108話 血霜のロジカ
爆発の煙が立ち込める研究所の廊下は、まさに地獄の回廊だった。
舞い上がる煤と焦げた薬品の臭いの中を、ショウたちは必死の形相で駆け抜ける。左右に並ぶ巨大なガラス水槽には、液体の中に浮かぶ「何か」が収められていた。
「ひどい……こんな実験を……」
アリナが絶句する。水槽の中で薄く濁った液に揺れるのは、かつて人間だったであろう成れの果てだった。
「ああ……噂で聞いた『奇跡の液体』。これが、アイアングローリーやレテ島の海賊たちが使っていたあの恐ろしい物と繋がっているのか」
ショウの脳裏に、レテ島で見た海賊たちの狂気の形相が蘇る。あれがもし、この地下都市で大量生産されていたのだとしたら――。
ついに最奥の部屋へ到達した。しかし、そこには空虚な空間が広がっているだけだった。破壊された牢の壁には巨大な穴が穿たれ、そこから先は地下都市の冷たい空気と繋がっている。
「ここから外へ出たみたいだな。……まて、今魔眼で見てみる」
エマが杖を強く床に突き立て、目を大きく見開いた。彼女の瞳が禍々しい光を放つ。
『虚空の写目』
エマの瞳には、レンたちの今の状況が見えておりエマは地下都市へ指を刺した。
「……見つけた。お前の友人はこっちじゃ! ついてこい!」
エマを先頭に、一行は穴から地下都市の荒れ地へと飛び出した。
崩れ落ちた建物の瓦礫を跳ね越え、レンの気配を追う。しかし、一行の進路を遮るように、巨大な影が立ちはだかった。
「ケケケケケ……! 貴様ら、さっきはよくもやってくれたなァッ!!」
あのカエルの魔族だ。縄を強引に引きちぎり、全身から粘液を滴らせながら、憎悪に満ちた目をこちらに向けている。
「ちっ……急いでいるのに!」
ショウが歯噛みする。行く手を阻む殺意。レンの気配は、すでにこの先の暗闇へと消えかけている。
「ショウ、アリナ! ちゃっちゃと片付けるぞ!」
エマが杖を構え、魔力を練り上げる。アリナが腰から剣を抜き放ち、ショウもまた覚悟を決めて杖を突き出した。
「どけッ!!」
「人間ども、死ねぇっ!!」
カエルの魔族が大きく口を開いた瞬間、その喉元がどす黒く膨れ上がった。放たれたのは、粘液と混ざり合った猛毒の奔流だ。空気がチリチリと焼けるような音を立てて迫る。
「ウォーターウォール!」
エマが咄嗟に杖を掲げると、虚空から奔流のように水が湧き上がり、一行の前に巨大な障壁を築いた。毒液が水壁に触れた瞬間、ジュウジュウと音を立てて白煙が上がる。
「今じゃ、アリナ!」
「はぁああああっ!!」
エマの援護に応じ、アリナが水壁の隙間から疾風のように飛び出した。鋭く研ぎ澄まされた刃がカエルの魔族の首筋を狙う。しかし、想像もつかない動きで首を折り曲げ、紙一重で回避した。
「ケケケケケッ! 遅い、遅いぞォ!」
二人の連携の隙を突き、魔族が再び禍々しい力を練り上げる。
「ショウ、行け! レンたちはあの塔の中じゃ! わしらがこいつを倒したらすぐに追いかける!」
エマが鋭い眼光でこちらを振り返り、地下都市のひときわ高くそびえ立つ、黒い塔を指差した。
ショウは二人の背中を見て、瞬時に判断を下した。ここで加勢すれば、レンの救出が遅れる。今、自分が行くべき場所は――。
「わかりましたッ!」
ショウは迷いを断ち切り、足裏に魔力を込めて地を蹴った。
背後でエマの詠唱とアリナの剣戟が激しくぶつかり合う音が響く。だが、ショウは振り返らなかった。レンがいる。その確信だけが、今のショウを走らせる唯一の動力だった。
目指すは地下都市の最奥、天を突くようにそびえ立つ黒い塔だ。まだ距離はある。ショウは瓦礫の山を飛び越え、全力でその塔へと向かって走った。
その時だった。
「――ドォオォォンッ!!」
塔の最上階から、建物全体を揺るがすような轟音が響き渡った。
続いて、空気を凍りつかせるような凄まじい「禍々しい魔力」が、波動となってショウを襲う。
(な、なんだ……この魔力……ッ!?)
ショウは咄嗟に足を踏ん張り、顔を覆った。全身の皮膚がヒリヒリと焼けるような感覚。この不快で、どこか泥のような粘り気を持つ魔力……ショウはそれを知っていた。
(この魔力……レテ島で戦ったあのナレッジに似ている……!)
爆発の余韻が消えると、今度は周囲の気温が急激に下がった。
「ブゥーーンンンンン……」と重低音のような耳鳴りが響き、塔の周囲に霧のように白い冷気が漂い始める。それはただの冷たさではなく、生きとし生けるものの命を奪うような、死の気配を孕んだ冷気だった。
(あの塔の最上階で、一体何が起きているだ……!?)
胸の奥で、嫌な予感が激しく鼓動を打つ
「レンッ!!」
ショウは焦燥を怒りに変え、さらに加速した。
黒い塔が、まるで獲物を飲み込む巨大な顎のようにショウを待ち受けている。残された時間はあとわずかだ。ショウは塔の入り口へと一直線に突き進んだ。
塔の入り口に足を踏み入れたショウは、その惨状に息を呑んだ。
冷たい石床の上で、二人の男女が力なく倒れていたのだ。一人は軽装の弓使い、もう一人は魔法使いのローブを纏った女性。
「……レンか!?」
ショウは駆け寄ったが、その顔を見て確信した。彼らは以前、エマの魔眼を通じて影だけを確認したレンの仲間たちだ。
弓使いの男は、愛用の弓を折られ、ダガーも鞘から外れていた。傍らに倒れる女性は、茶色の髪を乱し、優しい面影に苦悶の色を浮かべている。
「おい!……おい、大丈夫か!」
ショウの呼びかけに、青髪の男が掠れた声で目を開けた。
「血霜のロジカが、戻ってきやがった……。あいつが……レンが危ない……」
「お、お願い……。レンを……助けてあげて……」
茶髪の女性もまた、死にそうな声で懇願する。ショウの心臓が激しく波打った。
(ロジカ……! さっき魔族どもが口にしていた、魔族か!)
「ロロ、この人たちを治療できるか!?」
肩の上のロロが、いつもの軽薄な笑みを消し、真剣な眼差しで「任せてよ!」と応じた。
ロロが小さなバックから木の枝のような杖を取り出し、空中で軽やかに舞わせる。すると、杖から溢れ出した淡い緑の光が、二人の傷口を包み込んだ。
癒しの光と共に地面から瑞々しい草花が生え、たちまち彼らの深い傷を塞いでいく。
「これでまずは大丈夫だよ!」
「ロロ、ありがとう!」
ショウは立ち上がり、天を貫く黒い塔の最上階を見上げた。そこから今もなお、禍々しい魔力が渦巻いているのが分かる。
レンを救えるのは自分しかいない。
塔の内部は、外観とは裏腹に、まるで生きた魔物のように脈動していた。壁は不気味に赤く明滅し、螺旋階段は歪にねじ曲がっている。
ショウはロロを肩に乗せ、怒りに燃える足取りで階段を駆け上がった。一段登るごとに高まる重圧。最上階が近づくにつれ、空気は冷たく凍てつき、耳を突くような不協和音が響き渡る。
(レン、今いくぞ……!絶対に死なせるかよ!)
最上階の重厚な扉を粉砕され、粉塵が舞っていた。
「レン!!」
叫びと共に、砕け散った木片と煙の中にショウは飛び込んだ。最上階の広間は、静寂に支配されていた。中央ではレンが力尽き、血溜まりの中に沈んでいた。先ほどまで激しい死闘を繰り広げていたのであろう。レンの周囲には崩れた塔の残骸や砕けた床石が散乱しており、彼が最後の一瞬まで抗い続けたことが痛いほどに伝わってくる。
そして、そのすぐ傍らに、ロジカは立っていた。
ショウはロロと共に、その魔族の姿に圧倒された。これまで戦ってきたどの魔族とも違う、洗練されすぎた、それゆえに悍ましい異質の存在感がそこにあった。
ロジカの体躯は、一見すれば人間に酷似している。しかし、その肌は生気を失った雪のように青白く、不気味なほどに滑らかだった。背丈は高く、極端に細身でありながら、その全身からは強靭なバネを思わせるしなやかな魔力が滲み出ている。
頭部からは、磨き上げられた黒曜石のような、悍ましくも美しい二本の角が、額から後方へと緩やかな曲線を描いて伸びていた。
その顔立ちは、ぞっとするほど整っている。しかし、そこには感情というものが一切存在しなかった。
長く、シルクのように艶やかな白い髪が背中まで伸び、石床に触れそうなほどに垂れ下がっている。その髪の隙間から覗く鋭い青い瞳は、爬虫類のそれを思わせる冷徹さで、ショウを一瞥することさえしなかった。
その瞳の奥にあるのは、ただ対象を「実験材料」としてのみ見る、絶対的な冷気だけだ。
彼は、夜の闇のように黒い、仕立ての良いコートを纏っていた。その隙間から、青白い肌とは対照的な、長く、爬虫類のような鱗に覆われた、細い尻尾が一本、床を音もなく這っている。
そして、その手に握られていたのは、彼の身長ほどもある、長く、そして驚くほどに細い剣だった。レンを圧倒し、膝をつかせたその剣だ。
「人間め……。偽りの情報を言ったな」
ロジカの口から漏れた声は、風が吹き抜けるような、感情の欠片もない、淡々としたものだった。レンの抵抗はすでに無力化され、逃げ場はどこにもない。
「その罪は、死だ」
彼は一切の予備動作なく、手に持った細剣を、倒れているレンの首筋に向けて、事務的に、しかし確実に振り下ろされようとしていた。




