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かさね

「よし。なんか食べいこ」

「え」

「そんなしょげた顔のまんま別れたら、何となくモヤモヤが残る気がするからね。美味しい物でも食べて、機嫌良くまた明日ー、ってしよう」

 誤魔化しか、照れ隠しか。

 定かでは無かったけれど、それでも。向けられた気遣いを無下にする理由は、一つたりとも思いつかなかった。

「……焼肉食べたい」

「無茶苦茶言うね」

 薄曇り。

 仄暗い部屋を後にしようと、席を立つ。

 そんなタイミングで、

 

「おーい‼︎」


 隣の教室から、恐るべき声量による、誰かを呼ぶ声が響き渡った。


「え、死ぬ程うるさ。肺活量スイマーか」

 不機嫌も顕に、董子が不満を口にする。けれど勿論、そんな彼女の陳情が声の主に届く訳もなく。衰え知らずな勢いのまま、声は外へと向けられる。


「引継ぎ連絡のプリント忘れてるってよー!小野瀬おのせがブチ切れてたぞー!」

 小野瀬とは確か、隣のクラスの担任教諭だったはず。

 強面で、中々ハードな怒り方をする人物だったと記憶しているのだが。

 ただ、不穏当な内容とは裏腹に、声色には毛先ほどの逼迫感もありはしなかった。そしてそれは、階下より響いた返答の声色もまた、同じくであった。


「あー……明日謝るから、そのまんまにしといてくれ」

 

 気怠げで、聞くからに面倒臭そうな。けれど、声の主にしっかり届く様にと、普段よりも随分と張った、声。

 その声は、知っていた。


 ぴくりと。自らの意思とは無関係に、体が揺れる。

 そんなこちらの様子を見て、なにをか勘付いたのだろうか。不満もそっちのけ、董子が窓枠まで駆け寄る。

 階下を見つめる事一秒。くりっと首を回してこちらを見やる。その表情はこちらを茶化している気配など微塵も無い……けれどもほんの少しだけ、悪戯っぽい雰囲気を伴った、真剣めいたものだった。


「見る?」


 たった一言、短く問われる。

 答えるよりも先、自らも窓際へと足を運ぶ。

 見下ろした階下に、彼の姿はあった。


 雨伏敬吾。

 行末のない好意の向いた先。

 名も無いままの感情を抱いた、たった一人。


 ——無表情一辺倒。

 董子は私をそんな風に評したけれど。言ってしまって構わないなら、それは彼だって大概だと思う。

 仏頂面という訳では無いけれど、大口を開けて笑ったところは見たことがないし、驚嘆や感嘆が色濃く表に出るタイプではきっと無い。


 けれど、知っている。

 彼が、不格好な好意を冷やかさない事を。

 必死に用意して……それでもきっと退屈だろう私の話を、結局ちゃんと最後まで聞いてくれる事を。

 端から見れば細やかで、蔑ろにしたって決して責められない様な代物に、それでも真摯な感謝を贈ってくれた事を。


 目線は私達の隣の教室へ。こちらには気付いていない。

 二階と、階下。

 近いけれども仄かに遠い……それでも、表情だってよく見えるだけの距離感。私には向けられない眼差しと、その横顔を見て、想う。


 彼がどんな風に笑うのか、見てみたい。

 彼がどんな物に感動するのか、知りたい。

 彼がどんな人を好きになるのかも、同じ様に。


 関係のその先なんて、考えた事もない。

 彼と何か、それらしい行為がしたいのかと訊かれれば、即答は出来ない。

 それでも、例えば。

 矛盾でしかないけれど、例えば。


 彼の笑う、その隣にいるのが。

 彼が感動する何かに立ち会った時、一緒にいるのが。

 彼が好きになった人が、あるいは——。


「あ」

 董子が声を挙げる。


 彼の目線が僅かに移ろい、横へと流れる。

 ばちり、と。

 その視線が、私達を見つけた。


「——」

 

 頭が真っ白になる。

 どんな風にするのが正解なのか、まるで思い付かない。

 思わず、助けを乞う様に視線を隣に立つ董子へと向ける。

「え」

 だが、探したその姿はそこにはなかった。

 見れば体を丸めてしゃがみ込み、物陰に身を隠していた。

 その手があったか。


 今更身を隠す様な真似は、余りにも心象が悪い。

 かと言って、何か気の利いたリアクションも思い浮かばない。

 考えあぐねたところで妙案を引き当てられる訳もなく、重くのし掛かる曇天に似た暗い焦燥のまま、視線を再び階下へ。


 今再び視線のかち合った、その時だった。


「……?」

 

 おもむろに、彼は自らの掌へと視線を落とす。

 自身の手をまじまじ眺めるという奇妙な行為に、先程までの焦燥も忘れて思わず首を傾げる。

 彼は一体、なにをしているのだろう。

 ……けれど。その答えは、すぐにわかった。


 自身の顔へと向いていた手のひらを返し、頭の上にかざす。その視線は一瞬も寄り道する事なく教室……ではなく、私へと。

 陽柘かさねへと向けられた。

 手を振り。その口が、開く。


 

「おつかれ。またな」



 がなるでもなく、張り上げるでもなく。

 けれども余りにはっきりと通る声で、確かに。

 確かに、私へと向けられて、その言葉は放たれた。


 晴れ渡った訳じゃ無い。

 雲は相変わらず重く、遠く彼方までを薄暗く覆い尽くしていた。

 そんな雲の隙間。

 ほんの細やかな切れ間から、鮮烈な夕焼けが再び私達を照らす。

 染め上げられた景色は、直視するのを躊躇うほどに色鮮やかで。どこまでも見通せるのではと想ってしまうほどに鮮明だった。


 考えるよりも先に体が動く、なんて言葉は信じていなかった。だってそれは、結局考えた結果動いてるんじゃ無いか、と。そんな考えの浅薄を、自分自身で証明することになるなんて、思いもしなかった。


 窓枠に手を。

 身を乗り出して、もう片方の手を大きく振る。

 彼が呼んだのは私なんだ。

 彼に応えるのは私なんだと。

 彼自身に——或いは周りの誰しもに宣言する様に。


 ——————


  楽しいと思えることが、まるで無かったわけじゃ無い。

 押し潰されそうな悲しさや苦しみを、ずっと感じていたわけでも無い。だからきっと、私の人生は決して、不幸なんかじゃなかったと思う。

 ただ、ほんの少しだけ、息がし辛かった。


 けれど。

 

 例えば彼が隣に居れば。

 言葉を交わして、笑い合えて。

 そんな彼が、私を好いて。

 大切にしてくれる様な明日があったなら。

 そんな子供じみた想像一つだけ。

 ただそれだけで、私の肺は酸素で満たされてしまった。


 好きか、嫌いか。

 ただそれだけの二者択一なら、それは勿論前者だと思う。

 自分では無い他人に、少しでもよく見られたいだとか。

 好意的な言葉を向けてもらいたいなんて、これまで一度も考えた事はなかったし。当然、そう思った相手も居なかった。

 だからきっと。

 この感情は、特別なものなのだ。


 ——————

 

「ありがとう、董子」

 歩き去っていく彼の後ろ姿を見送りながら、未だ身を屈める友人へと声を掛ける。

「まぁま、いいよいいよ。大した話じゃない、し——?」

 目が合う。

 董子の表情が、俄かに赤味を帯びていく。

 

「ねぇ、董子。聞いてくれる?」

「——嫌だ、まって。聞きたく無い。多分、それを聞いたら死ぬ」

 

 董子の顔が、まるで茹蛸の様に赤らんでいく。それはきっと、再び私達を照らしている夕陽のせいではなかったけれど——でも、もう遅い。そもそも名前を付けることの重要性を説いたのは、他ならぬ彼女だ。この位の羞恥には付き合って貰ったとて、バチは当たらないだろう。

 それに。顔が赤いという話をするなら、きっと私もそうだろうから。お互い様と言うことで納得して貰おう。


 私は名付ける。

 生まれた、初めての感情に。沸き立つ好意に。



「董子。私——雨伏君に、恋してる」

 

「あーーーー!」


 遂に董子は、顔を両手で覆って悶絶してしまった。

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