110話 黒の仮面
「シ、ショウに手を出すなッ!!!」
ショウの前に立ち塞がったのは、体に傷を負い自身も満身創痍のロロだった。小さな体を震わせながら、精霊の力を振り絞り、ロジカを威嚇する。
「ロロ、ダメだッ!」
ショウが叫ぶのと、ロジカが剣を振るうのは同時だった。
「邪魔だ」
淡々とした一言と共に放たれたのは、殺意すら宿らぬ事務的な氷の刃。ロロはその小さな体を容赦なく薙ぎ払われ、悲鳴を上げる間もなく壁へと叩きつけられた。
「うわあああーーーっ!!」
「ロ、ロロォォッ!!」
ショウの絶叫が、塔の最上階に虚しく響く。
「くっそ……が……ッ!」
壁に埋まったレンが、自嘲と怒りに満ちた声で立ち上がろうとする。しかし、その体はすでに限界を超えていた。ロジカはレンを一瞥することさえせず、標的であるショウの胸元へ、冷徹な細剣を構え直した。
「死ね」
死刑宣告と共に、氷のように冷たい刃がショウの胸へと突き刺さった。
ドスッ……。
「くそ....いってぇ……」
口から鮮血が溢れ出す。痛みと共に、突き刺さった刃から心臓へと、悍ましいほどの冷気が流れ込んできた。
(冷たい……。俺、死ぬのか……)
視界が急速に狭まっていく。レンとロロの力なく倒れる、遠く遠くへと離れていく。
(せっかく再会できたのに.....)
ショウの瞳から光が消え、力が完全に失われた。ロジカの冷酷な青い瞳だけが、その最期の瞬間を見届けていた。
ショウの意識は、底なしの泥の中に沈んでいた。
(ここは……どこだ? 死の世界ってやつか?)
冷たい暗闇の中で、彼はただ自分の心臓の音だけを聞いていた。ふと、前方に気配を感じて視線を向ける。そこには、静かに佇む「奴」がいた。
全身を包むのは、見る者の視線を吸い込むほど深い漆黒の法衣。その縁には、かつての聖なる遺物を彷彿とさせる、冷たく鈍い金色のプレートが幾何学的な模様を描いて縫い付けられていた。
顔を覆う黒く、模様が刻まれた仮面には、表情を読み取る隙など一切ない。無機質な金属の表面には、ただ冷徹な光だけが反射している。頭頂部からは鋭い突起が王冠のように天を突き、その姿は神聖でありながら、同時に悍ましい死の気配を漂わせていた。
(な……なんだ、こいつ……?)
恐怖で声すら出ない。動こうと足掻くが、手足は鉛のように重く、意識が泥に沈んでいく。
謎の存在は何も言わず、ただ静かに、ゆっくりとショウへ近づいてくる。
(く……くるな……。)
反射的に顔を背けようとするが、それすら許されない。奴はショウの顔の前に細長い指を伸ばし、覆い被さるようにしてその顔を掌で覆った。
瞬間、脳髄を直接かき回されるような感覚。己の意識が、記憶が、存在そのものが、奴の漆黒の法衣の中へと引きずり込まれていく。
(や……やめ……ろ……。)
ショウの胸に刃を突き立てたロジカは、冷酷な目で呟いた。
「……死んだか」
その言葉に応える者はいない。レンもロロも、先ほどまでの激闘の果てに意識を失い、床に伏している。
ロジカは鼻を鳴らし、剣の柄を握り直した。
「他にも塔の下の方で人間の気配がするな。こいつの仲間か……? まぁいい。ベサリズ様がお戻りになる前に片付け、予言の石を見つけねばな」
ロジカが剣を引き抜く。——ドスッ、という鈍い音が響き、鮮血が噴き出しその血が凍る....
勝者としての冷徹な満足感と共に、ロジカが戦いの部屋を後にしようとした、その時だった。
ドゥーーーーーーーンンン!!!!!!
塔全体を揺るがすような重低音が響き渡り、空気が歪んだ。
ロジカの背筋に悪寒が走る。驚愕に目を見開き、ゆっくりと振り返った。
そこには、先ほどまで冷たい屍となっていたはずのショウが、異様な気配を放って立っていた。
深い闇を纏い、仮面を被った、異形の魔法使いのような姿であった。
ロジカが剣を突き立てていたはずのショウの体から、未知の恐怖が立ち上がる。ロジカの冷徹な仮面の下に、初めて「困惑」という亀裂が入った。
「おまえは……何者だ? さっきまでの人間とは気配が違うな……まるで……」
その言葉は、黒い仮面の主には届かない。
ショウの意識は、泥のように濁った深淵の底に沈んでいた。
(な、なんだ……これは……?)
声は出ない。手足の感覚もない。ただ視界だけが、映画のスクリーンのように現実を映し出している。自分の体が、自分のものではない何かによって、流麗に操られていく。
黒の仮面の魔法使いは、無言のまま右手を虚空へ差し出した。
ズズズズズズ……。
その掌が触れた空間が歪み、闇そのものが凝縮するかのように、漆黒の長杖が「召喚」される。
「答える気はないようだな……まあいい。殺せば中身は分かるはずだ」
ロジカは苛立ちと共に剣を抜き放ち、弾丸のような速さで肉薄した。
だが、その一撃は届かなかった。
黒の仮面は杖を持つ手とは逆の左手を軽く払う。それだけの動作で、空間そのものが暴風となり、ロジカの体を塔の壁まで吹き飛ばした。
ドゥーーーーン!!
ロジカは壁に叩きつけられながらも、瞬時に空中で態勢を立て直す。冷徹な殺気は消えていない。
黒の仮面が杖の先をロジカに向ける。先端に黒い稲妻が収束し、バチバチと耳を劈く火花を散らした。
ズディーーーーーンッ!!!
放たれたのは漆黒の閃光。
塔の壁を無慈悲に貫き、巨大な風穴を開ける。ロジカは反射的に氷の障壁を展開し、かろうじて直撃を免れた。
攻防の刹那、杖は闇の中へと霧散し、代わりに無数の黒い粒子が集まって、歪な形状の「黒い刃」へと姿を変える。
ジャギン。
「私と剣で戦おうというのか……」
ロジカが嘲笑を浮かべた瞬間、黒い仮面が剣を横薙ぎにした。放たれたのは三日月型の斬撃。
「舐めるな……!」
「 セカレ・グラーキエス!」
ロジカの剣から放たれた氷の斬撃がぶつかり合い、塔内に轟音が木霊した。
(くそ……やめろ……俺の体を……!)
意識の奥でショウが叫ぶ。だが、黒い仮面の主には届かない。
背中から形のない、夜の帳のようなオーラが噴き出し、一対の「翼」を形成する。
バサッ。
重力を無視した加速。一瞬でロジカの懐に飛び込んだ黒い仮面は、右手を雷光のような速さで突き出した。
ロジカが迎撃しようと剣を掲げる。しかし、その剣ごとロジカの右の手首を、黒い仮面は鉄の指で掴み取った。
ズバーーーーン!!!
冷徹な断裂音と共に、鮮血が舞う。
ロジカの右腕は肘から先が、無残にも肩から切り離されたかのように切断されていた。
黒い仮面は、断末魔すら上げさせぬまま、ロジカが握りしめていた剣ごと、その切断された右手を鷲掴みにする。
塔の壁に空いた巨大な穴の向こう――地下都市へと、ロジカの腕は無造作に放り投げられた。
サッ。
風が、切断された箇所から漏れる血の匂いを運んでいく。
ロジカは、右腕を失っでもなお、残された左手で氷の刃を形成する。
「ウェーラ・ニウィス……!」
唱えた瞬間、塔の部屋を白銀の冷気が埋め尽くした。視界を奪うほどの濃密な氷の霧。すべてを凍てつかせる極寒の空間で、黒い仮面はただ仁王立ちしていた。
その静寂を切り裂き、霧の向こうから影が走る。ロジカだ。左手で生成した氷の刃を握り、勝機を見出した渾身の一撃を放つ。
「エンシス・ゲリドゥスッ!!」
スパーーーーン!!!
鋭い音が響き、黒い仮面の肩から腰にかけてが深々と切り裂かれた。切り口からは冷たい霜が湧き出し、筋肉を凍てつかせる。だが、黒い仮面は血の一滴も流さず、眉ひとつ動かさない。
次の瞬間、黒い仮面の左手がロジカの首を鋼鉄の握力で鷲掴みにした。
「ガッ……!?」
ドォォォォォンッ!! ガガガガガッ!!
黒の仮面は黒の翼で飛びながら、ロジカの体をそのまま部屋の壁を引きずる。分厚い石材が砕け散り、崩壊する塔の残骸を突き破って、黒い仮面は黒い翼を大きく広げる。二人はそのまま夜空の塔の屋根へと躍り出た。
「こ……これほどとは……ッ!」
ロジカの喉が圧迫され、断末魔が漏れる。黒い仮面は天に向けて、地下都市すべてを震わせるほどの轟音を叩きつけた。
「ヴォーーーーーーーーーーッツ!!!」
その咆哮は、都市の深淵に潜む者たちにまで届くような、獣の叫びだった。
黒い仮面はロジカの首を放つと、右手の黒い刃で斬り裂く
ズザッ! ズッパァァン!!
右下から斜め上へ、黒い刃がロジカの全身を深く切り裂いた。ロジカの体が空中で静止した刹那、黒い仮面の左手に漆黒の稲妻がバチバチと収束する。
ゴォォォォン……!!
稲妻がロジカの身体を飲み込む。爆発的な閃光とともに、ロジカの肉体は悲鳴を上げる間もなく無数の塵となって地下都市へ霧散した。
残されたのは、静寂と、冷たい地下都市の空気だけだった。




