91話 上陸
「……っ、う……」
混濁した意識の中で、微かに誰かの気配を感じた。
温かく、どこか甘い香り。
ショウがゆっくりと目を開けると、視界のすぐ先に、心配そうに顔を覗き込んでいるアリナの大きな瞳があった。
「……あ、ショウ……?」
「はっ……!!!」
目が合った瞬間、ショウは弾かれたように上体を起こした。
不意を突かれたアリナも体勢を崩し、二人の額が勢いよくぶつかる。
ドンッ!!!
「いったーーーい!!!!」
「うぐっ…………」
ショウは額を押さえながら悶絶した。
「もーっ! 急に起きないでよショウ! びっくりしたじゃない!」
「こ、こっちのセリフだよアリナ……。なんでそんな近くに……」
額を真っ赤にして涙目になっているアリナを見て、ショウは混乱しながらも、自分が生きていることを実感した。
体を起こし、改めて周囲を見渡す。
そこは、松明の火が壁を赤く照らす、ひんやりとした空気の漂う洞窟の一室だった。
壁一面に古い魔導書がぎっしりと並んだ棚があり、使い込まれた実験器具が整然と置かれている。
(……ここは? この雰囲気……以前、エリシオンから王都に戻る時に使った、あの地下の転移部屋と似ている……)
少し薄暗く、魔力の残滓が心地よく漂うその空間は、紛れもなくジラードが管理する「隠れ家」だった。
部屋の奥には、以前見たものよりもさらに複雑で巨大な転移魔法陣が床に刻まれ、静かに魔力を蓄えているのが見える。
「おっ! 額ぶつけ合って起きるとか、アンタたちらしいのう!」
聞き慣れたエマの叫び声に、ショウは我に返った。
部屋の隅で腕を組んでいたジラードが、可笑しそうに、しかしどこか鋭い眼差しでこちらを見ている。その隣には、いつもと変わらぬ無愛想な顔で壁に背を預けているジルの姿があった。
「……ショウ、自分がどうなったか覚えておるか?」
ジラードの問いに、ショウは額の痛みをこらえながら、必死に記憶を呼び起こした。
「ええと……転送魔法陣がある隠れ家に向かっていて……巨神の山が見えて……急に頭が割れるように痛くなって、それから……」
「しょおおおおおっ!!!」
ショウの言葉を遮るように、アリナが再び飛びついてきた。今度は額をぶつけないよう、しっかりと、抱きしめられる。
「……っ! アリナ!」
「バカ! 心配したんだよ!? 急に倒れちゃうし、顔色真っ青にして、すっごい苦しそうにうなされてたんだから……!!」
額の赤みも忘れて、ぎゅっと抱きしめられた腕の力に、彼女の恐怖が伝わってくる。アリナはショウの肩に顔を埋めたまま、声を震わせた。
ショウが戸惑いながら彼女の背をさすると、エマが呆れたように、しかし安堵を隠せない様子で口を開いた。
「まったくだ。急に糸が切れたみたいに倒れるんだぞ。そこからは大変だったんだからな。ジルがアンタを担いで、ここまで一気に運んでくれたんだ。」
「……ジルさんが?」
ショウが視線を向けると、ジルは短く「重かったぞ」とだけ返した。
「ここはジラード様の隠れ家。あの山の麓にある、秘密の転送拠点だよ。……ショウ、本当になんともないの? 」
アリナが顔を上げ、不安そうにショウの瞳を覗き込む。
ショウは、あの闇の中で響いた重厚な声と、脳裏に焼き付いた幾何学的な紋章を思い出した。
(『覚醒せよ』……あれは、一体……)
しかし、皆をこれ以上不安にさせたくないという思いが、とっさに言葉を飲み込ませた。
「……大丈夫だよ。今はもう、なんともない。運んでくれて、ありがとう。ジルさん」
ジラードは黙ってショウを見つめていた。その鋭い眼差しは、ショウが隠した「何か」をすべて見透かしているかのようだったが、師はあえてそれ以上は追及しなかった。
「……ふむ。目覚めたのなら、これ以上の休息は不要じゃな。準備は整っておるぞ」
ジラードが杖を振ると、部屋の奥に鎮座していた巨大な魔法陣が、脈動するように蒼白い光を放ち始めた。
蒼白い光を湛える魔法陣を囲むように、一同がその場に立った。
ジラードが杖を突き直し、表情を引き締める。
「ここからの流れを確認するぞ。……まずこの陣を使い、念願のガイスト大陸へ上陸する。転移先は、大陸でも有数の要塞都市『アイアングローリー』近郊の森の中にある小屋じゃ」
「アイアングローリー……鉄の栄光、か」
ショウがその名を繰り返すと、ジラードは重々しく頷いた。
「左様。巨大な重圧の壁に守られた、かつての対魔族戦における最大級の拠点じゃ。そこなら人も多く、お主が探すレンとやらの手がかりや、今の魔族の動向も掴めるはず。街での聞き込みと、エマの魔眼による探索。この二段構えで行くぞ」
皆が静かに頷く中、ジラードの視線がより鋭さを増した。
「それと……ジルは分かっておると思うが、ガイスト大陸には魔族がひしめき合っておる。友好的な者もいれば、ナレッジのように何を企んでおるか分からぬ輩も多い。……いいか、ショウ。肝に銘じておけ。向こうでは、ナレッジ級の魔族など『ザラ』にいるぞ」
「……っ!? あんな化け物が、当たり前のようにいるんですか……!?」
ショウの背筋に冷たい戦慄が走る。あの圧倒的な暴力と絶望が、この大陸では「日常」だというのか。
「特に、見た目が人に近い魔族には絶対に近づくでない。そ奴らは例外なく異常な魔力を秘めておる。『大魔族』の名を冠する者なら尚更じゃ。……遭遇したら、迷わず逃げろ。よいな?」
ショウ、エマ、アリナの三人は、言葉を失いながらも深く、静かに頷いた。
「では……起動するぞ。ガイスト大陸へ!」
ジラードが杖を振ると、魔法陣の光が爆発的に膨れ上がった。
キィィィィン……という耳を刺すような高音が洞窟に響き渡り、視界が真っ白な光に塗り潰されていく。身体が素粒子レベルで分解され、空間の狭間に放り出されるような、独特の浮遊感。
(……行くんだ。ガイスト大陸へ……!)
ショウは意識が遠のく中、強く、強く、グラウンドエッジの柄を握りしめた。
……ふっと、重力が戻ってきた。
「……っ、はぁ……」
不意に重力が戻り、肺に流れ込んできた空気は、レテ島のものとは明らかに違っていた。
重く、濃く、微かに焦げたような魔力の残滓が混じった、肌を刺す独特の感覚。
ショウがゆっくりと目を開けると、そこは薄暗い洞窟ではなかった。
木材の乾いた匂いと、長い間使われていなかった埃っぽさが漂う、小さな古い小屋の中だった。
「……ここが、ガイスト大陸……?」
床には、先ほどまでいた洞窟のものと対になる転移魔法陣が、役割を終えたように淡い光を失っていく。
ショウがふらつく足取りで小屋の窓辺に寄り、古びた扉を少しだけ押し開けると、隙間から差し込む光が視界を白く染めた。
小屋は森の中の少し開けた場所に建っており、周囲を赤茶けた土と見たこともない色の葉を茂らせる不気味な木々に囲まれている。そして、その木々の隙間から前方を見渡せば、その光景に息を呑んだ。
視界の先――。
地平線に、巨人の指のように天を突き刺す鉄の塔と、大地を分断するほどに巨大で無機質な「壁」がそびえ立っているのが見えた。
要塞都市、アイアングローリー。
森の静寂の中に佇むその鉄の要塞は、これから始まる旅の過酷さを象徴しているかのようだった。ショウは小屋の敷居をまたぎ、ガイスト大陸の赤茶けた土を強く踏みしめた。
「無事に転移成功したみたいじゃのう」
ジラードが小屋の埃を払うように杖を軽く振ると、背後で転移の残光が静かに消えていった。
彼は窓の外、木々の隙間から見える鉄の要塞を指差す。
「よし、予定通りここからでも見えるあのアイアングローリーを目指して行くぞ。この森を数時間歩けば着くはずじゃ。……行くぞ」
「はい!」
ショウ、エマ、アリナが力強く応える。
一行が古びた小屋の扉を開け、外へ踏み出すと、ガイスト大陸特有の重く湿った空気が全身を包み込んだ。
足元には、鉄分を含んだような赤茶けた土。
レテ島の明るい陽光とは対照的な、戦いの気配が色濃く漂う森の中――。
ショウたちは、地平線を圧するように聳え立つあの巨大な壁、要塞都市アイアングローリーを目指して、一歩一歩、未知の旅路を歩み始めた。




