80話 バカンスの島
「碧海の咆哮」号の甲板は、勝利の熱狂と極上の酒の香りに包まれていた。
奪い取った……いや、正当に回収した戦利品の酒樽が次々と開けられ、冒険者も船員も入り乱れての乾杯が繰り返されている。
「がっはっは! 見たか、あのリヴァイアサン! 伝説の魔女の力、思い知ったか!」
エマはすでに上機嫌で、海賊帽を斜めに被り直し、身振り手振りを交えて「武勇伝」を語り聞かせていた。相手の船を木っ端微塵にした瞬間の描写は、話すたびに尾ひれがついて巨大な神話のようになっている。
その傍らでは、ジラードが文字通り「浴びるように」酒を飲み干していた。
「ぷはぁっ! 染みるわい……。これぞ海の男の味、これぞ勝利の美酒じゃ!」
老賢者の威厳などどこへやら、空になった樽を次々と積み上げ、真っ赤な顔で笑い転げている。
「あはは、ショウ! 飲んでる? もー、最高だね!」
アリナもまた、普段の控えめな様子からは想像もつかないほど「良い酔い方」をしていた。……いや、良すぎるのが問題だった。
「あー、なんか暑くない? ねぇ、ちょっと脱いでもいいかな?」
「ダメです! アリナ、落ち着いて! 装備を解かないで!」
ショウは必死に彼女の腕を抑え、マントを羽織らせる。少し目を離すとすぐに防具のベルトに手をかけるアリナを制止するのは、海賊との戦いよりも神経を磨り減らす重労働だった。
そんな喧騒のなかで、ジルだけは静かに、しかし確実に杯を重ねていた。背筋を伸ばし、月光に照らされた褐色の肌を美しく光らせながら、独り静かに酒の味を噛み締めている。その姿だけが、この狂乱のなかで唯一の清涼剤のようだった。
翌朝。水平線から昇る朝日が、船室の小さな窓から差し込み、ショウの顔を照らした。
「ん……?」
ショウは微かな気配に、意識の底から浮上した。
誰かが、部屋から出ていくような音がした気がした。
それと同時に、自分の額のあたりに、誰かの指先が触れていたような……熱を持った記憶を、静かにかき回されたような妙な感触が残っている。
(……また、エマさんの悪戯か?)
昨夜の宴の騒がしさを考えれば、誰かが部屋を間違えたか、酔っ払って冷やかしに来たとしても不思議ではない。ショウは重い頭を振り、ベッドから身を起こした。
部屋を出て、潮風が吹き抜ける廊下を歩いていると、前からアリナがやってきた。
「おはよう、ショウ!」
「おはよう、アリナ。……昨日は、大丈夫だった?」
「え? ……あはは、また私、やっちゃった?」
アリナは頬を赤らめ、恥ずかしそうに笑う。どうやら昨夜の「脱衣未遂」の記憶は、酒の彼方に消えているらしい。
「今日も、これからジルさんと修行なんだ。私、本当に嬉しいんだよ。こうやって広い世界を冒険して、だんだん強くなっていくのが。これも全部、ショウのおかげだね」
「俺は何もしてませんよ。アリナが頑張ったからです」
「そんなことないよ! ショウのサクラソウでお世話になって、そこから色んな出会いがあって、今があるんだもん。さあ、今日も頑張ろうね!」
アリナが元気に駆けていくのと入れ替わりに、廊下の奥から「のしのし」と、死神のような足取りで近づいてくる人影があった。
エマだ。
昨夜の勢いはどこへやら、二日酔いと船酔いのダブルパンチを受け、顔は土気色を通り越して青白くなっている。
「…………おはよう、アリナ、ショウよぉ…………死ぬ、わしはもう死ぬぞ……」
「あれ、エマさん。船酔いの魔法は切れちゃったんですか?」
「……そうなんだよ……。さっきジラードに『かけてくれ』って頼みに行ったんじゃが、『お前はまたやらかすから少しそのまま反省してろ』って言われて……ううっ……」
エマが情けなくべそをかき始める。大海賊魔女の面影は微塵もなく、ただの自業自得な酔っ払いの姿がそこにあった。
「あはは! ジラード様も厳しいですね」
「修行だと思って耐えてください、エマさん」
アリナとショウが顔を見合わせて笑う。
二人がそれぞれの目的地へ向かって歩き出した。
修行の日々は、打ち寄せる波の音と共に過ぎ去っていった。
朝から晩まで、ショウはジラードの厳しい指導の下、魔力の練り込みと放出を繰り返した。教わった中級魔法を一つずつ、まるで体に馴染ませるようにマスターしていく。一方のアリナも、ジルの冷徹かつ的確な剣技指導に必死に食らいつき、その盾捌きと剣筋には以前とは比べものにならないほどの鋭さと「迷いのなさ」が宿り始めていた。
それから数日が経った、ある日の午後。
水平線の彼方、いつまでも変わらないように見えていた蒼い海と空の境界線に、変化が訪れた。
「おーーい!!! 野郎共、前を見ろ!! レテ島が見えてきたぞ!!!」
船長の野太い咆哮が、シーロア号の隅々にまで響き渡った。その声に弾かれたように、訓練を中断したショウとアリナが船首へと駆け寄る。
「わあーー!!! 本当だ!! 見て、ショウ! 島だよ!」
アリナが身を乗り出し、輝く瞳で指を差した。その先には、海面に漂う深い霧のカーテンを切り裂くようにして、青々とした緑に覆われた島がその姿を現し始めていた。
「お……! あれが……レテ島!!」
ショウもまた、手すりを取り込むようにしてその光景を食い入るように見つめた。数日間に及ぶ船上での過酷な修行、そして海賊との死闘。それらを経てようやく辿り着いた目的地は、午後の陽光を浴びて、まるで宝石のように海に浮かんでいる。
そこへ、足をもつれさせながら、今にも魂が抜け出しそうな顔をしたエマが這い寄ってきた。
「じ、地面か……? 地面なのか……? 地面よ……早く、一刻も早くわしを降ろしてくれ……もう揺れるのは嫌じゃ……」
大海賊魔女のプライドなど微塵も感じさせないその姿に、ショウは苦笑いを禁じ得ない。そんな一行の背後に、いつの間にかジルとジラードが並んで立っていた。
「ようやく着いたな……。長い道のりだった、潮風にも飽きたところだ」
ジラードが満足げに鼻を鳴らした。
「ふむ、長い船旅じゃったな。……見ろ、あれがわしの特製転移魔法陣がある、バカンスの島……レテ島じゃ! 歓迎するぞ、若造共よ!」
ジラードが杖を高く掲げ、誇らしげに宣言する。
緑豊かな原生林、切り立った断崖、そして島全体を包み込むどこか神秘的で厳かな空気。
ついに、「レテ島」が、ショウたちの目の前にその全貌を現した。陸地が近づくにつれ、潮の香りに混じって濃厚な森の匂いが風に乗って運ばれてくる。
未知の冒険への期待と、修行で培った確かな自信。ショウは深く息を吸い込み、目前に迫るレテ島の緑を真っ直ぐに見据えた。
シーロア号が浅瀬に錨を下ろし、小舟に乗り換えて島へと近づくにつれ、ショウたちの目の前には、これまでの過酷な修行や海賊との死闘を忘れさせるような「至高の楽園」が広がっていった。
小舟が波打ち際に滑り込むと、そこには雪のように白く、きめ細やかな砂浜がどこまでも続いていた。透き通った海水は、沖合の深いサファイアブルーから、波打ち際に向かって鮮やかなエメラルドグリーンへと見事なグラデーションを描いている。
「わあぁ……! すごい、ショウ、見て! 足元まで透き通ってるよ!」
アリナが真っ先に小舟から飛び降り、ひざ下まで水に浸かってはしゃいでいた。その透明度は、泳いでいる色とりどりの熱帯魚の影が、海底の砂地にはっきりと映し出されるほどだ。これほどまでに清浄な海は、前世の記憶を辿っても見たことがないとショウは感嘆した。
海岸線に沿って、天を突くような高い椰子の木が規則正しく並び、大きな葉が海風に揺れて心地よい乾いた音を立てている。その木陰には鮮やかな色彩のパラソルが咲き乱れ、色とりどりの水着に身を包んだ観光客や、日焼けした肌の島民たちが、弾けるような笑い声を上げて水遊びに興じていた。
浜辺のあちこちからは、直火で焼かれた魚介の香ばしい匂いや、完熟した南国特有の果実の甘い香りが潮風に乗って漂ってくる。どこからか陽気な弦楽器の音色が聞こえ、人々の喧騒と溶け合って、この島全体が一つの祝祭のような熱を帯びていた。まさに、ここは戦いの血生臭さとは無縁の「バカンスの聖地」であった。
しかし、レテ島はただ浮かれただけの娯楽の島ではなかった。
島の中心部に目を向ければ、鬱蒼と茂る深いジャングルの奥に、雲を突き抜けるほど巨大な山がどっしりと鎮座しているのが見える。麓の賑やかさとは対照的に、山頂付近は古代の神秘を感じさせる奇妙な形の岩肌が露出し、圧倒的な威厳と静寂を放っていた。
「ふむ……。あの山の近くにわしの転移魔法陣が眠っとる。どうだ、ショウよ。修行の疲れも吹き飛ぶ絶景じゃろ?」
ジラードが腰に手を当て、自慢げに鼻を鳴らす。
「……確かに、ここは最高ですね。……ん、エマさん?」
ショウが隣を見ると、エマは砂浜に上陸した瞬間に「地面じゃ……本物の地面じゃ……」と呻きながら、這いつくばって砂の感触を全身で噛み締めていた。その背後では、ジルが静かに砂浜を踏みしめ、珍しくわずかに口角を上げて周囲の平和な光景を見つめている。
「さて、まずは宿を確保して、冷えた酒と美味い飯といこうじゃないか! 宴の続きじゃ!」
ジラードの豪快な号令と共に、一行は熱を帯びた白い砂浜を蹴って、活気あふれる島の街並みへと一歩を踏み出した。




