40 死んだあの子は夢を見た
「グレイソン」
仄暗い横顔をした彼の名を呼ぶ。
少しばつの悪い表情をした彼に微笑みかけて、その胸元に顔を寄せた。
夜の闇に覆い隠された大地に道標の如く並ぶ街灯りに目を細め、私の肩に置かれた腕を抱き締める。
「ようやく分かったの、本当は何をすべきだったかってことを」
「ダイアナ」
「アーベントを……海を愛せないことをようやく受け容れられてね。前は私の拠り所をディランと同じ場所に置こうとして、それでヘイゼルにも縋ってみたけれど結局全部中途半端で……前にも言ったっけ、それが私にとっての最善だった」
沢山の矛盾を抱え、そんな私が救われるはずがない、と泣き喚いていた愚かな少女は嘘つきで、その癖手を差し伸べてくれる優しい誰かの訪れを夢見ていた。
いつか、きっと――痛む傷を押さえてひとり泣いた夜。
私はいつだって現実ではなく空想に救いを求めていたのだ、いつ訪れるかも分からない幸せというものへの期待と失望に、心を押し潰されてしまわないように。
「でももうきっと大丈夫ね、だって貴方がいてくれるんだから」
――けれど、もう。
私には、彼がいる。
「ねえグレイソン、もう一度尋ねさせて。私の帰るべき場所を、貴方にしてもいい?」
アーベントの海と同じ青を秘めた、美しい瞳。
言葉が無くとも、彼が言わんとしていることは手に取るように分かるのだ。
空いているもう一方の腕で私を引き寄せた彼が、僅かに腰を屈めて私と顔を近付ける。彼は、泣いているようだった。
「ああ、ああ――首都に行ったら直ぐにでも一緒に暮らそう、どこか家を探して寮を出るから。かなりの貧乏暮らしにはなるだろうけどさ」
「私の家に来る? オリバーもいるけれど」
「それは本当に勘弁してくれ、あいつは本当にいらない。俺は君と人生を歩みたいのであって……絶対に幸せになろう、幸せになれなかった人の分まで」
特別なものは何も無い、けれど笑ってしまうくらいに真摯で切なる宣誓。
奥手な彼に顎先を持ち上げられて、優しい口付けを受け入れる。触れた亜麻色の髪は、まるで羽毛のように柔らかかった。
かつての私にとって「愛」というものは欺瞞と偏執によって成り立つもので、自分を守るための手段でしか無かった。
こんなふうに穏やかで優しくて、けれど情熱を持ったものだなんて、私は知らなかったのだ。
どうしても知りたかったこと、知りたくなかったこと。
私以外の誰かの過去を自分と重ね合わせて呪いを募らせていったこと、他者からの赦しを求めるあまりに自罰的になったこと。
歪んだ愛情は、人を壊してしまう。
殴っては蹴って消えない傷を刻みつけて、けれど私を泣いて抱き締めたゼフのこと。
ヘイゼルが私とディランを彼女の娘たちに――四つで殺された「ダイアナ=エリス」と、当時彼女が身篭っていた、男女どちらが生まれてきても「ディラン」と名付けられる予定だった赤ん坊になぞらえ、クリフの血筋への呪詛を吐き続けたこと。
私たち双子を自分の子供たちの生まれ変わりだと思い込んでいたヘイゼルがようやく「ダイアナ・クリフ」という存在に向き合ってくれたのは、ディランが亡くなってからだった。
錯乱状態に陥って精神をおかしくさせていった私を見てか、「貴女は貴女だった、それ以外の誰でもなかったのに」と泣いていたヘイゼル――けれど、その気付きは芽生えた憎しみを摘み取るには遅過ぎた。だからオルティスさんからの愛にも気づけないまま。
最後に会った時、ヘイゼルが私の傷をそっと撫でてくれたことだけは朧気な記憶の中でも確かに覚えている。
死の先にある世界に希望を抱いたディランは敢えて逃げなかったのであって、私が姉を殺したのではない、とも。
けれど、それは単なる慰めの言葉に過ぎない。
だって、私があの小屋を燃やしてしまわなければ始まらなかった物語だから。
息も吸えないくらいに長い接吻に彼の胸を押し返す。
「ここで朝日を眺めるつもり?」と茶化せば、顔を真っ赤にした彼が「そんなに節操が無いように見えるか?」と首を横に振る。
「冗談よ。ねえグレイソン、今日はどうするの? ジョセフィーヌさんの家?」
「ああ、向こうに泊めてくれって連絡してる。ジョセフが面白い本でも持ってきてくれってうるさくってさ、首都から十冊くらい良い感じのを持ってきたんだ。上の二人とも話したいし……それにジョセフが高等学校に行きたがってるらしくて色々教えてやれって頼まれたんだよ、だから二日はアーベントに滞在するつもりで来てる」
「ああ、家庭教師の仕事をしているんだっけ? どうなの、調子は」
「まずまずだよ、良い子もいれば悪い子もいる。まあ……学費も生活費もそれで工面できてるしな。割と楽しいんだ、頼りにされるのも子供の面倒を見るのも」
それなら教師になればよかったのに、とは言わない。楽しそうに話している彼が選ばなかった道に、わざわざ言及するつもりはないのだ。
少し間を置いて、彼が私の左手首を掴んだ。
それを口元まで持ち上げ、薬指にそっと口付けを落とした彼のその行為が示す意味に心臓を高鳴らせ、熱に浮かされたように彼を見上げる。
「エストゥーサで一緒に指輪でも買いに行こうか」
「ええ、ええ――これからはずっと一緒なんだものね」
火照った顔に、冷たい風が吹く。零れ落ちた涙はそのままに、私は笑った。
これから何が起きようとも、私は強くあれる。
私を愛してくれたもう二度と会えない人々に祈りを捧げて、犯した罪から目を逸らさずにこれからを生きていけるのだ。
「ああ、どこにいたって必ず見つけ出すよ。違う姿に生まれ変わったって、絶対に」
なんて輝かしい光なのだろう。
彼が、彼こそが私に生きる力を与えてくれる太陽であってくれる――そう言ったら彼は困ってしまうだろうけど、私にとってそれだけ貴方は大きな存在なのよ、と。貴方がいなかった時に、決して戻りたくない。
触れる温もりに瞼を閉じて、青白い月が照らす夜の空気に身を溶かす。
彼の優しさと愛に包まれた私は、ただただ幸福だった。
失ってしまった全て、得ようとした全て、諦めてしまった全てを、もう二度と手放してしまわないように。
叶わなかった願いが、今度こそ報われますように。
「愛してる」もう一度囁いて、彼の肩にそっと手をのせる。
離れていたふたつの影は、その時ひとつに重なった。
◇◇◇◇
「さよなら」とは、言わなかった。
だって、もう一度会えると信じていたから。
でも、それから私たちは二度と会えなかった。
「――お前が俺の全てなんだ、だから絶対に幸せにするよ」
木漏れ日の下、私の膝に頭を乗せるのが好きだった貴方の笑顔。
あの頃、私たちは世界の誰よりも幸せだった。
情熱のままに愛し愛され、ずっと一緒にいるのだと信じて疑っていなかった、あの若き青春の日々。
私の膝の上で眠る貴方の顔を見るのが好きだった。柔らかな髪に触れることも、男性的な額や顎に触れることも。私が貴方を愛したのは、貴方が貴方だったから。
けれど、私たちの愛は引き裂かれた。
夢を追いかける貴方の背を押したことの、何がいけなかったのか。
嫌だと泣いて縋っても、私の家族は私が貴方といることを許さなかった。
代わりに貴方の兄との結婚話を取り付けた姉たちは「これは貴女にとっての一番の選択なのよ」と私を諭し、両親を失ったばかりで後ろ盾の無かった私は、それに泣く泣く従うことにした。
けれど、せめて、と、貴方に向けて一度だけ綴った一枚の手紙。
もしかしたら私の元に戻ってきてくれるのではないか、この望まない結婚から私を連れ出してくれるのではないかと――でも、貴方からの返事はいつまで待っても来なかった。
だから私は貴方の兄と夫婦になり、子供を産んだのだ。
夫はとても優しかった。
軟派で新しいことを好む風来坊な貴方と違って堅実で礼儀を重んじる人だったし、彼も私との結婚は本意では無かったはずなのに私のことを尊重してくれて、私に敵意を向ける人々から守ってくれた。きっと、それはとても幸福なことだったのだろう。
それでも、貴方を諦めることはできなかった。
捨てられたのに、裏切られたのに。
目尻をさげて鼻に皺を寄せる貴方の笑顔を忘れることも、贈られた指輪も手放すこともできなくて。
貴方の愛したアーベントの海で、小さな船に揺られながら二人一緒に眺めた夕焼け空。
普段は冗談めかして変なことばかり言う貴方が、いつになく真剣な表情で海への――そして私への愛情を語ってくれたあの日。
憎くて、けれど愛おしい貴方。
思い出が過去を美しくするのだとしても、そうだとしても、貴方への愛に捧げた青春時代は、確かに私の人生の中で最も輝かしくて特別な時間だった。
渦巻く憎悪の中で命を落とし、憎しみのままに多くの罪を犯した私は、きっと何度生まれ変わったとしても幸福にはなれないでしょう。
「私の星」と愛情を込めて呼びながら、娘とよく似た無垢な少女たちに呪いをかけ、彼女たちにもまた罪を重ねさせ、己の愚かさにようやく気がついた時には全てが遅かった。私も私を殺した人間たちと同じだったのだ。
何十年もの隔たりを経ても、ようやく出会えた貴方は貴方。
命の灯火を消した貴方の真白な頭を膝に乗せて、あの頃のように顔を撫でても固く閉ざされた瞼は開かない。
「手放すことが愛だと思っていた」と私に告げた貴方は、自信家のようでいながら気の弱い所のある貴方らしかった。
それならどうして返事さえもくれなかったの、と尋ねれば、貴方は「お前から嫌われたかったんだ」なんて真面目な顔でそう言って。
馬鹿ね、私は貴方が思うよりも貴方を愛していたの――たった十六の小娘の話を馬鹿にせずに真剣に聞いてくれたあの日から、人生が終わる日まで貴方と共にいられることばかりを夢見ていたのだから。
私たちはどうしようもないくらい愚かで、互いを愛するがあまり底無しの泥沼に嵌っていった。
こんな私たちが幸せになるには何千、何万、何十万もの夜を越えても足りないでしょうけれど、またいつかどこかで巡り逢えますように。
「――ねぇオルティス、私たち、きっと今度こそ幸せになれますよね?」
あまりにも傲慢な願いだけれど、望むくらいなら構わないでしょう?
ぐるぐると循環し続ける終わりの無い時の中、日が昇っては沈み、雨が降っては止み、芽吹いては絶えていく生命を見つめ続け。
私より遥かに長く生きた証が全身に刻まれた貴方の体に触れて、それからどうしましょうか。
貴方と手を取り合って、塔の頂上から一緒に身を投げましょうか――そうしてきっと、世界のどこかで産声をあげた貴方に必ず会いに行く。
だからその日まで待っていてくださいね、私の愛しい人。




