「違和感の正体と閉ざされた死」
俺は、少しずつビルへと歩を進めていく。
チラシによれば、このビルは所謂テナントビルのようで、「神材派遣管理会社 ユル法人会社」は、この十五階に居を構えているようだ。
ビルに近づくにつれて、見た目の存在感による違和感とは別の、別種の違和感を感じ始めた。ぬめりとしているような、そんな奇妙な違和感。
二つのビルの前に立った瞬間、俺の背筋は肌が粟立つ。逆立った刃先で撫でられた様な冷気に包まれた。
一つは「神材派遣管理会社 ユル法人会社」が居を構えるテナントビル。
もう一つは雑居ビルで、左右のビルの高さに大きな差はない。
俺は雑居ビルに向かって歩を進めてみた。
この違和感の正体を知りたかったのだ。
雑居ビルの出入口には、階層ごとにテナントを示す表示板が掲げられていた。
(一階、三階、七階……十階。)
もう一つのテナントビルにも、同様の階層表示がある。
(こちらも一階、三階、七階……十階。)
(???)
(チラシによれば、「神材派遣管理会社 ユル法人会社」は、この十五階……。)
おかしなビルだ。十五階が存在しない。
階層表示にも、そんな会社の名前はなかった。
一体、何が起きている?
とりあえず、俺は状況とチラシの情報を見比べ、精査した。
そして、一つの結論に至ったのだ。
――すべては、詐欺紛いの募集広告だったのだ!
俺は、やはりそうだったのかと反省した。
如何わしい募集広告だったのだ。
いわゆる、詐欺ってやつである。
いや、交通費と貴重な時間を溶かしただけで済んだのなら、まだ優しい方だ。
人生の半分を溶かすような最悪な選択をしなかったという意味で――今、その幸運を享受できていることが、何よりの救いだった。
俺の乾いた微笑みが、この現実感をさらに強く実感させた。そう、すべてが現実だった。
だからこそ、俺は見たくなったのだ。
存在しない十五階があるかどうかなんて、もはやどうでもよかった。
(そうさ、怖いもの見たさってやつだ。試してみよう。それこそが、終幕――フィナーレってやつだ。)
俺は、昇降機の呼び出しボタンを押した。
彼女――昇降機は、少し間を置いて返事をした。
中へ乗り込むと、操作盤には丁寧にも十階までの階層ボタンが並んでいる。……だが、俺はなぜだか、自分一人ではないような気がした。
いや、気のせいだ。さっきの詐欺まがいの広告に動揺しているだけだ。
(よし、その目で確かめてみよう。
この最上階に、何があるのか――)
そう思いながらも、俺の手は微かに震え、意志とは裏腹にそっと十階のボタンを押した。操作盤がわずかに冷たく、指先に吸い付くような感触を残す。
昇降機の扉が閉じる瞬間、わずかな空気の振動と共に、孤独と期待が入り混じった妙な感覚が胸を締め付けた。
階層ボタンが点灯し、電光掲示板がわずかに点滅しながら、階層を上げていく。
一階、三階、五階……少しずつ、それが目前に現れるのかと、俺の体は身悶えた。
歓喜と焦燥に駆られた獣が、閉ざされた死の中で絶叫するように。
(八階……十階!)
十階に到達した瞬間、照明がちらつき、内部が漆黒に染まった。
小さな機械音だけが、まるで心臓の鼓動のように響き渡る。
そして、金属の匂いと冷気が混ざった空気が俺の肺を満たし、理性が一瞬、揺らいだ。
俺は、すべてが絶頂に達したと勘違いし、狂おしいほどに賛美した。胸の鼓動は頭の中で反響し、手足の震えすら快感に変わる。
(……ん? 何も起こらない――)
期待の余韻が冷水のように俺を打ち、歓喜は戸惑いに変わった。
たしかに、昇降機は十階に辿り着いた……はずだ。
電光掲示板は、たしかに“そこ”を指していた。
けれど、彼女はその相貌をピクリともしない。ましてや、その口を開こうともしなかった。まるで、十階に着いたことを知らせると、気まずそうに黙り込み、ふっと灯りを落とした。
その沈黙は、拒絶のようでもあり、照れ隠しのようでもあった。
そして――まるで恋人のように。
昇降機は、満たされた余韻に飽いたかのように、俺にそっぽを向いた。扉は開かず、ただ冷ややかな沈黙だけが残った。
多分、十分くらいはうんともすんとも言わない彼女の中に、俺は閉じ込められていた。彼女の中で呼応するのは、俺一人だけだった。
もしかしたら、彼女は俺とだけ、時間を過ごしたかったのかもしれない。
彼女は、恋人たちがふとした嫉妬と愛情で板挟みになり、落ちていく――そんな深い恋慕のスパイラルを、俺に体感させようとしていた。そんな俺の気持ちを察したのか。
彼女、昇降機は遅ればせながら、備え付けの音響機器から「チン!」という遅れた音を漏らした。
まるで、ため息交じりの呼気を漏らし、自らに鞭打ったかのように。
そうした次の瞬間、俺は背中から昇降機の壁へ急激に引き寄せられた。
「ガンッ!」という衝撃と苦痛に呻きながら、俺は電光掲示板へ視線を向けた。
(十階、十二階……どんどん階層が?)
彼女は、前へと加速していく。
まるで壊れたジェットロケットのような勢いで。
電光掲示板は、数十秒前からその意味を成していなかった。表示は崩れ、見るも無残な彼女の慟哭を表していた。
(どこへ連れていくんだ? この先に、何がある?)
彼女は俺を連れて、なおも加速していく。
それは、ある意味、俺の望みを叶えてあげようとした、彼女なりの優しさだった。
彼女は無機質であるが、そこには愛があった。
彼女は、俺と共に愛を育みながら、俺を連れて、存在しない場所へと、今まさに漕ぎ出そうとしていた。
俺は、今もなお、彼女の中にいる。




