89話 ジラードVSナレッジ
町を焼き尽くしていた火災の音が遠のくほどの、圧倒的な静寂。その中心で、二人の怪物が対峙していた。
ジラードは視線を逸らさぬまま、背後にいるショウたちに鋭い声を飛ばす。
「ジル……。そやつらを頼む」
「ああ、分かっている」
ジルは短く答え、即座にショウ、アリナ、エマの前に立ちはだかった。彼ほどの剣士が、あえて一歩引いて「守り」に徹する。それが、これから始まる激突が「巻き込まれれば即死」の領域であることを物語っていた。
先に動いたのはナレッジだった。その口から漏れ出たのは、人間の言語体系を逸脱した、おぞましい響きの詠唱。
「アルマ・フルーズ……!!」
刹那、ナレッジの背後の空間が歪み、そこから数万トンという質量の「濁流」が噴出した。それは魔法というより、海そのものを物理的に叩きつけるような暴力。広場を丸ごと飲み込まんとする洪水の壁が、ジラードに牙を剥く。
だが、ジラードは微動だにしない。
呪文を唱える仕草も、魔力を練る予備動作(初動)すらも皆無。
ドォォォォォンッ!!!
ジラードが思考した次の瞬間には、地面から巨大な岩の壁が突き立っていた。
荒れ狂う洪水が岩壁に激突し、凄まじい轟音と共に左右へ引き裂かれる。ショウたちの足元まで水飛沫が飛んでくるが、ジラードの背後にいる限り、その圧力は完全に遮断されていた。
(……なんだ? 今の魔法。僕たちが使っているのとは、根本的に『雰囲気』が違う……!)
ショウは戦慄した。
通常、魔法使の魔法を放つ際は、呼吸や魔力の循環といった「予備動作」がわずかに観測できる。しかし、ジラードとナレッジのそれは、意志がそのまま現象へと直結している。
ナレッジの攻撃は止まらない。彼はさらに高く角を掲げ、空を指差した。
「ラグナ・ロク・フォス!!!」
夜空が、一瞬で血のような赤に染まった。
雲を突き破り、数え切れないほどの巨大な業火の礫が、彗星のごとく降り注ぐ。一つ一つが民家を容易に消し飛ばす威力を秘めた、文字通りの「終末の雨」だ。
(……っ! あいつ、水魔法だけじゃないのか!? )
ショウが驚愕に目を見開いた。
「……やれやれ。テスタ・アクアリス」
ジラードが静かに呟くと、彼を中心に蒼く透き通った水の半球膜が展開された。
空からの業火が、その膜に次々と着弾する。
ドドドドドーンッ!! ズババババッ!!!
激突の衝撃で大気が悲鳴を上げ、周囲は爆発的な蒸気に包まれる。視界が真っ白に染まるほどの熱気が渦巻く中、ジラードの張った水の守りだけは、微動だにせずその場に定着していた。
霧の中に立つジラードの後ろ姿を見つめ、ショウの疑問は確信に変わる。
自分やエマが使う魔法は、自然界の理に沿って魔力を「変換」している感覚だ。
しかし、ナレッジの魔法、そしてそれを防ぐジラードの魔法は、もっとドロリとした、根源的で禍々しいなにかを感じさせる。
それは、先ほどナレッジが自称した**「魔族」の魔力**に、あまりにも似通っていた。
「ふぅ……。なーんじゃ、乱暴なやつじゃのう」
蒸気が晴れ、そこには髪を一本も乱していないジラードが立っていた。
彼は肩をすくめ、退屈そうに耳を掻く。
「大魔族の配下というから期待したが、少しばかり行儀が悪いだけかの?」
その軽妙な、しかし底知れぬ圧力を秘めた言葉が、ナレッジの顔から余裕の笑みを剥ぎ取っていく。
「……流石ですね。ですが、今のはほんの挨拶代わりですよ。ジラード殿」
戦場はさらなる高密度の魔力に支配されていく。ショウは、師匠であるジラードの「本当の姿」が、今まさに暴かれようとしている予感に、武者震いを禁じ得なかった。
「ここからが本番ですよ……!」
ナレッジが低く呟くと、彼の周囲の魔力が爆発的に膨れ上がった。その変質した魔力は、もはや「水」の属性に留まらない。
「エトラ・ゴス……!!」
ナレッジが地を蹴ると同時に、ジラードの足元から巨大な火柱が激しく噴き上がった。
ゴォォォォォォオオッ!!!!!!
それは通常の炎ではない。酸素を奪い、空間そのものを焼き尽くすまで決して消えない、呪いの火。猛烈な熱風が広場を襲い、離れた場所にいるショウたちでさえ肌が焼けるような錯覚。
シューーー……。
火柱の勢いが衰えるよりも早く、そこにあったはずのジラードの気配が霧のように霧散した。
「……!?」
ナレッジが咄嗟に上空を仰ぐ。そこには、火柱を嘲笑うかのように宙に静止するジラードの姿があった。
「なーんじゃ、随分と熱い歓迎じゃのう。……お返しじゃ」
ジラードが空中で杖を軽く振る。
「グローブルス・アルデンス!!!」
瞬時に、ジラードの周囲に無数の「高密度の火球」が生成された。それは一つ一つが太陽の欠片のように輝き、ナレッジへと一斉に降り注ぐ。
ドドドドドーンッ!!!
「くっ……!」
ナレッジは紙一重の速さで後方へ飛び、着弾の衝撃を回避する。地面が次々と爆ぜ、広場はクレーターだらけに変貌していく。
「やりますね……魔法の深度も、発動のスピードも段違いだ……!」
ナレッジが着地し、再びジラードを視界に捉えようとした瞬間――またしても、ジラードの姿が消えた。
「!? ……どこだ、また後ろに……っ!?」
「……これでしまいじゃ」
ナレッジの真後ろ。
いつの間にか背後に音もなく降り立っていたジラードが、杖を真っ直ぐに突き出していた。
杖の先端には、目を焼くほどに純白で、あまりにも高密度な「炎」が収束している。
「ルクス・ペルディティオーニ……!!!」
ジュビィィィィィィンッ!!!!!!
放たれたのは、爆発ではない。
空間を、物質を、そして因果すらも貫通する「極太の一筋の光線」。
それはナレッジの体を一瞬で貫き、背後の廃墟を易々と消し飛ばし、さらにその先――レテ島の彼方の海まで到達した。
ドォォォォォンッ!!!
はるか遠くの海面が光線によって真っ二つに割れ、巨大な波が立つのがショウたちの位置からも確認できた。
「……あ、あぁ……っ」
あまりの熱量と衝撃波に、ショウたちは腕で顔を覆い、吹き飛ばされないよう必死に地を這う。大気はイオン化し、焦げ付いたオゾンの臭いが鼻を突く。
静寂が訪れた。
風と共に、立ち上る白煙がゆっくりと流れていく。
そこに立っていたのは、右半身が完全に消失し、断面がボロボロと灰になって崩れ落ちていくナレッジの姿だった。
「……カハッ……あ、あぁ……」
服も、肉も、骨も。
ジラードの放った光の断罪によって、ナレッジの右半身は再生の暇さえ与えられず、ただの灰へと焼き尽くされていた。
「……流石ですね、ジラード殿。ここまで、歯が立たないとは……」
右半身を失い、断面からパラパラと黒い灰を零しながら、ナレッジは低く笑った。その声には、死にゆく者の悲壮感などは微塵もなく、むしろ自らの負けを「良質なデータ」として受け入れているような、冷徹な悦びが混じっていた。
「私の実験は……まずまずの結果でしたよ。……クク、クハハッ……」
ナレッジの身体は、足元から徐々に形を失い、夜風にさらわれて消えていく。再生の魔力はもはや働かず、崩壊の速度は増すばかりだ。
「……近いうちに、人間と魔族の……大きな戦争が、また起こるでしょう。……それを特等席で見られないのが、少しばかり残念ですが……まあ、いいでしょう。」
「お主ら……一体何を企んでおる!?」
ジラードが鋭く問い返し、一歩詰め寄る。
普段の温厚な顔はそこになかった。世界を揺るがしかねない不穏な言葉に、ジラードの眉間には深い皺が刻まれている。
しかし、ナレッジはただ、歪んだ笑みを深くするだけだった。
「……何かが現れ……そして、世界はズレた……」
その言葉を最後に、ナレッジの顔は粉々に砕け、黒い砂となって霧散した。
空間を支配していた悍ましい魔圧が嘘のように消え、後には冷たい夜風の音と、焼け焦げた大地の臭いだけが残された。
「何かが現れ、世界はズレた……だと?」
ジラードはナレッジが消えた場所を見つめ、低く呟いた。その拳は白くなるほど強く握り締められている。
ショウ、アリナ、エマの三人は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
海賊を倒し、怪物を退け、確かに勝利したはずだった。
しかし、ナレッジが遺した言葉の重みが、勝利の達成感など一瞬で塗り潰してしまう。
「世界が……ズレた……?」
ショウが繰り返したその言葉は、空虚な夜の闇に吸い込まれていった。
何が終わったのか、そして何が始まろうとしているのか。
静寂に包まれたレテ島の広場で、ショウたちは自分たちが、取り返しのつかない巨大な歯車の一部になってしまったような、底知れぬ恐怖を感じていた。




