『みえ。』
楽しいと思えることが、まるで無かったわけじゃ無い。
押し潰されそうな悲しさや苦しみを、ずっと感じていたわけでも無い。だからきっと、私の人生は決して、不幸なんかじゃなかったと思う。
ただ、ほんの少しだけ、息がし辛かった。
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「なぁ」
気付けば下ばかり向いて歩いていたらしい。声を掛けられるまで、自分の近くを別の誰かが歩いている事にすら気が付かなかった。
顔を挙げる。そこに、雨伏敬吾は立っていた。
「なに?」
完璧に油断していた。まさかこんなにも気を抜いているタイミングで、彼と出会すとは、予想外過ぎる。
慌てている事が露呈するのを嫌い、努めて普段通りの声色で、短く応える。
「いや、なにって訳でもねーけど……もしかして変なタイミングで声掛けた、俺」
「そんな事ないけど、なんで?」
「いや、それ」
言いながら、私の両手を指で指す。
「すげーそわそわしてるから」
言われて、気付く。
片手は髪を撫で付け、片手は制服のスカートの皺を伸ばす。そんな二つをいっぺんにやろうとするものだから、確かに。今の自分は随分と落ち着きがない様に見えた事だろう。
「身だしなみへの配慮を欠かさないタイプだから」
「今からランウェイでも歩く気?」
「淑女の嗜み」
「えらくつっけんどんな淑女がいたもんだ……」
溜息混じりなその顔を見て、内心苦々しい思いを抱く。
言葉に嘘はなかった。
普段だったら必ず、彼に声を掛ける前に身だしなみは整えていた。
髪の毛は整え、制服もだらしなくない様に。
背筋を伸ばして顔を挙げてから、声を掛けていた。
いた、のに。
まさかこんなにも油断し切って——話す内容すら未だ考えられていない状態で鉢合わせるなんて。
「それで。なにか用事だった?」
不用意な会話を続ければ、きっとボロが出る。
その思いから、普段より急いた口振りになってしまった事に、一瞬身を震わせる思いをする。
ただ、言われた当の本人はまるで気にした様子も無く、
「いや、特別に用って訳じゃなかったし、半分位は用件すんだみたいなもんだから、気にしないでくれ」
なんて、よくわからない事を言った。
「全然わからない」
「いやホントに、マジで大した話でもねーから」
「聞きたい」
「良いってば」
「声掛けておいて、やっぱり何にもなかったわ失礼なのでは」
「……」
きっとボロが出る。それでも食い下がって引き留めたのは、彼から声を掛けてきてくれたから。
不格好なのはいつまでも歯痒いけれど、だからといって余所余所しくこの場を離れたくはなかった。
けれど、言葉は少しキツかっただろうか。
そんなつもりは勿論なかったけれど、どこか問い詰める様な声色になってしまっていたのではないだろうか。しつこく聞いて、彼の気を悪くしてはいないだろうか。
「——あの」
考えれば考えるだけわからず。
咄嗟に弁明の言葉を口にしようとした私を制したのは、
「——五秒待ってくれ」
なんて、深刻そうな表情で放たれた彼の言葉だった。
多分。人生で一番長い五秒間。
その沈黙を破って、彼は小さく息を吐いた。
「……アンタが正しい。今のは俺が悪かった」
「え」
「ほら、いつもアンタしゃんとしてるだろ。ピシッと。それが今日に限って俯き加減だったから、あれだ——あれよ」
「どれ?」
「……具合でも悪いのかと思ったってだけ。マジで本当に、ただそれだけ」
そこで一度言葉をきり、ガシガシと頭を掻く。
「それが蓋を開けてみりゃいつも通りだし。勝手に勘違いして、勘違いした事がバレるのが小っ恥ずかしくて、変な誤魔化し方した。ごめん、元気そうで良かった」
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本当に。
我ながら、馬鹿みたいだ。
「少女漫画の主人公だったらモテると思う」
「馬鹿にしやがる。こんなもんでウケが狙えてたまるか」
「どうしてそう思うの?」
「フィクションはもっと劇的でスマートなもんだろ。見知った顔の健康気遣うだけでモテるんなら世話ないぜ。なんせやるのは、声掛けるだけなんだからな」
「そうだね。でも、ほとんどの人はしない」
「……そんなもんかね」
「うん。声を掛けようと思うのと、声を掛けるのは、全然違うからね」
「さいですか」
きっと、言葉に嘘はないんだろう。
気恥ずかしさはありつつも、大それた事じゃない。
彼にとってはごく自然で、ありふれた気遣い。
そんな些細な言葉一つで、こんなにも気持ちが軽くなる。
本当に、馬鹿みたいだ。
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「ま、そんな訳で呼び止めた理由なんてこの程度でな。悪かったな、引き留めちゃって」
馬鹿みたいについでに、改めて悔やまれる。
「——いつもは」
「は?」
「いつもは、猫背で歩いてなんてない。今日は本当に運悪く、たまたまだっただけ」
「何を念押しされてるのコレ」
「普段からだらしない人間だと思われたくない」
「姿勢が悪いだけの人間捕まえて、こいつは自堕落だなんて喚きゃしねーって」
「悪くない」
「は?」
「私の、姿勢は、悪くない」
いつだって気を付けていたのだ。
食堂で声を掛けたあの日から、絶えることなく。
「……アイデンティティの置き所独特過ぎない?それに、最初に言ったじゃねーか。アンタがいつもしゃんとしてるのは知ってるよ」
「………………本当に?」
「無表情の癖に、疑ってるのがわかるってすげーな。逆に、そこまで言い切る位入れ込んでる癖に、なんでまた今日に限ってだったんだよ」
「それは…………」
「それは?」
「…………ないしょ」
「えぇ」




