが同居していた。
わずかに体勢を崩し、鋭い眼差しをこちらに向けるフィンリー。
何となく、この御仁――
いや、ご当主様は、役割が大変そうだ、と。
(余りにもストレートな姿勢と視線に、
「ああ、分かった!」と体が反応するのは久しぶりの感覚だった)
「お嬢さん。そうも彼を惑はすことなかれ」
ヴィーウィはわずかに口角を上げ、軽やかに返す。
「困らせてはいませんよ。
ただ、面白いなって思っただけです」
その一言に、応接室の空気がかすかに揺れた。
無邪気そうに見えるその声音の裏に、計算や観察が隠れていることを、誰も見逃せなかった。
「ヴィーウィ先輩、もう良いんです。
大丈夫、心配いりません」
娘が前に出て、優しく背中を手で押す。
「ナーリュ……そう言わないで。
まだ、もう少しだけ駆け引きを楽しませて。
この場にいる全員が『知っている』んだから」
「先輩? 先に進みませんか。
もう、誤魔化すのは難しい状態ですよ」
娘の後ろの家政婦は、少しぶっきらぼうに腕を組む。
(その癖は……どこから見てもフィーネちゃんだ)
「そうですわね、先輩。もう、やめにして。
貴方も私が誰なのか把握していて、そのような素振りをして下さった。
楽しいひと時でしたわ」
彼女はゆっくりと「ヘッドスカーフ」を脱ぎ、
そのトレードマークを鮮やかな指で絡め始める。
(あぁ……)
どうやら、俺の嫌な予感は毎回悪い方に当たるらしい。
(全員が『知っている』というのは、そういうことだったのだ――)
*********
お父さんは、驚いた様子を一瞬だけ見せた。
その反応を、私は逃さず視界に収める。
(ふふ……やっと、気づいたの?
それとも、最初から?)
私の目は室内を巡り、全員の視線の行方を追う。
フィンリーさんは冷静だが、わずかに眉をひそめた。
ヴィーウィ先輩の表情は、いつも通りの仮面の裏に何かを隠している。
私は微かに唇を歪め、背筋を伸ばす。
(さて……次はどう出るつもりかしら?)
その瞬間、部屋の空気がさらに密度を増したように感じられた。
誰も動かず、しかし全員が互いの心理を読み合っている――
まるで、呼吸すら戦略の一部のように。
私はふふ、と微かに笑みを浮かべる。
この場の誰もが、私の一挙手一投足を注視している。
ならば、私も遊ぶだけだ。
背筋を伸ばし、視線を柔らかく交わす。
まずは父──お父さんは、さっきの驚きの余韻を隠そうと微妙に顔を引き締めている。
フィンリーの瞳は冷静で正確、けれどわずかに眉の奥が動いた。
フィンリーさんの瞳は冷静で正確、けれどわずかに眉の奥が動いた。
ヴィーウィ先輩の表情はぶっきらぼうに見せつつ、視線の端でこちらの反応を測っている――
(面白い……全員が“知っている”というのは、こういうことね)
≪ナーレ。どこに火を放とうか?≫
ヴァルが心の中で囁き、微妙に指先を動かす。
この動作だけで、誰がどう反応するか、読み取り始める。
すでに全員がこちらを観察している。ならば、次の一手は――
「……行くわよ」
声は柔らかく、しかし確固としている。
その一言に、室内の空気がわずかに震え、全員の注意が自分に集中する。
(ここからが、私の“遊戯室”だ)
誰もが“知っている”状況を逆手に取り、私は次の駆け引きを静かに開始する。
心の中では、策略と予測が渦を巻き、しかし顔には微かな笑みだけを残す。
この空気を操れるかどうか――全ては、ここから。
「最初、服を着替えようと言ったのは、アヴェーラよね?」
「ナーレ。確かにそう言いましたし、先回りしようと画策したのも私の草案です」
「いやいや、残りの六割はヴィーウィ先輩の活躍でしょう」
私たちは三人して、姦しい様子で言い訳を重ねる。
微かに笑いを忍ばせつつも、空気はまだ微妙に張り詰めている――
誰かが次の一手を打てば、また緊張が走るのだ。
「えぇ~。私だけのせいじゃないでしょ?
皆して私を利用したでしょ?」
ヴィーウィ先輩が、にやりと笑いながら参戦してきた。
その表情は、ぶっきらぼうながらも確実に場をかき回す気配に満ちている。
私はスカーフを指先でくるくる弄りながら、軽く目を細める。
「ふふ……やれやれ、仕方ないわね。ならば、
ヴィーウィ先輩も“共犯”として責任を取ってもらうわよ」
フィンリーは眉を上げつつ、微笑を浮かべる。
「おや……場が一気に騒がしくなりましたね」
父は慌てて衣服を直しながらも、目を細めて二人を見つめる。
「……あぁ、これはまた、ひと悶着になりそうだな」
「そもそも、このイベント情報を催したのは第一保護者のあんたでしょ。
私にもちゃんとした手紙を渡して」
フィーネは例の手紙をひらひらと遊ばせながら、挑発的に笑った。
ヴィーウィ先輩は思わず首をかしげ、フィーネに視線を合わせる。
「え、ちょ、何その手紙……?」
「前略──
ナーレの保護者様。
貴方も『保護者様』らしく、『家政婦体験』にお越しください。
ナーレの見守り役は、貴方しかできない事ですから。
『ご友人同士』、見守ってあげましょう」
フィーネは手紙の全文を諳んじて見せた。
「『ご友人同士』じゃなくて、
悪だくみをする悪役に、喰えない先輩付きだった!」
フィーネはいつもの癖で、眉をひそめてイライラを露わにする。
「このお方は予想外です。
そもそも、『保護者様』らしくと忠告付ではありませんの!」
アヴェーラはヴィーウィ先輩に向かって指を突き出し、あり得ませんと強く強調した。
父は思わず眉を上げ、椅子に寄りかかって固まる。
フィンリーさんは目を細め、微かに唇を引き結び、状況を静かに見守る。
ヴィーウィ先輩は口をもごもごさせながら、頭の中でどうリアクションすべきか必死に計算する。
軽口や小さな怒声が飛び交い、緊張とドタバタが入り混じった独特の高揚感が、
すべての視線の中心にナーレを据えたまま渦巻いている。
≪さてと、どうしたものかな?
私は紳士だからね。
もう一度やり直してください、ナーレ。≫
ナーレはスカーフを指でくるくる回しながら、微かに笑みを浮かべる。
(ふふ……紳士風の挑発ね。いいわ、受けて立つ)
ヴィーウィ先輩は思わず手をもじもじさせ、
フィーネは眉をひそめ、父は椅子に寄りかかって様子を窺う。
フィンリーは唇を引き結び、冷静に全員の動きを追う――
この瞬間、心理戦と小さな混乱が再びぶつかり合い、
部屋の空気は再びピリピリと、しかしどこか滑稽に揺れ始めた。
「それで、アヴェーラ。
家政婦体験はどうするつもりなの?」
私の問いに、アヴェーラは少し考え込み、手元のスカーフを指でくるくると回す。
「……もちろん、きちんと“見守り役”として振る舞いますわ。
ただ、もう少しだけ、皆の反応を楽しませて貰うつもりですが」
「何をするのか先ず、説明してくれよ。
家政婦体験。今日半日はヴィーウィ先輩の館案内だっただろ?」
フィーネは腕を組んで眉を寄せる。
アヴェーラはスカーフをくるくる回す手を止めて、ふっと小さく笑った。
いつもの、どこか人をからかうような、でも憎めない微笑みだ。
「ええと……簡単に言うと、ですわね」
彼女はフィーネの目をまっすぐ見据えて、ゆっくりと話し始めた。
「今日の午後は『家政婦アヴェーラ』として、館の皆さんの身の回りのお世話をさせていただく予定ですの。お茶を淹れる、軽いお掃除、洗濯物の整理……それから、夕食の支度のお手伝いまで。
もちろん、ヴィーウィ先輩のご許可はすでに頂いておりますわ」
フィーネの眉がピクリと動く。
「……それだけ?」
「それだけ、ですのよ?」
アヴェーラは首を少し傾げて、わざとらしく目を丸くしてみせる。
「ただし――」
ここで彼女の声のトーンがわずかに低くなる。楽しげな悪戯っ子のような響きが混じる。
「――私が『完璧な家政婦』として振る舞うか、それとも『ちょっとだけ計算高い、意地悪な家政婦』として振る舞うかは……その時々の皆さんの反応次第、ということにしておこうと思いまして」
フィーネは一瞬固まって、それから深いため息をついた。
「つまり、いつものアヴェーラってことか」
「ふふ、失礼ですわね。『いつもの』だなんて」
アヴェーラは頬を軽く膨らませる演技をしてから、すぐにいつもの余裕のある笑顔に戻る。
「ただ、皆さんがどれだけ動揺してくださるか……どれだけ『え、アヴェーラってこんなこともできるの?』って驚いてくださるか……それを少し、味わいたいだけですの。ほんの少しだけ」
フィーネは腕を組んだまま、じーっとアヴェーラを見つめる。
「……で? 具体的に何を企んでるの?
まさかヴィーウィ先輩の部屋に勝手に入って私物を漁るとか、
紅茶に変なハーブ入れて『これが今日のスペシャルブレンドですわ♪』とか……
そういうのはなしよね?」
アヴェーラは一瞬だけ目を細めて、「もちろん、そんな下品なことはいたしませんわ」と即答したあと、
「……でも、たとえば――皆さんがうっかり落としたハンカチを拾って『あら、素敵な刺繍ですこと。どなたのかしら?』とわざとらしく嗅いでみたり、ティーカップを磨きながら『この模様、どなたのお気に入りかしら? ふふ、想像してしまいますわね』と独り言を呟いたり……そういう、ほんのちょっとした『隙』を、楽しむくらいは……許していただけるでしょう?」
フィーネは額を押さえた。
「それ全部、完全に意地悪枠じゃん……」
「ですから『見守り役』ですのよ?」
アヴェーラは無邪気に、でもどこか悪魔的に微笑む。
「ちゃんと皆さんのお世話はします。
……ただ、その過程で、少しだけ心をかき乱して差し上げようかな、って思ってるだけですわ」
しばらくの沈黙のあと、フィーネは諦めたように肩を落とした。
「……ヴィーウィ先輩には事前に釘刺しといた方がいいかな、私」
「ふふふ。それもまた、面白い展開になりそうですわね」
アヴェーラはそう言って、もう一度スカーフを指先で軽く回した。
午後の陽光が、彼女の薄い金色の髪をきらきらと照らす。
どうやら今日は、館の中がいつもより少しだけ騒がしく――
そして少しだけ甘酸っぱく――なりそうな気配が、濃厚に漂い始めていた。
薄い金色の髪が陽光に透けて、まるで細い糸のように揺れる。
「ふふ……もう、隠すのはおしまいですわね」
アヴェーラの声は柔らかく、しかしどこか底知れぬ深みを持っていた。
いつもの「ですわ」調が、微妙に変わる。
それは、演技の仮面が剥がれ落ちた瞬間の、素の響きに近い。
フィンリーはは椅子に深く凭れ、目を細めて娘を見つめる。
驚きはすでに収まり、代わりに――
静かな、しかし確かな諦念と、どこか懐かしい疼きが浮かんでいた。
「……アヴェーラか」
一言だけ。
それだけで、部屋の中の全員が息を呑む。
フィーネは腕を組んだまま、眉を寄せて小さく舌打ちした。
「やっぱり……最初から分かってたんじゃないの?
あんたの癖、全部バレバレだったわよ」
「うん、そうだね。でも――」
アヴェーラは軽く首を傾げ、唇の端を上げる。
「それでも、楽しかった」
お父様が私を『家政婦のアヴェーラ』として見てくれた時間」
フィーネは、いつものぶっきらぼうな表情を崩さず、しかし目だけが少しだけ柔らかくなる。
「……ったく。お前、ほんと面倒くせぇな」
珍しく、素直な笑みだ。
「まぁ……お前の『見守り役』が、
こんなに騒がしくなるなんて思わなかっただけだよ」
フィンリーは静かに立ち上がり、ゆっくりとアヴェーラに近づく。
その瞳は、いつもの冷静さを保ちつつ、
しかしどこか――父親のような、優しい光を宿していた。
「アヴェーラ。
……お父さんには、もう少し素直に言ってくれてもいいんだぞ?
『今日は、皆と一緒に遊びたかった』って」
アヴェーラの指が、スカーフを握る手に少しだけ力が入る。
「……素直に、なんて。
そんなの、似合わない」
でも、その声はわずかに震えていた。
父は立ち上がり、ゆっくりと娘の頭に手を置く。
重く、温かい手。
「似合わなくてもいい。
お前は、お前でいいんだ」
その一言で、ナーレの肩が小さく落ちた。
スカーフが指から滑り落ち、床にふわりと広がる。
「……ばか」
小さな呟き。
しかし、そこには――甘えと、照れと、
そして、ようやく解放されたような安堵が混じっていた。
フィーネはため息をつきながら、腕を解く。
「ったく……結局、みんなグルだったってこと?」
「違うわよ、フィーネちゃん」
ヴィーウィは振り返り、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「みんな、『知ってる』ってだけで、
わざと乗ってくれたの。
それが――一番、嬉しかったんですの」
ヴィーウィが鼻で笑う。
「ま、保護者様の見守り役が、
こんなに派手に暴走するイベントも珍しいからな」
フィンリーは静かに微笑み、お父さんに向かって軽く頭を下げる。
「ご当主様。本日の『家政婦体験』は……
無事、終了とさせていただきます」
お父さん父は小さく頷き、私の髪を優しく撫でる。
「……ああ。でも、次は――
もっと素直に、来いよ」
私は目を伏せ、しかし口元だけは緩む。
「……考えます」
午後の陽光が、部屋全体を優しく包み込む。
スカーフは床に広がったまま、静かに揺れていた。
どうやら今日は、
いつもより少しだけ騒がしく、
少しだけ甘酸っぱく、
そして――
少しだけ、温かかった。
館の中には、いつもの静けさが戻り始めていた。
でも、その静けさの中には、
誰もが共有した、小さな秘密と、笑みが残っている。
(終わり――かな?
……いえ、まだ、続きはあるのかも)
私は心の中でそう呟き、
そっと、スカーフを指先でくるくると回した──。
あぁ……久しぶりに、難しいシーンだった。
アレフとフィンリー、フィーネ、ヴィーウィ以外、
全員が「私」を名乗る。
読んでいるうちに、だんだんとズレが生じていくのが分かるだろう。
ナーレ──「私」
アヴェーラ──「わたくし」
ナーレ──再び「私」
この変化は文章中で明かされない。
無言のブラックボックス。
鏡の前で問いかける──
「貴方様の一人称は、どれになるのでしょうか」
私、か、わたくし、か。
敢えてひらがなにはせず、形として残す。
全員の心情を回収したい──
これが、作者の無茶な要望なのだ。




