『ない。』
好きか、嫌いか。
ただそれだけの二者択一なら、それは勿論前者だと思う。
自分では無い他人に、少しでもよく見られたいだとか。
好意的な言葉を向けてもらいたいなんて、これまで一度も考えた事はなかったし。当然、そう思った相手も居なかった。だからきっと、この感情は何か、とても特別なものなんだと思う。
けれども。この感情を〝恋〟と呼んでもいいものか。
それだけを。私はずっと、考えあぐねていた。
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「……恋ってなんだろう」
「え、怖っ。今日日フィクションでも聞かないよ、そんな質問。思春期の小学生のポエムか」
想像の八倍位辛辣に返された。小学生以下なのか、私。
「ライトな恋バナなら未だしも、そんな哲学まっしぐらな話されてもわかんないって。そもそもなんで突然、そんなファンシーな疑問抱き始めたのさ」
放課後の教室には私と董子の二人だけ。
遠く、微かに生徒達の声が聞こえる以外に響く音はなく。そんな静けさは、彼女の容赦ない質問の棘を一層際立たせた。
「ファンシーは言い過ぎでは」
「いいやファンシーだね。ファンタジーでもいいけど」
「……そんなに?」
「それはもう」
そうなのか。
「……考えないものなの、普通は?」
「口には出さないもんなの、普通は」
二階の教室に、傾いた日差しが差し込み、無遠慮に教室を染め上げる。
夜には未だ遠いけれど、昼間の賑やかさとは程遠い。
覚えの無い郷愁すら感じさせる様な眩い茜の中で、董子は呆れたように溜息を吐いた。
「今時、世の中にこんだけエンタメがガチャガチャしてる中でさ、惚れた腫れたならまだしも、恋心についての考察なんかインフルエンサーでもやらないよ」
「董子も?」
「そらそうよ……まぁ、ずっとちっちゃい頃にぼんやり考えた事はあるかなー、程度はなくもないけど」
とっくに終えた帰り支度。
カバンに括った交通安全のお守りを、手持ち無沙汰を誤魔化す様に弄りながら考える。
誰かを好きになる事。
誰かに好かれたい事。
その感覚の全部が、まるで共感出来ないと言い切れる程に物を知らない人間では無い、と。その程度の自負は勿論、ある。ただそうした感覚と、恋焦がれる熱情が符合するのかはわからない。
「——雨伏君、でしょ」
「え」
「いや。逆に、この流れで察せられない奴いないから、そのリアクションは割愛でいいよ」
「えぇ」
辛辣。
「や、いいのよなんでも。変な男に引っ掛かったとか、投げ銭で貢ぐのが生き甲斐になったみたいな話でもない訳だし。あの人の事はぶっちゃけよく知らないけど……確かに、あれは多分いい奴だし」
「……そうだよ、ね」
「そこだけはまぁ、そう思った。弁当箱返しに来た時の態度は、正直ちょっと感心した」
頷きながら、あの日の彼を思い出す。
勢い任せで弁当を渡したはいいものの、その行為が周囲の好奇の的になる所までを考えられなかった辺り、確かにあの日の私は大分、どうかしていたのだと思う。
結果として巻き込んでしまった彼から——本当は、誤魔化しや悪辣で返されたって、文句は言えなかったのだ。
けれど。決してそうはならなかった。
「ウチのクラスなんて基本ガキかアホしかいないからさ。冷やかしにも野次馬にも目もくれなかったあの姿勢は……あれは確かに、いい男だったと思う。だからアンタが入れ込んでるのがあの人なら、それは全然良いと思うよ」
茜が深まる。
それほど長い時間駄弁り続けていた訳でも無かったと思うのだけれど、時間は刻々と過ぎ去っていく。
景色は変わらず。けれど、差し込む光の濃淡だけで、見える風景はまるで別物の様に移ろっていく。
「だから、わかんないのはアンタ自身の事かな。弁当渡して、可愛いって言わせたくて。そこまでいってそれでも、好意の種類がー、なんてスタートラインでまごついてる意味がわからない」
「決してまごついている訳では……ただ、純粋にそうなのかな、という疑問であって……」
大きな溜息。明らかな呆れ顔に申し訳なさを覚える。
だがやがて、意を決したように、
「こんな恥ずかしい話題、これっきりにしてよね」
なんて前置きをしてから、董子が口を開いた。
「アンタはどうしたいの?」
「え?」
「アンタの疑問にはさ、ちゃんとした答えなんて出ないんじゃない?そもそも、あるかどうかもわからないし。だからもし、アンタの抱いてる好意をカテゴリ分けするんなら、向けた好意の行末がどんな形なのかを考える以外無いと思うよ」
「好意の行末……?」
董子が小さく頷く。
「雨伏君との関係が今と何にも変わらなくても構わないって言うなら、多分それは恋じゃない。遠くから観て喜んでるだけ……出待ちのファンみたいなもんだと思う。ただ、そうじゃなくて。今とは違う関係になって、その関係性に何か名前を付けたいってアンタが思うんなら、きっとそれは恋だと思う……例えば恋人、とかね」
言われて数秒、自らの内を探る。
抱いたことのない好意の感情、その果てに求めている在り方。そんなもの、考えたこともなかった。
だから今、考える。
考えて——けれどもやはり、その答えは出なかった。
「どんな関係になりたいか、って言うのは……正直わからない。と言うより、想像も出来ない」
「ん、そうなの?」
これには少し意外そうに、董子が首を傾げる。不思議そうなその表情を見て——やはり私の感覚はどこか、普通の人とは違うのではないだろうかと不安を抱く。
「恋人になりたい、とか。伴って、それっぽい振る舞いをしたいっていう欲求は多分あまりなくて。関係に名前、と言われても、咄嗟には思い浮かばない」
世間知らずの箱入りでもあるまいに、男女の関係なぞ全く想像も付かない、なんて寝惚けた事を言うつもりはない。けれども、では。自身がそうした関係性の麓に身を置きたいのかと問われれば、これには些か疑問が残る。
二の句を紡げず押し黙る私を、暫しぼんやりと眺めてから。
「——もしかしてだけどさ。アンタって多分、〝恋〟ってのを何か、凄い特別な物みたいに捉えてるんじゃないかな」
痛切な現実の話を、董子は口にした。
雲が翳る。
先程まで室内を満たしていた茜は鳴りを潜め、周囲の色彩が不鮮明になる。
薄暗い、解像度の悪い景色。靄のかかった視界は、そのまま私自身の心の澱の様に思えた。
「これは——あー、口にするのも小っ恥ずかしい持論だけどさ。ドラマや映画、漫画なんかで描かれてるほど、恋とか恋愛ってのは劇的なもんじゃないと思うんだよね」
「……過剰演出、と」
「そこまで夢も希望もない事言うつもりないけどさ。ただ、誰かに惚れたっていうたった一つきりがキッカケで、自分って代物が大きく変わっちゃう訳じゃないし、物の見え方が変わる訳じゃない。人生が変わる様な恋心なんて、土台そうそうあるもんじゃないと思うんだよね」
言葉はきっと、その通りなのだと思う。
関係性を求める訳でも、その過程……もしくは結果としての何かしらを欲している訳でもない。そんな不確かな感情を特別だとするならば、そもそもそんな捉え方は間違っている。
料理を褒めてもらえたのが嬉しかった。
可愛いと言ってもらえれば、きっと嬉しかった。
けれど、先は無い。
その先に何か、具体的な形を伴った代物を欲している訳じゃ無い。
だからきっと。私の抱いたこの好意に名前は無い。
名付けることすら憚られる色褪せた好奇心でしか、ない。
「勿論、それが悪いって話がしたい訳じゃ無いよ。なんなら、無表情一辺倒なアンタが照れたり慌てたり出来る様になっただけ、随分と良い兆候だとすら感じてるしね。ただ、恋に恋する、みたいなフワッとした感覚を抱くのは、あんまりオススメしないかなってだけ…………気、悪くした」
「ううん、まさか」
董子は優しい。
徹頭徹尾、私の事を想ってくれているからこそ、彼女は安っぽい慰めみたいな言葉を決して口にはしなかった。その事がただ有難く、
「ありがとう。相談に乗ってくれて」
だからこそ、思い知らされる。
自身の感情の、その不確かさを。
いつの間にか、とても特別で得難いものだと錯覚していたのかもしれない、自らの胸の内を。




