95話 魔族の少女
術法が開始されてから、静寂の中で数分が過ぎた。
ショウとアリナは、固唾をのんでユーリの筆先を見守っていた。
キャンバスの上を、迷いのない筆致がサッサッサッサッ――と、風を切るような音を立てて走り抜けていく。そのあまりの集中力に、二人は声をかけることすらためらわれた。
「お……終わりました。ふぅーーーっ」
不意にユーリの筆が止まった。彼女は大きく肩を上下させ、魂が抜けたようにパレットを持ったまま椅子に座り込んだ。その直後である。
「グデーーン!!! つ、つかれたぞ……頭が……おかしくなりそうだ……」
エマが糸の切れた人形のように、床に崩れ落ちた。金色の魔眼は光を失い、小さな体は完全に力尽きている。魔眼の「視覚情報」を他者の脳内にこれほど長時間共有し続ける術法は、彼女の想像以上に精神力を削り取るものだったのだ。
「二人とも、お疲れ様!」
アリナが慌ててエマに駆け寄る横で、ショウは吸い寄せられるようにキャンバスの前へと歩み寄った。
「……!!! 間違いない。俺が前に、エリシオンでクレア教授に見せてもらった時のレンの顔、そのまんまだ……!」
ショウは戦慄を覚えた。キャンバスの中央に描かれた少年は、間違いなく彼の記憶にあるレンだった。少し癖のある髪、意志の強い瞳。ユーリは、エマの記憶の断片を、まるで写真のように正確に描き出していた。
「すごいですよ、ユーリさん!! これなら、レンのことを見つけられそうです!」
「お、お役に立てて、よかったです……!」
ユーリが椅子から転げ落ちそうになりながら、弱々しく笑った。
だが、ショウはふと疑問を抱いた。
(でも、ここはどこだ?)
ユーリが描き出したのは、レンの姿だけではない。背景には、彼を挟むようにして、二人の若い男女の姿が描かれていた。一人は、古びたローブを纏い、杖を手に何かを警戒するように周囲を見渡す、真剣な表情の若い女魔法使い。もう一人は、腰に数本のダガーを差し、背中には立派な弓を背負った、油断のない目つきの若い男。彼らが何者なのか、レンとどのような関係なのかは全く不明だが、三人で行動していることは明白だった。
そして、その街の遥か彼方、霧の向こうに、天空を突くかのようにそびえ立つ、巨大な塔のような建造物が描かれていた。アイアングローリーのどの建物よりも高く、異様な存在感を放っている。
「この人が探しているレンっていう人の顔か……。ここはどこだろうね、ショウ」
アリナがエマを抱き抱えながら、絵を覗き込む。
「うん……。とりあえず、このレンの顔と景色の絵を見せながら、今日から情報収集をしてみよう」
「ちょ……私は今日は休ませてくれ……。情報収集は、頼んだ……」
エマがアリナの腕の中で、完全に力尽きて目を閉じた。
「分かりました。ジラード様とジルさんは城へ行っていますし、私とアリナで行きましょう」
「そーね! がんばろ!」
アリナがエマを介抱しようとした、その時だった。
「わわわわ!! 私、今日配達のお仕事入ってるんだった!! すみません! 私出かけますね!」
感動の余韻をぶち壊すように、ユーリが唐突に声を上げ、慌ただしく部屋を飛び出していった。ドタバタと玄関へと駆けていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ショウは「あの子、一体いくつ仕事を掛け持ちしてるんだ……」と、呆れつつも感心せざるを得なかった。
ショウはユーリに描いてもらった絵を大切に持ち、アリナと共に、活気に満ちた市場やギルドへと向かうことにした。昨日までの闇雲な捜索とは違う。彼らの手には今、確かな手がかりが握られていた。
ショウとアリナは、ユーリが懸命な思いで描き上げた絵を手に、活気あふれる市場や、昼間から男たちの怒号が飛び交う酒場を巡り歩いた。
しかし、結果は芳しくなかった。出会う人々は皆、絵を覗き込んでは一様に首を横に振るばかりだった。
「ごめんね、こんな奴らは見たことがないな」
「この塔……? ガイスト大陸にゃ塔なんて腐るほどあるが、こんな形のは知らねえよ」
手がかりを掴めぬまま数時間が過ぎ、二人は疲れを癒やすように人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れた。石造りの古い壁に囲まれたその道を進んでいると、前方から不穏な声が聞こえてきた。
「きもいんだよ、お前!」
「臭いんだよ! あっちへ行けよ、バケモノ!」
「やっちまえ!」
ショウが眉をひそめる。
「なんだ? 揉め事か?」
角を曲がった先で目に飛び込んできたのは、人族の子供たちが数人で一人の小さな影を囲み、石や罵声を浴びせている光景だった。
「ちょっと君たち! そんな大勢で一人をいじめるなんて、カッコ悪いぞ!」
アリナがいち早く駆け出し、子供たちを叱りつける。ショウもその後に続くと、子供たちは大人の介入に驚き、「やべえ、逃げろ!」と蜘蛛の子を散らすように路地の奥へと消えていった。
残されたのは、ボロボロのローブを纏い、深くフードを被ったまま震えている小さな子供だった。ショウは膝をつき、目線を合わせて優しく声をかける。
「もう大丈夫だよ。怪我はない?」
「あ……ありがとうございます……」
小さな、鈴を転がすような声だった。その子がゆっくりとフードを外すと、ショウとアリナは思わず息を呑んだ。
柔らかな髪の間から、額に突き出た二本の小さな角。人の子供と変わらぬ幼い顔立ちながら、その特徴は明らかに人族のものではなかった。
(魔族……!)
ショウの脳裏に、かつてジラードが言った言葉が過った。
『人族の見た目に近い魔族ほど魔力が高く、危険な可能性がある。……気を許すなよ』
アリナが不安げな視線をショウに送り、小声で囁く。
「ショウ、この子……」
「ああ、魔族みたいだね」
ショウは努めて冷静に、少女に問いかけた。
「君は……魔族なのかな?」
「は、はい……」
少女は怯えたように肩をすくめた。
「ここで何をしていたの?」
アリナが尋ねると、少女は俯いたまま答えた。
「……パパとママを、待ってるの」
(家族? この人間が溢れるアイアングローリーに、魔族の家族が住んでいるのか?)
ショウが困惑していると、遠くから野太い声が響いた。
「おーい、ルシュ! どこにいるんだ!」
「あ……パパだ」
少女――ルシュが顔を上げ、振り返る。路地の向こうから走ってきたのは、質素な服を着た、どこにでもいる中年の人間の男だった。
(人間の父親……? 血が繋がっているようには見えないが……)
「助けてくれて、ありがと」
ルシュが小さく微笑み、ショウに向かって小さな手を差し出した。ショウもそれに応じ、彼女の小さな手を握り返す。
「お父さんが来てくれて良かったね、ルシュ」
その瞬間だった。
(!? ――キィーーーン!!)
脳を直接針で刺されたような、鋭く、不快な激痛がショウの頭の中を突き抜けた。視界が一瞬だけ白く染まり、耳の奥で嫌な耳鳴りが鳴り止まない。
「……ぐっ!」
ショウが顔を歪めたその時、目の前のルシュが、これまで見せていた怯えた子供の表情とは全く違う、底知れない笑みを浮かべていた。
「お兄さんとは、また会えそうだね……」
唇だけを動かして小さく囁くと、彼女はすぐに元の子供らしい顔に戻り、「パパー!」と声を上げながら人間の父親のもとへと走っていった。
男はルシュを抱き上げると、ショウたちに一度軽く釈釈し、雑踏の中へと消えていった。
「よかった、お父さんが迎えに来たみたいだね。でも、お父さんが人族って少し驚いちゃったな……。ガイスト大陸では普通のことなのかな?」
アリナが不思議そうに首を傾げ、ショウの顔を覗き込む。
「……ショウ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……ああ、大丈夫だよ。さ、情報収集を続けよう」
ショウは平静を装って歩き出したが、先ほどの激痛の残響が、いまだに脳の奥にへばりついて離れなかった。
あの痛みは何だったのか。そして、去り際のルシュの不気味な微笑み。ぬぐいきれない違和感がショウの胸をざわつかせ続けていた。




