595話 考えるだけ無駄
一ノ宮耀と三門玲司の、新体力テスト点数勝負はいよいよ大詰め。
残り二種目、ヒカリ目線で点数は三十三対三十で若干リード。しかしこれはお互い事前に選べる一種目の得点を倍にするボーナスを消費したうえでの三点リード。
レイジは恐らく二倍ボーナスをまだ残していて、次の種目で使ってくる。ヒカリにとって重要なことは、彼に好記録を出させないこと。それができれば、たとえ自分の記録も伸びなくても構わない。
ベストはお互い一点にすること。それは終えた屋内種目で何度もできたことだから次もできると、ヒカリは自分に言い聞かせる。
結局本気を出せないのだな、と残念な気持ちもあったが胸に秘める。
「あと二種目ね」
「得点って今どんな感じ?」
二人の勝負を見にきた同級生たちは、記録係が持つ記録シートを覗く。これまでの得点と、二倍ボーナスの丸印を確認した。
「ん? どこに丸してある?」
「無いよ」
レイジのシートには丸がつけられていない。その疑問に記録係は、見えないのではなくついていないと答えた。
「ズルじゃないの?」
「いいや。思い出してよ。得点を二倍にできる。二倍にするじゃないから、しなくてもいいってこと」
ボーナスは強制ではないからつけなくていい。レイジのやり方はルールの範囲内だと告げる。
しかし得点がマイナスになることはなく、ボーナスを放棄するメリットがあるとは思えず納得がいかない。
「でも、しない意味はあるの?」
「何かトラップがあるんじゃ……」
レイジの言葉を思い出してみるが、それらしい話は誰も思いつかない。無いのだから、探しても見つかるはずはない。
「じゃあ自分へのメリットではなさそうだね。ハンデのつもりかも」
「ヒカリに勝たせるための、ですか?」
ルールを提案したのはレイジである以上、彼に分がある。だが最大十点をヒカリに与えるチャンスを設けた。あくまで憶測だが、意図を探るとそんな動機が浮かんでくる。
「それで勝って納得するの?」
「スッキリ勝たせない気かも」
それでレイジが負けたら、ボーナスの放棄を言い訳にできる。ヒカリとしてもモヤモヤが残るだろう。
「あるいはハンデがあっても勝てるって証明するつもりか」
逆にハンデをつけて勝つことでレベルの違いをアピールするつもりとも考えられる。“ノーツ”を失い降格して同じランクになったからといって、実力が拮抗しているのではないと証明し、ヒカリの心を折る狙いだと。
「まあ考えるだけ無駄だろうね」
合理性のない言動で人を戸惑わせるのはレイジの十八番。こうして疑心暗鬼になっている時点で彼の術中に嵌まっている。
「ヒカリは気づいているのかしら」
「何を選んだかは秘密ってルールだし、気づいてなさそうだね」
ヒカリはレイジがボーナスを捨てていると考えていない。現時点でリードしているのに深刻な表情を浮かべているのがその証拠だ。
「……ヒカリちゃんは多分、三門君が次の種目を選んでいるって思っているね」
次は五十メートル走。真っ直ぐ走るだけのシンプルな測定だが、ヒカリは悩んでいる。
いかにレイジに点を取らせないか考えている顔だろう。その予想は半分は当たっていた。
ヒカリが競走で本気を出せない理由は過去にある。
人の反応は切り詰めてもせいぜい0.01秒。ピストルの合図で走り出すまでにラグがある。
その差で点数が変わることはある。競走では順位が変わる。今回の勝負でも八秒ジャストとコンマ0.01秒では一点違う。
だったらラグをゼロにすればいい。合図を待つのではなく、タイミングを読んで合図と同時にスタートするのが一番合理的だと幼いながらも気づいたヒカリは、その技術を会得しようと練習を始めた。
けれども結果はフライングの連発。体育の授業や運動会練習で、またフライングか、早く終わらせたいからやり直しにさせるなと非難された。
ヒカリの心は折れ、以来、誰かを待ってスタートするようになった。
それはそれでアリだと思う。出遅れて追い抜く方が気分が良い。だが物足りない気持ちもあった。
接戦で盛り上げるため、本音は保護者のクレームを避けるため、運動会は短距離走タイムが近い人と競走する。だからヒカリは速い人と競うことはできず、ライバルを見つけられなかった。
そんな過去は、誰にも話していない秘密だ。 そして今さら話す気もない。今回も人がスタートしてから走るだけのこと。
ピストルズが鳴る。同時に記録係がストップウォッチを動かす。だが肝心の走者、レイジもヒカリも走り出さない。屈んだまま固まっており、観客は困惑する。
「フライングしても、俺は気にしない」
合図が鳴った後にフライングも何も無い。しかしレイジは気にせず語る。
今回の勝負は二人だけでのレース。測定のやり直しになっても巻き込まれるのはレイジ一人。その彼が許せば、責める人は居ない。
ヒカリの秘めた悩みを、レイジは心の声を聞く“ノーツ”で傍受した。そして彼女に、本当の自分を曝け出してもいいと背中を押す。
「自分のタイミングを信じろ」
今までのように誰かを待ってスタートする必要はない。スタートの合図が来ると予測した瞬間に走り出していいと告げる。ヒカリにとってベストタイムを出すために。
「追い抜いて気分が良いのは、お前だけじゃないんだぜ」
そうすればヒカリが先にスタートする可能性が出てくる。しかしレイジはそれも望んでいると伝えた。理由は彼女と同じで、順位を変える方が楽しいからだ。
そんなレイジの本心は、ヒカリにも届いている。彼が心底楽しそうに言うのだから、間違いないと。
「……望むところ」
レイジの言葉でヒカリは燃えた。今なら本気を出せる。そして彼女が僅かに先にスタートした。
レイジはヒカリと同時に出発する。並走する二人は五十メートル先のゴールを目指し競走する。
だが中盤、状況に変化が訪れた。レイジがさらにギアを上げる。彼が一変した様はヒカリにも伝わり、一瞬視線を向ける。
風に靡く前髪から覗かせたレイジの右目は、見えないながらも光を宿し、真っ直ぐ前を見据えている。
二身、三身と差を広げ、ゴールに飛び込んだ。
一秒遅れてヒカリもゴールする。息を整えタイムを聞くも、記録係は冷めた目を向ける。
「一分以上だから一点」
「え……」
スタートからゴールまでのタイムは、二人ともとても速かった。しかし合図が鳴ってスタートまでが長かったことが問題であり、それだけで一分を超えた時点で正確な記録を出すまでもないと諦めていたのだ。
「やり直しさせて!」
「駄目だね。タイミングが合わないときだから」
「フライングしたときとは書いてないだろ」
測定は一回のみ。合図とのタイミングが合わず本来以上の記録が見込まれるとき、中断してリスタートとなる。
それはフライングしたときに限った話ではないとレイジは屁理屈を捏ねる。
「でも二人のタイミングは合ってた」
ヒカリの心を読んで同時にスタートしたばかりに、屁理屈で返されて反論を失った。
「まあ正式な測定じゃないし、いいよ」
「やめておこう。他の種目はちゃんとルールに従ってきたし」
勝負という名の遊びだから、ルールを丁寧に守らなくていい。むしろ測り直して本来の実力を記録する方が良いと思える。
けれどもレイジが拒否した。彼はもう一度今のスピードを出せないと懸念している。
夢を壊さないためにも、やり直しは不要だと考えた。表向きの理由は、ルールを守ることだと告げて。屋内種目は測り直したいものばかりなのだから。
「ヒカリもいいのですか?」
「うん」
ヒカリとしては記録より、全力で走れたことに満足している。
ずっと抱えていた悩みを解決してくれたレイジには、心の中で感謝を伝えた。
そしていよいよ最終種目、シャトルラン。始める前にヒカリは二人の得点を計算する。
五十メートル走は、狙い通り相手の得点を抑えた。けど勘違いしているのではないか。
レイジがボーナスに選んだ種目は他にあったのではないか、そんな不安が頭を過ぎる。
得点二倍に選んでおいて一点止まりなら焦るはずだ。けれどもレイジの表情からは感じられない。
してやられた、とヒカリは最悪のケースを考える。
ヒカリの得点は三十四。レイジは三十二か三十七以上四十一点以下。
彼が七点以上取った種目をボーナスに選んでいたら、次に八点取った時点でヒカリに勝ち目がない。
反対に一点の種目を選んでいたらヒカリが九点以上取った時点で勝利だが、普段通りの記録を出せる前提で考えておくのは危険だ。
心を乱してくるのはレイジの得意分野。最後まで安心できない。
実際はレイジはボーナスを放棄したので三十一点。ヒカリに悩ませて本調子を出せなくさせて勝つために、気丈に振る舞っていた。
体育館に戻ってきた。息は整った。ヒカリは悩んだ末に、普段通り走ると決めた。
勝つためにはレイジの得点を抑えなくてはならない可能性が高いが、今までのように自分の得点も犠牲にしては駄目だ。四点、最悪八点差をつける必要がある。
仮に揺さぶりをかけて一点に抑えたとして、測定を終えたレイジが黙っているとは思えない。ヒカリの記録も伸びないよう仕掛けてくると予想がつく。
考えれば考えるほど、無謀に思えてならない。けれども諦めたらレイジの思う壺だろうから、十点取りに全力を尽くそうと決めたのだった。
そうすればレイジは気を使って勝たせてくれると、期待という名の強要を秘めて。
「今度は履くんだね」
「足痛くなるからな」
レイジは屋内シューズを床に置き、足を入れた。理由は裸足では負担がかかるからだと告げる。
「入らねえ」
「さっきヒカリが履いてましたね」
しかし履けない。原因はヒカリが彼のシューズを履き、紐をきつく結んだことだ。
「直すか」
「じゃあ先行くね」
レイジは紐を結び直し、足を通す。その間に皆は館内に入り、デジタルタイマーとラインテープを用意する。
測定が始まった。するとレイジは違和感を抱く。靴紐が緩い。けれども表情には出さず、そのまま走る。
その結果、彼は普段以上に体力を使った。けれどもヒカリより先に脱落するまいと粘る。
彼女に八点取られた時点でもう勝ち目はないが、諦めずに走り続ける。
十点ボーダーの八十八回で終わらせたヒカリは、そこでストップする。この時点で男子基準で六点。もう勝ち目はないだろうが、ベストは尽くしたとヒカリは満足していた。
なおレイジはヒカリがリタイアした直後、八十九回で足を止めた。
「あれ、止まっちゃった」
「嘘!? ここで!?」
唐突に足を止め背を向けて肩で息をするレイジに、これで終わりかと周りは困惑する。無情にもドレミの音楽は流れ、二回の遅れをもってレイジの記録は終了となった。
「後一回で七点だったのに」
「まあヒカリに十点取られた時点でね……」
ヒカリ以外は皆、レイジの敗北を分かっている。だからレイジがリタイアした意図が分かる。
さあ、結果発表の時間だ。
「結果はヒカリが四十四点」
「三門君は三十七点。ヒカリちゃんの勝利、おめでとう!」
結果を受けてヒカリは困惑した。どこかで計算を間違えたのかと、暗算で考え直す。
「俺のシートを見なよ」
ヒカリの数え間違いではない。レイジは種を明かすべく提案する。
「丸はどこ?」
「つけてない。つけられるってルールだから、つけなくてもいい」
ボーナスがないから、各得点の和が獲得点になる。計算は合っていたがヒカリは納得がいかない。
「なんで、そんなことを……」
「ハンデをつけても勝てるって証明したかったからだ。結果はこのザマだけど」
ヒカリもボーナス抜きで比較してもレイジは四点差で負けた。身体能力と駆け引きの総合で負けたと認める。
「でもハラハラしただろ?」
「そうだよ! どれを二倍にしたのか全然分からなくて……」
ヒカリは一方的に翻弄された。レイジの表情は読める自信があったのに、八種目のどれを選んでいたか当てられなかった。
どれも選んでいなかったから当てられるはずもなかったのだが。
「それで、俺はヒカリのライバルになれたのか?」
「え……」
勝負の発端は、ヒカリがレイジに自分をライバルと認めてもらおうとしたこと。
けれども今の彼の言葉は、立場が逆だ。
「……うん。本気で競走できてよかった」
ヒカリは五十メートル走を思い出す。フライングを恐れ、全力で走っても本気で競走ができなかった彼女は今日、自分の好きなタイミングでスタートして対等な競走ができた。
負けてしまったが、これが競走だと分かり、勝ちたいと思った。
「これでお互いライバルだな」
ヒカリの返事は聞かなくても分かる。それを受けてレイジはこう答えた。彼女のことをライバルで認める。
その返事を聞けたヒカリは、達成感に溢れ、微笑んだ。




