85話 霧の中
ショウは崩れゆくロックウォールの残骸を背に、迫り来る気配の中で、たった一つの、しかし確実な「勝利への道筋」を脳裏に描き、覚悟を決めた。
(……やるしかない。俺一人の力で、ジルさんを……エマさんたちが霧を晴らすまでの、時間を稼ぐんだ!!)
ショウはグラウンドエッジを握る右手に力を込め、同時に、フリーの左手に魔力を注ぎ込み始めた。
その左手は、霧の冷たさを撥ね退けるほどの熱を帯び、手のひらの中で凝縮された魔力が、微かに、しかし力強く蒼く発光し始めた。ショウはその左手を、後ろへ回してナレッジの視線から隠し、岩の壁から勢いよく飛び出した。
「叩き切れ、ブラストレイヴ!!」
ショウがグラウンドエッジを振り抜くと、鎌鼬のような風の刃が、霧を切り裂きながら広範囲に放たれた。
ズバーーーンッ!!!!
凄まじい風圧で、ナレッジの周囲の霧が一瞬だけ晴れる。
(……風で、霧が少し晴れた……!)
ショウが微かな希望を見出したのも束の間、ナレッジの冷ややかな声が響く。
「無駄ですよ、坊や」
晴れた霧は、ナレッジの手によって瞬く間に元通りになり、ショウの視界を再び奪った。
「ウォーターウィップ!!」
霧の中から、鋭利な水の鞭が生き物のように襲いかかる。
「くっ……!!」
避ける間も無く、鞭がショウの足を払う。
ドサッ――
砂浜に倒れ込むショウ。しかしすぐに起き上がり、走り出した。走りながら、次々と魔法を唱える。
「ファイヤーアロー!!」
無数の炎の矢が、霧の中へ、方向も定めず放たれる。
ドドドドドーンッ!!
炎の矢は霧の中で無闇に爆発し、ナレッジにはかすりもしない。
「ヤケクソですか? 滑稽ですねぇ」
ナレッジの嘲笑と共に、再び「ウォーターバレット(水の銃弾)」が飛来する。
「ウォーターウォール!!」
ショウは水の壁を作り、水の銃弾と相殺させながら、さらに霧の中を走り続ける。
「ひゃっひゃっひゃー!! これは愉快、実に愉快だ!!」
ナレッジの慢心が、霧の中に響き渡る。
「ヤケクソで逃げ回って、私に魔法が当たるのを待っているのですか? 無駄ですよ! あなたの魔法など、当たりはしません!」
ナレッジはショウを完全に見見下し、獲物をいたぶるような笑い声を上げた。
「もう少し、痛みつけてあげましょう。ひゃっひゃー!!」
「燃え上がれ、バーンフレア!!」
ショウは足を止めず、周囲一帯へ、無数の巨大な火球を放った。
ドンドンドーーーンッ!!!!
砂浜が爆炎でオレンジ色に染まる。しかし、その爆炎の中にも、ナレッジの姿はない。
「……滑稽ですねぇ、実に滑稽だ……んん??」
ナレッジの笑い声が、不意に途切れた。
爆炎の中、ショウが走り回る中で、彼の背後に隠されていた左手が、かつてないほど激しく、そして蒼く、燃え上がっていることに気づいたからだ。
「……いつの間に?? なんとおぞましい魔力だ……その青い光は、一体……」
「お前にバレないように、魔力を溜めていたんですよ!」
ショウは走りながら、ナレッジに向かって叫んだ。
「ふん! 何をする気か知りませんが、私に当たらなくては意味がないですよ!」
ナレッジは依然として余裕を崩さない。姿を見せない自分に、ショウの魔法は届かないと確信しているからだ。
「……誰がお前を狙ってるって言った?」
ショウは走りながら、不意に方向転換し、蒼く燃え盛る左手を前へ突き出した。その指先が向けられた先は――ナレッジではない。
「焼き尽くせ……アズールフレア!!!」
ショウの左手から、凝縮された蒼炎の火球が、爆音と共に撃ち出された。
その蒼き流星は、ナレッジを通り越し、霧の奥、未だにジルを閉じ込めている「水の檻」へと、一直線に突き進んでいった。
ドォォォォォンッ!!!!!!
蒼炎の火球が水の檻に直撃した。
シューーーー
凄まじい蒸気が発生し、辺り一帯が真っ白な煙に包まれる。水の檻はアズールフレアの超高温によって、瞬時に蒸発したのだ。
「き、貴様ッ!! 最初からヤケクソに魔法を放っていると思わせて……ずっと左手で、その魔法を放つために魔力を溜めていたのか……!!」
ナレッジの余裕は霧散し、屈辱と恐怖に満ちた叫びが響き渡った。彼がショウの「ヤケクソ」をあざ笑っていた時間は、ショウにとっては、この一撃を完成させるための「囮」の時間に過ぎなかったのだ。
その時、島を重苦しく包み込んでいた白い帳が、中心から大きな渦を巻くようにして、急速に薄れていった。
(……霧が、晴れていく。エマさんがやってくれたんだ……!)
ショウは確信した。避難を終えたエマが、その強大な魔力でナレッジの結界を打ち破ったのだと。月明かりが再び砂浜を照らし出し、隠れていたナレッジのひょろりと長い影が、露わになっていく。
「き、霧が……。まずいですね、これでは私の『優位』が……」
ナレッジの顔が初めて焦りに歪んだ。姿を消し、一方的に攻撃する手段を失った魔法使いは、もはや裸の王様も同然だった。
真っ白な蒸気と消えゆく霧の中から、静かに、しかし圧倒的な殺気を纏って、一人の男が現れた。
「……ショウ、よくやった」
ジルは愛刀を抜き放ち、静かに告げた。その瞳は、獲物を逃さない冷徹な死神の輝きを宿している。
「し、しまったッ――!!」
ナレッジが杖を掲げようとした瞬間、ジルが動いた。音速を超え、視認することすら不可能な速さ。「銀閃」が、夜の空気と、ナレッジの慢心を、一瞬で切り裂いた。
ズバーーーンッ!!!!!
ナレッジの体から、魔力の源である霧が噴き出した。
「がはっ……!?」
彼が悲鳴を上げる間もなく、その胸元には、腰から肩にかけて完璧な一筋の斬撃が刻まれていた。
ボタボタボタ……。
切り裂かれたナレッジの体から、鮮血が夜の砂浜に滴り落ちる。絶命してもおかしくない一撃。しかし、彼はその青白い顔に、歪んだ笑みを浮かべたままだった。
「クックック……やりますね……さすがは……クリムゾンビアードたちを退けただけのことはある……」
口の端から溢れる血を拭いもせず、ナレッジの瞳が怪しく光る。
「ですが……私の役目は果たせました。……また会いましょう……」
その言葉を最後に、彼の体は再び実体を失い、血の混じった不気味な霧となって夜風の中に消えていった。
「逃げたか……」
ジルが刀を鞘に納め、肩で息をするショウのもとへ歩み寄った。
「ショウ、大丈夫か?」
「はあ、はあ……なんとか」
「よくやったな。魔法の戦いは、魔力の密度が高い方が勝つ。お前の放ったあの一撃……あれがなければ、俺はまだあの檻の中だった」
ジルの言葉に、ショウは自分の震える左手を見つめた。
「……ジラード様との修行の成果、ですね。少しは……役に立てたみたいです」
その直後だった。
ドォォォォォンッ!!!!!!
大地を揺らす凄まじい爆音。二人が反射的に海の方を向くと、そこには絶望的な光景が広がっていた。
霧が完全に晴れた海岸線。そこには一隻や二隻ではない、複数の巨船がすでに接岸していた。船からは無数の小舟が吐き出され、武装した海賊たちが、叫び声を上げながら港町の方へと雪崩れ込んでいくのが見える。
町からはすでに火の手が上がり、夜空を赤く染め始めていた。
「ガタガタ……」
地面が揺れているのは、砲撃のせいだけではない。こちらに向かってくる数人の海賊たちの足音だ。ナレッジという「壁」が消えたことで、本隊の魔手が直接ショウたちに伸びようとしていた。
「ショウ、行けるか?」
ジルの鋭い視線がショウを射抜く。
「もちろんです……! 島の人たちを救いましょう。それに、エマさんやアリナたちとも合流しないと……。ジラード様は、どうすれば……」
「ジラードなら大丈夫だろう。あの老いぼれが、この程度の連中に後れを取るとは思えん。まずは、エマたちだ」
「……はい!」
二人は同時に砂を蹴った。
背後に広がる静かな海とは対照的に、戦火に包まれ始めた町の方へと、二人の影は加速していった。




