「伏魔殿たる所以(ゆえん)」
あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。
俺は、ゆっくりとポケットから懐中時計を取り出した。
しかし、懐中時計の針は逆回転し、まるで時間そのものが狂ってしまったかのようだった。もはや時間という概念すら、ここでは意味を成さないように思える。
この箱の中にいる生命体は、俺ひとり。俗世から切り離されたこの空間で、秩序も理もない世界に自分がいることを、次第に実感していった。引力が弱まり、やがて彼女の口元が、かすかにその紗を剥がす。
俺は、まるで伏魔殿の中を進むかのような感覚にとらわれていた。野獣のような何かが、きっと、角で息を潜めて待っている――そんな気がしてならなかった。
出入り口、狭い回廊、広いホール。照明の明滅がもたらす光と影のコントラストは、まるで過去に味わった死の感覚を、別の形で疼かせてくる。五感は「もう大丈夫だ」と合図を送り続けるが、それは――偽りだ。
俺の経験が、そう教えていた。ここには、規則も摂理も存在しない。世界の外側に、足を踏み入れてしまったのだ。次は、いったい何が俺を死へと誘うのか――。
俺は、慎重に彼女から降り立った。
彼女の紗は静かに閉じ、また別の獲物を誘うために、闇の底へと消えていった。
目の前に広がる光景は、まさに“伏魔殿”と呼ぶにふさわしいものだった。
古代エジプトのヒエログリフや神々を象った小物が並ぶ一角があれば、
その隣には、仏教の仏像や肖像画が、まるで神聖さを競い合うかのように飾られている。
さらに別の一角では、どこの風刺画かもわからない奇妙な絵や、縦横十五センチはあろうかという分厚い本が書見台に置かれ、まるで誰かに見せびらかすように誇示されていた。
通路の端から端まで、宗教や思想の“趣味”が混在しており、それはもう宗教の品評会のような異様な光景だった。
壁紙さえ、それぞれの宗教の様式に合わせて貼られており、ただ通るだけで背筋が凍るような空間。
正気の沙汰とは思えなかった。
(……なんだ、この場違いな空間は。法人なんて言葉に騙されるべきじゃなかったか?)
その伏魔殿のような通路の最奥に、ぽつんと受付カウンターが見えた。
唯一そこだけが、まるで孤島のように存在していて――どこか救いの場にも見えた。
受付には、金髪の白人女性が一人だけ。
若々しく、にこやかな笑顔をこちらに向けている。
俺は、異様な通路から逃げ出すように、受付へ向かった。
「すみません、御社の面談に参りました」
そう言って声をかけると、女性はにっこりと笑って答えた。
「はい、ようこそお越しくださいました。チラシはお持ちですか?」どこか目配せを交えながら、丁寧に問い返してくる。
違和感を覚えつつも、俺はバッグの中を探り、あのチラシを差し出した。
「夏枝様ですね? 弊社もお待ちしておりました」
女性はゆっくりと頭を下げ、上目遣いで俺を見つめた。
「どうぞ……右手の扉の先が面談室となっております」そう言いつつ、なぜか左側の扉を指さし、チラシを返してくる。
「ありがとうございました。失礼いたします」
俺は軽く頭を下げ、チラシを受け取り、カバンにしまい込んだ。
ゆっくりと左の扉を開くと、その先には、明滅する無機質な通路が続いていた。
扉を閉めた瞬間、その世界に閉じ込められたような感覚に陥った。
俺は、さきほどの違和感を反芻しはじめた。
彼女は、チラシの裏面をじっくりと眺めていた。
まるで、そこに何か“情報”があるかのように――。
(いったい、何を読み取ろうとしていた?)
俺は慌ててカバンからチラシを取り出し、もう一度裏面を確認する。
――だが、そこには何も書かれていない。やはり“白紙”のままだ。
(では、なぜ俺の名前を知っていた?)
(なぜ、“お待ちしておりました”なんて言った? まるで、来ることが分かっていたみたいに……)
俺は振り向いて、入ってきた扉を確かめようとした。
――だが、そこにはもう扉はなかった。
ただ、目の前と同じように明滅する無機質な通路が続くだけ。
再び前を見ると――いつの間にか、さきほどの通路が消え、扉と受付、あの女性がそこに立っていた。
(……いつの間に? 俺は……歩いていたのか?)ぞわりと、正体の知れない恐怖が背を這った。
(いや、気のせいだ……これは、面談という非日常が見せた幻覚だ……)そう信じ込もうとした。
おそらく、この扉の先が面談室なのだろう。
それを確かめるために、俺はこの奇怪な世界へ足を踏み入れた。
俺は、決意を胸に、再び彼女に声をかけた――。




