99話 空を覆う翼
作戦の最終確認を終え、一行を包む空気は極限まで張り詰めていた。強敵、赤龍。その存在が放つ威圧感は、まだ姿も見えぬうちから肌を刺すような熱気となって伝わってくる。
ガルドやアエラといった慣れた冒険者たちですら、額に汗を浮かべ、何度も武器の感触を確かめている。だが、そんな中で一人、異様な高揚感に包まれている者がいた。
「ふふ……ふははは! 龍か、実に滾るのう!」
エマだ。彼女は愛杖を構え、「シャアッ!」「ハァーー!!!!」と鋭い呼気を吐きながら素振りを繰り返し、口角を吊り上げてニタァと不敵な笑みを浮かべている。恐怖を塗り潰すようなその好戦的な姿に、ショウは恐怖が勇気へと変わるような、不思議な頼もしさを感じていた。
「みんな、準備はいいな……。じゃあ、行くぜ」
ガルドの低い声を合図に、一行は音もなく崖の縁へと這い寄った。
崖下を見下ろすと、そこには直径数十メートルはあろうかという巨大な「巣」があった。その中心に、それはいた。
赤龍。
燃えるような真紅の鱗に覆われたその巨体は、眠っている今でさえ、周囲の岩を熱で歪ませている。ガルド、アリナ、ゴードンの前衛部隊は、息を殺して崖を降り、巣の周辺に点在する巨岩の陰へと滑り込んだ。
崖の上で待機するショウ、エマ、アエラの三人。アエラが崖下の様子を慎重に窺い、前衛部隊からの「準備完了」の合図を受け取った。
「準備できたみたいだよ! さあ……二人とも、ありったけの魔法で行っちゃいな!!」
「了解です! ――アズールフレア!!」
「わしの炎の最高傑作、見せてくれるわい! ――ギガントフレイムノヴァ!!」
ショウの放った青白い超高熱の炎弾と、エマが召喚した燃え盛る巨大な隕石のごとき火球が、尾を引いて崖下へと吸い込まれていく。
「ドガァァァァァァン!!!」
凄まじい轟音と共に、赤龍の巣が爆辞的な炎に包まれた。土煙と熱波が崖上まで吹き上がり、視界を真っ白に染め上げる。
「やったか……!?」
ショウが思わず呟いた。しかし、その希望は即座に打ち砕かれる。
猛烈な勢いで旋回した巨大な翼が、煙を力ずくで薙ぎ払った。その中から現れたのは、傷一つ負っていない紅蓮の暴君。
「ギャァァァァァァァーーーーン!!!」
天を突くような咆哮。それは音というより物理的な衝撃波となり、崖の上のショウたちの足元を激しく揺らした。黒くねじれた二本の角、全てを切り裂くナイフのような牙、そして大地を粉砕する巨大な尾。鋭い金色の瞳が、侵入者たちを明確な殺意と共に捉えていた。
「……全然、効いてない」
ショウの頬を冷や汗が伝う。
「おーっ! やるな赤龍! わしの魔法を食らって無傷とは、さすがじゃ!」
対照的に、エマはさらに笑みを深くした。
「いくぜッ! 仲間の仇だ!!」
ガルドの叫びを合図に、前衛部隊が岩陰から飛び出した。
崖の上からアエラが援護の矢を放つ。その矢の先端には爆弾が括り付けられており、赤龍の体表で「バコン! バコン!」と激しい爆発を繰り返すが、奴の強靭な鱗を剥がすまでには至らない。
「はぁぁぁぁっ!!」
ガルドが二振りの剣を交差させ、赤龍の眉間へと斬りかかった。渾身の一撃。しかし、赤龍は首をわずかに振っただけで、その巨大な角でガルドの双剣を易々と受け止めた。
「ガチィィィィン!!」という金属音と共に、ガルドの腕に激しい衝撃が走り、剣が弾かれる。
「私も行くよ!」
アリナが死角から踏み込み、赤龍の足首にある鱗の隙間を狙って剣を閃かせた。だが、それすらも「カチィィン!」と乾いた音を立てて弾き返される。
「くっ、硬すぎる……!」
赤龍は煩わしそうに尾を大きく一閃させた。
「くそっ!」「くっ!!」
薙ぎ払われたガルドとアリナ。それを、ゴードンが巨大な体躯を割り込ませて受け止めた。
「大丈夫か、二人とも!」
ゴードンの盾が悲鳴を上げ、彼は泥を削りながら数メートル後退した。
赤龍が大きく口を開き、喉の奥に灼熱の光が集まっていく。ブレスの予兆だ。
「させない! ――ウォーターランス!!」
ショウがグラウンド・エッジを突き出す。放たれた鋭い水の槍が、発射寸前の赤龍の顔面を正確に打ち抜いた。
「ギャォォーン!」
不意を突かれた赤龍が怯み、ブレスが不発に終わる。しかし、怒り狂った龍は、その巨大な爪を前衛の三人に向け、上空から叩きつけた。
「ドゴォォォォォン!!!」
再びゴードンが盾で受け止めるが、その重圧に足元の地面が陥没する。
「う……お、重い……っ!!」
「体勢を崩す!! ――ストーンエッジ!!」
エマが杖を地面に叩きつけると、赤龍の足元から鋭い岩の棘が幾本も突き出した。巨体がわずかに浮き上がり、赤龍の体勢が崩れる。
「隙ありだよ!」
アエラが次の一手を放った。放たれた矢の先には特製の煙玉が仕込まれており、赤龍の目の前で爆発。黒煙が龍の視界を完全に遮った。
「グォォォォ……ッ!?」
目を眩まされ、苛立ちに咆哮を上げる赤龍。
嵐のような乱戦の中で、ショウたちはわずかな、しかし確かな「勝機」の糸口を掴もうとしていた。
煙玉の黒煙が渦巻く中、赤龍の咆哮が苛立ちと共に響き渡る。視界を奪われた暴君に対し、六人の意識は今、この一瞬に完全に同調していた。
「ジルさんから教わった技……行くよ!!」
アリナが鋭い呼気と共に剣を正眼に構えた。彼女の周囲の空気が、キリキリと音を立てるほどの密度で収縮していく。
「――真空斬!!」
一閃。放たれたのは、眩い光を帯びた三日月型の斬撃。それは空気を切り裂き、音を置き去りにして黒煙の中へと吸い込まれていった。
(あ、あれは……アルクさんたちが使っていた技だ。アリナ、いつの間に……!)
ショウの驚きを裏付けるように、煙の向こう側から「ギャァァァァァァーーーーン!!!」という、これまでとは明らかに質の異なる、苦悶に満ちた絶叫が響き渡った。
「アリナ! ナイスだ!!」
ガルドが叫び、地を蹴った。煙が晴れ始め、そこには額の鱗を無残に叩き割られた赤龍の姿があった。真空斬が、鉄壁を誇った防護を抉り開けたのだ。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!」
ガルドが戦気を爆発させ、赤龍の眉間へと肉薄する。十字に交差させた双剣。そこには亡き仲間への想いと、リーダーとしての執念が宿っていた。
「ズバァァァァァァン!!!」
十文字の閃光が走り、剥き出しになった肉身を深く切り刻む。
「グオォォォッ!?」
巨体が大きく揺らぐ。赤龍は顔を押さえるようにして二本足で立ち上がり、体勢を崩した。その決定的な隙を、鉄壁の守護者が逃すはずもなかった。
「ふんぬぅぅぅっ!! 倒れろ!!」
ゴードンが巨大な盾を前面に押し出し、弾丸のような速度で突撃した。渾身のシールドバッシュ。数トンはある赤龍の巨躯が、ゴードンの剛腕によって「ゆらり」と傾く。
「……あと一息だよ!」
アエラが崖の上から、傷口へ向かって三本の矢を同時に放った。特製の爆弾矢が、ガルドの刻んだ十文字の傷跡の中で次々と炸裂する。
「ボコン! ボコン! ボゴォォォォン!!」
内部からの衝撃に、赤龍の脳震盪が限界に達した。
「押し倒す! ――ロックストーム!!」
エマが杖を高く掲げた。彼女の周囲を、螺旋を描いて宙を舞う無数の鋭い岩塊。それらが一斉に、断末魔の声を上げる赤龍へと降り注いだ。
「ドドドドドドドドォォォン!!!」
絶え間ない衝撃が赤龍を地面に釘付けにする。
「俺も……これで終わりにする! ――ブラストレイヴ!!」
ショウがグラウンド・エッジを全力で振り抜いた。大気を編み上げて作られた無数の鎌鼬が、真空の嵐となって吹き荒れる。
「ズババババババババァァァン!!!」
風の刃が赤龍の全身を、翼を、喉元を容赦なく切り刻んでいく。やがて、巨木が倒れるような凄まじい地響きと共に、紅蓮の暴君はその場に崩れ落ちた。
「……ゴドォォォォォン……」
舞い上がる土煙。
静寂。
(やったのか……?)
ショウが息を呑んで見守る中、前衛の三人が慎重に倒れた龍へと歩み寄った。ガルドが剣を引き、その瞳に静かな光を宿して振り返る。
「……討伐成功だ。俺たちの勝ちだ!!」
その宣言が響いた瞬間、戦場は歓喜の渦に包まれた。
「やったぁ!!」と叫び、アリナとゴードンが力強くハイタッチを交わす。ガルドとアエラも、冒険者らしく互いの腕をぶつけ合い、勝利の喜びを分かち合っていた。
「ふふん、わしの魔法もなかなかだっただろ? 褒めてもよいぞ!」
いつもの調子で胸を張るエマに、ショウは深い安堵と共に、心からの笑みを返した。
「ええ、流石です、エマ様」
激闘の末、静まり返った絶壁の窪地。
赤龍の巨躯が沈黙し、立ち上る土煙がゆっくりと風に流されていく。
「……信じられねえ。本当に、倒しちまったんだな」
ガルドが折れそうなほど震える拳を握り締め、感極まったように呟いた。亡き仲間の無念を晴らしたという実感が、彼の全身を貫いていた。アリナとゴードンは互いの無事を確認するように笑い合い、エマは勝ち誇った顔で杖を肩に担いでいる。
一行は勝利の余韻に浸りながら、奴が眠っていた巨大な「巣」へと足を踏み入れた。
そこには、龍が長い年月をかけて集めたのであろう品々が、無秩序に積み上げられていた。鈍く光る金のブレスレット、宝石が埋め込まれた指輪、あるいは犠牲となった大型の魔物の、白骨化した死体。
「色々あるな……。換金できそうなものは集めて、後で山分けしようぜ! これだけの宝があれば、しばらくは豪遊できるぞ!」
ガルドの明るい声に、一行の顔にようやく安堵の笑みが広がった。死線を越えた報酬としては、十分すぎるほどの輝きだった。
だが、ショウは巣の最奥、壁際に積み上げられた不自然なほど分厚い枯れ草の山に目を留めた。龍が宝を隠しているのか、あるいは――。
「……これは何でしょうか」
ショウが手を伸ばし、重なり合った乾燥した草を慎重にどかしていく。その下に隠されていた「それ」を覗き込んだ瞬間、ショウの喉が凍りついた。
「!???……な、んだ……これ」
草陰から姿を現したのは、岩のように大きく、表面に血管のような不気味な脈動が透けて見える、鈍く赤く光る二つの巨大な球体。
「みなさん……ここに、赤龍の……『卵』があります」
ショウの声は、自分でも驚くほど震えていた。その言葉を聞いた瞬間、場から熱狂が消え失せ、しんと冷たい静寂が降りた。
「卵……? 冗談だろ……」
アエラが顔を引きつらせる。
ショウの脳裏で、先ほどの戦いの光景が急速に繋がっていった。なぜ、あの赤龍は崖下から動こうとしなかったのか。なぜ、あれほどまでに必死に巣を守るような動きを見せていたのか。
「待ってください……卵があるということは...…」
ショウが言い終えるより先に、世界が変貌した。
燃えるような夕焼けに染まっていた窪地が、不自然なほど急速に暗転した。
雲が太陽を隠したのではない。頭上を覆い尽くさんばかりの「巨大な何か」が、光を完全に遮断したのだ。
「???????」
全員が、弾かれたように空を見上げた。
そこにいたのは、先ほど倒した個体よりも一回り大きく、より深く、どす黒いほどの真紅の鱗を持つ、もう一頭の赤龍だった。
夕闇を切り裂き、広げられた翼は崖の端から端まで届くほどに巨大だ。その金色の瞳には、冷酷な捕食者の本能だけでなく、変わり果てた姿のつがいと、その巣を荒らす「略奪者」たちへの、理性を越えた凄まじい憎悪が宿っていた。
「……嘘、だろ」
ガルドの手に握られた双剣が、初めて恐怖でカタカタと音を立てた。魔力も、体力も、そして切り札の技も。先ほどの戦いですべてを出し尽くした彼らにとって、それは死刑宣告にも等しい光景だった。
「ギャァァァァァァァァァァァァーーーーーーン!!!!!」
家族を殺され、子供を脅かされた親龍の、鼓膜を破らんばかりの怒りの咆哮が、絶望の序曲として世界を震わせた。




