90話 島の朝
「……終わったのう」
ジラードが静かに振り返り、杖をトントンと地面に突いた。その穏やかな声が響いた瞬間、張り詰めていた空気が一気に解け、エマとアリナの顔に安堵の笑顔が広がる。
「流石だな、ジラード」
ジルが刀の血を払い、鞘に収めながら呟く。
「あとは海賊の残党どもじゃな。島の兵士や冒険者も奮闘しておるようだが……。お主ら、まだいけるな?」
ジラードの問いに、ショウ、エマ、アリナの三人は力強く頷いた。
「はい!」
その時、瓦礫の影から一人の男が調子よく駆け寄ってきた。
「旦那ぁー! いやー、皆さん、すっげぇ戦いでしたね! 痺れましたよ!」
レイヴだ。彼はいつの間にか、変異が解けて力なく横たわるバロスとティーチの元へ歩み寄っていた。怪物の姿から一転、ただのボロボロの人間に戻った二人の頭に、レイヴはそっと手を添える。
「レイヴさん、何をしてるんですか?」
ショウが不思議そうに尋ねると、レイヴはニヤリと笑い、指先から細い魔力の糸を二人のこめかみへと伸ばした。
「へへ、俺はね、意識を失ってる奴の記憶を覗ける魔法が使えるんすよ。この『記憶の剥離』が、情報屋としての俺の生命線ってわけっす」
「ほう……。器用な真似をする奴じゃ」
ジラードが感心したように見守る中、レイヴの瞳が妖しく光る。
「これで『奇跡の液体』の出どころが掴めるかもしれねぇ……。ん、んん? これじゃねぇな……。お、これか!? ……な、なんだ……こいつ……。なんて悍ましい姿だ……」
レイヴの顔から余裕が消え、蒼白になっていく。彼の脳裏には、複数の生物の臓腑を繋ぎ合わせ、粘液に塗れた巨大な培養槽の中で蠢く「何か」のビジョンが映し出されていた。
「……『混血のベサリズ』じゃろうな」
ジラードが重々しく口を開く。
「さっき、ナレッジが言っていましたね。ベサリズって……」
「ベサリズは大魔族の一人。その液体は、おそらく奴が進めている禁忌の実験の副産物じゃろう。ナレッジであれほどの力を持っておったのなら、その主であるベサリズの底は知れん」
(ナレッジ以上の化け物が、まだ背後にいるのか……)
ショウは、世界の深淵を覗き込んだような寒気を感じた。
「……ま、今は考えるより動くことじゃ。まずは街の残党を掃除してこい。ほれ」
ジラードが杖を振ると、柔らかな黄金色の光がショウたち三人を包み込んだ。
「……っ!?」
細胞の一つ一つが活性化し、激痛も疲労も、嘘のように消えていく。内側から熱い魔力が、これまで以上にみなぎってくるのが分かった。
「行ってきます!」
回復したショウたちは、夜の街へと駆け出した。その背中を見送りながら、ジラードは険しい表情で、ナレッジが消えた場所をいつまでも見つめていた。
東の空が白み始め、激闘の余波が残るレテ島の街に冷たい朝霧が立ち込めていた。
一通り残党を制圧し、縛り上げた海賊たちを島の兵士に引き渡したショウたちは、ようやく深く長い息を吐き出した。街の被害は決して小さくはなかったが、最悪の事態――島そのものの壊滅や住民の大量虐殺――は免れたのだ。
「……まずは、ひと段落ですね」
ショウが杖を杖代わりにして、疲労の滲む声で言った。
「ふん、海賊どもめ。死に物狂いだったが、我らの敵ではなかったな!」
エマが強がってみせるが、その肩は激しく上下している。
「流石に……もう一歩も動けないくらい疲れたよ……」
アリナも力なく笑い、ジルの背中に隠れるようにして歩く。
「あとは島の連中に任せればよかろう。我らの役目は果たしたわい」
ジラードが穏やかに微笑むと、ジルが隣で歩調を合わせながら問いかけた。
「ジラード、例の『ガイスト大陸』への転送魔法陣の準備はどうだ?」
「おお、そうであった。無事に調整は終わったぞ。いつでも飛べるわい」
「本当か! 案外早かったな!」
エマが目を輝かせ、アリナも「ヴィヌスラリーの賞金もあるし、旅路の蓄えはバッチリだね」と、久々に明るい声を上げた。
「ほう、お主ら、あの大会で優勝したのか? はっはっは、やるのう!」
ジラードの豪快な笑い声に、ショウも少しだけ誇らしい気持ちになり、安堵の表情を浮かべる。
「……では、出発できますか?」
「ああ、いけるぞ」
ショウは心からホッとした。
「なら、あとは兵士たちに任せて宿に戻りましょう。もう、くたくたです……」
「そうじゃのう。これ以上派手に目立っても、島から消えるときに怪しまれるからの。船も使わずに有力な優勝者たちが忽然と姿を消したとなれば、あらぬ疑いをかけられかねん」
ジラードの言葉に、ショウはハッとした。確かに、優勝して有名人になった今、自分たちが「どう消えるか」は慎重にならなければならない。魔法陣の存在は、決して他人に知られてはならない極秘事項なのだ。
一行が重い足取りで宿への道を進み始めた、その時だった。
「旦那たちーー!!」
背後から、聞き慣れた軽薄な声が響く。振り返ると、レイヴがひらひらと手を振りながら駆け寄ってきた。
「戻るんすか? 宿までお見送りしましょうか?」
「いえ……流石に疲れましたし、自分たちだけで大丈夫ですよ」
ショウが苦笑いして断ると、レイヴは一瞬だけ表情を緩め、殊勝な顔で頭を下げた。
「そうですか……。旦那たちには、船の時から色々助けられました。感謝してるっすよ!」
そして、レイヴはすれ違いざま、ショウの耳元に顔を寄せた。
その声は、これまでの軽薄さが嘘のように低く、鋭かった。
「……ガイスト大陸へ行くなら、気をつけてくだせぇ。魔族たちが、かなり不穏な動きをしてるみたいっすからね……」
「……えっ?」
ショウが驚き、問い返そうとした時には、レイヴはもう数歩先で陽気に手を振っていた。
「じゃ! 気をつけて!」
「待って、レイヴさ――」
ショウが呼び止める間もなく、レイヴは夜の街の影に溶け込むようにして、忽然と姿を消した。
(……おかしい。あいつに『ガイスト大陸』へ行くなんて、一言も言ってないはずだ……!)
ショウは慌てて辺りを見回したが、そこにはもう、静まり返った街路があるだけだった。
振り向いたショウの背筋に、冷たい汗が流れる。
あの男は何者なのか。そして、なぜ自分たちの目的地を、教えもしない情報を握っているのか。
「……ショウ、どうした?」
ジルの声に我に返り、ショウは首を振った。
「……いえ、なんでもありません。行きましょう」
口ではそう答えたが、ショウの胸の中には、レイヴが遺した不気味な警告が、澱のように深く沈み込んでいた。
昨夜の喧騒が嘘のように、宿の主人は涙を浮かべてショウたちを迎えてくれた。
「ああ、無事だったか……! 本当に、本当によかった……」
主人の安堵した顔を見て、ショウもようやく心の底から「生き残った」ことを実感した。
部屋に戻ると、糸が切れたように意識が遠のいた。泥のように重く、深い眠り。ジラードの回復魔法で傷は癒えていても、精神的な摩耗までは拭いきれなかったのだ。
次に目を覚ました時、視界には柔らかな黄金色の陽光が差し込んでいた。
窓からは潮の香りを孕んだ海風が入り込み、カーテンを静かに揺らしている。
「……寝すぎたな」
昨夜の血生臭い戦いも、ナレッジの不気味な予言も、すべてが遠い夢の中の出来事のように思えるほど、穏やかな朝だった。ショウは重い体を起こし、身なりを整えて部屋を出た。
「あ! ショウ、おはよ! ぐっすりだったみたいだね」
廊下では、すでに旅の支度を終えたアリナが待っていた。その顔にはいつもの活気が戻っている。
「……おはよう、アリナ。みんなは?」
「エマなら、さっき起こしにいってきたよ。ベッドから落ちたまま爆睡してたから、起こすの大変だったんだから!」
アリナは可笑しそうに笑いながら、エマの寝相の悪さを語る。その日常的な光景に、ショウの心も少しだけ軽くなった。
「ジラード様とジルさんは、もう準備を終えてるって。予定通り、今日出発するよ。ガイスト大陸へ向かう魔法陣を使うから、もう目立ったことはするなって釘を刺されちゃった」
「……わかった。僕もすぐに準備するよ」
数時間後。正午を回り、太陽が天頂を過ぎた頃。
一行は目立たないように宿を後にした。
目指すのは、レテ島の中心部にそびえる険しい山の麓。そこにはジラードが密かに管理している隠れ家があり、大陸へと繋がる転送魔法陣が刻まれているという。
「ふわぁ……。まだ眠いぞ……。誰だ、こんな時間に歩こうなんて言ったのは……」
エマが杖を杖代わりにして、ふらふらと夢遊病者のように歩いている。
「エマ、しっかりしてよ。もう街を抜けるんだから」
アリナが呆れながらその背中を押し、一行は賑やかな港町を離れていった。
石畳の道はやがて土の匂いが漂う獣道へと変わり、周囲を深い森林が包み込んでいく。
木漏れ日が揺れる静かな森。鳥のさえずりと、自分たちの足音だけが響く中、ショウはふと、去り際にレイヴが囁いた言葉を思い出していた。
(魔族が不穏な動きをしている……)
これから向かうのは、未知の地、ガイスト大陸。
そこには、自分たちがまだ知らない世界の真実と、さらなる深淵が待ち構えている。
「……よし」
ショウはグラウンドエッジの感触を確かめ、一歩一歩、確かな足取りで森の奥へと進んでいった。
木漏れ日が揺れる静かな森を抜け、視界が開けたその時だった。
目の前に、天を突くほどに巨大な山容が姿を現した。
(……そうだ。レイヴさんが言ってたな。あの山は、伝説の巨神が姿を変えたもの……「巨神グラン・アトラスの眠り山」だって……)
ショウは足を止め、その威容を仰ぎ見た。
ただの岩塊とは思えない、圧倒的な生命の圧力を感じる。山全体が、まるで巨大な肺胞のようにゆっくりと鼓動しているのではないか——そう錯覚した、次の瞬間。
ズギィィィィィィンッ……!!!
「っ……あ、がぁっ!?」
突如、頭蓋の内側を鋭い楔で打ち抜かれたような激痛がショウを襲った。
あまりの衝撃に膝から崩れ落ち、地面を強く掴む。視界が激しく明滅し、色彩が混濁していく。
「ショウ!? ちょっと、どうしたの!?」
「ショウ! しっかりして!」
アリナとエマが駆け寄り、何かを必死に叫んでいる。しかし、その声は厚い水壁に遮られたかのように遠く、霧の彼方へと消えていく。
(なんだ……これ……。意識が、吸い出される……)
感覚が麻痺し、上下左右の概念すら失われていく闇の中で。
物理的な「音」ではない、魂の芯を直接震わせるような重厚な声が響き渡った。
『……時が……満ち……ようとして……いる……』
脳裏に、見たこともない幾何学的な紋章が青白く浮かび上がる。
それは文字ですらなく、原初の魔力そのものが形を成したような光の羅列。
『……Ξ ψ Φ ……覚醒せよ…… Γ ρ ……』
(何を……言っているんだ……。誰なんだ……お前は……)
抗う術もなく、ショウの意識は深い、深い深淵へと沈んでいく。
アリナたちが伸ばした手の感覚さえも消え、ショウの身体は糸の切れた人形のように、湿った土の上へと倒れ伏した。




