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39 鎮魂歌


 血のように赤い夕日が染めた、見渡す限りの水平線に浮かぶ船たち。


 夜が訪れる前に辿り着いた丘は、あの日と変わらない静寂に包まれていた。


 緋色の世界に光る星々のような海の光の反射に目を眇め、深く息を吐いた私はあの少女像の元へ足を運んだ。    


 オルティスおじさんがヘイゼルとの未来を捨ててまで選んだ選択の結集とさえ言える、その生命の宿る美しい像。

 才能に溢れた青年が突き進んだ道は、彼を破滅の道へと導いた――愛も望んだ未来も得られなかった彼は、あの薄暗い小さなトタンの小屋の中で漁網を編みながら何を考えていたのだろう。


 想像することは容易だけれど、本当のことは分からない。分かるはずもないのだ。


 少女像の頬を撫で、その冷たい額に口付けを落とす。


「久しぶりディラン、ずっと来れてなくてごめんね」


 失いたくなかったものを失って、得られないものを強く欲しがって、目の前の本当に大切なものには気付かずに見逃して。


 年端もいかない少女は自分が思っているよりも愚かで、それは今もそう。


 あんなに大事に管理していた花畑は枯れ果て、冷えた台座には傷や汚れが目立つ。

 強く脈打つ心臓の痛みに息を吐き、目頭に滲んだ涙を親指で拭った。


「……七年ってこんなに長いのね」


 変わらずに循環していく景色は、生者のためのもの。

 特別なことを成し遂げたわけでもない幼い少女の悲劇的な死なんて、彼女を心の底から愛していた者以外が覚えているはずがない。


 特定の場所に故人を結び付けて悼むことが合理的でないことは分かっているけれど、私はそれを壊れていく自分を守るために利用していた。


 ディランはここにはいない。だからここがどうなろうがどうでもいい――そんな図式が成り立つことは、今までの私にとって有り得なかった。けれど、もう。


 一際強く輝いた夕日に瞼を閉じて、石像の輪郭を掌でなぞる。

 この像にディランを重ねて縋るのはもうやめにしよう、そうしなければこの罪を抱えきれなくなって、またあの子のところに行きたいと強く願ってしまうから。


 どうか、と願う心すら砕けてしまいそうな闇の中で蝕まれていった「自分」というものを、もう二度と失ってしまわないように。


 他者から奪って与えられたこの命を、せめて誰かのために役立てられるように。

 定められた時が訪れるその日まで、ずっと――。


「ここ、誰かに管理してもらおうかな。その方がいいでしょう? 忘れ去られてしまうよりかは、ずっと……賑やかな場所の方が好きだったものね」


 そうひとり呟いて、胸に抱いていた手帳をそっと台座に置いた。


 震える息を吐き、後退る。


 泣くまいと噛んだ唇から血の味がして、今にも堰を切って溢れだしそうな感情の波を呑み込んだ。


 あんなにもあの子が憎んでいた伯父は、この丘で眠っている。

 アーベントの公共墓地が彼を受け入れなかったのだ、だからクリフの私有地であるこの丘に彼の亡骸を葬った。難色を示したオリバーたちをどうにか説得して、どこよりも海がよく見えるこの場所に、と。


 ディランはきっと怒るだろうけれど、でも許してくれるはず――腕を組んで顎先をそらしながら「あんたがそんなに言うのなら仕方ないわね、許したげる」なんて言って。


 伸びた影の先を振り返れば、墓と言うには粗末な小高い山がある。

 伸びきった下草に覆い隠され、揺れる木々の影に隠れたそこに墓標は無い。


 おぞましい行いを黙認してきたのは彼らなのに、アーベントはこの町のために尽力してきた伯父の存在をひた隠そうとしているのだ。

 あの美しい巻貝の利権を守るために何百年もの間人を人とみなすことさえしなかったのは一体誰か。


 新聞紙に包んだ貝を取り出して、虹色の光を放つ滑らかなそれを撫でる。

 アーベントの海で太古の昔から脈々と生命を受け継いできたこれを、サリーとエリーゼが遺したものだという付加価値無しに愛することはどうしてもできなかった。


 だから簡単に手放せる。簡単に手放せてしまうのだ。


「あの子たちには会えましたか?」


 そう微笑みかけて、棺の埋まるそこへ足を運ぶ。

 

 跪いて地面に手をつき、貝を埋められるの深さの穴を掘ろう、と、辺りの草をむしり取る。

 それから近くに落ちていた枝を地面に何度も打ち付けて深く刺し、そこを起点に指で土を掘り返した。


 空の色が段々と橙から濃紺に変わっていくのを横目に見ながら、貝のための――否、あらゆる感情や記憶、そして墓標の無い人々を弔うための小さな墓を建てるのだ。

 

「――全ての死せる魂が絶えざる光に照らされ、記憶されますように。愛に満ちた慈悲深き主の御手の中の永遠の安息を、正しき者たちにも、愚かなる者たちにも……」

 

 古くから伝わる、誰が書いたものかも知れない鎮魂歌。


 アーベントでは毎年秋、海で亡くなった漁師たちのためのささやかな鎮魂祭が開かれる。

 その日は町中に色とりどりのランタンを灯し、女たちが作った人形を乗せた小さな船を沖へ流すのだ。


 家に帰りつくことが叶わなかった彼らが、せめて死後の世界には迷わず迎えるように――帰り着くべきだった場所を光で示して、けれど何があってももうこちらに戻ってきてはいけない、永遠に生と死の狭間の世界で彷徨うことになるから、と伝えるのだ。


 海を、というよりも自分の属する属性そのものを愛していたディランは、この鎮魂歌を完璧に歌えた。


 幼い子供特有の舌っ足らずの声も大人たちにはよく愛されて、引っ込み思案な私は虫の鳴くような声でひっそりと歌うだけ。

 サリーとエリーゼが亡くなってから祭りに出席しなくなった伯父に合わせた私には、この鎮魂歌のほんの一部分しか歌えない。


「帰るべき道を見失わぬ光を、辿り着くべき場所へと導く恩寵を、主よ、どうかお恵みください。彼の地にて永遠の眠りにつく彼らに、彼らに……」


 言葉が詰まる。この先を、私は覚えていない。


 手元を見下ろして、貝を置く。

 その上に土を被せて出来た即席の墓はみすぼらしくて、けれど、私は。


 溢れ出した涙が手の甲に落ちる。


 何年経っても上手くなるのは感情を誤魔化す方法ばかりだ――漏れる嗚咽に口を押さえ、溺れるように息をする。

 目まぐるしい日々の中で頭の片隅に追いやっていた記憶を繋いだ糸がずるずると引き摺り出され、際限なく零れ出した涙で視界が滲んで。


 愛していた。


 愛していたからこそ、救うために殺さなければいけないと思った。


 ルーヴェの提案は以前から抱いていたその思いに引き金を引かせたのだ、もし再び命を授かる為の条件が少しでも違ったなら、私はそのまま「死」を選んでいたことだろう。


 日が落ちた空に、無数の星が瞬く。濡れた顔が乾ききらぬ間に立ち上がった私は、月明かりが照らしあげた海の方へゆらりと顔を向けた。


 月に切り開かれた光の道が、さざ波の中で揺れている――綺麗だ、と心の底から思えたのは、これが初めてだった。

 導かれるように転落防止の柵に手をかけて身を乗り出せば、届きそうな距離に町灯りが船のように浮かんでいる。


 美しくて、けれど決して愛すことのできない故郷。


 吹いた青い陸風が揺らした髪を耳にかけ、頼りない作りの柵に寄りかかる。

 眼下には急な斜面。軋んだそれは命を預けるには心許ないけれど、どうしてか何も問題がないように思えた。


 瞼を閉じて五感を取り巻く世界というものを感じて、呼吸を繰り返す。


『君がよければアーベントのあの(・・)丘で会わないか』


 ――()は、いつ来るのだろう。


 灯りも持たずに夜の闇の中で立ち尽くす異質な容姿の女に、彼が驚いてしまわないか。


 以前の彼が知る私は美しい少女であったのかもしれないけれど、今の私はうまく笑うことの出来ない隻眼の女。


 花のように笑う少女たちが羨ましくて、けれど、全ては自分が始めたことなのだから、と伸ばした背筋で好奇に満ちた不躾な眼差しを受け入れてきた。

 けれど、もし彼が彼らと同じ感情を私に抱いて、昔のように微笑んでくれなくなってしまったとしたら。


 その時は、ほんの僅かな間でも幸せな夢を見れたことに感謝しよう。


 あの日彼が「自分も同罪だ」と言ってくれた時から見続けていたこの夢を、私だけの秘め事にするのだ――彼から預かった懐中時計を返して、そこで全てを終わりにする。

 きっと彼ならこんな私も認めてくれるだろうけれど、もしもの時に傷つかないで済むように。

 

 不意に、鋭い風が吹いた。


 一斉にざわめいた草木に反射的に周囲を見渡し、ぼうっと浮かび上がる亡霊のような灯りがこちらに下ってくるのが見えて――その瞬間、私の中に流れる時が止まった。


「ダイアナ!」


 彼だ。


 まともに息も出来ずに口を押さえて立ち尽くした私の元へ、持っていた旅行鞄を落とした彼が一目散に丘を駆け下りてくる――ああ、私はなんて愚かなことを考えていたのだろう。


 震える足を踏み出し、丘を駆け上がる。


 洒落たスーツに身を包んだ誰よりも優しい貴公子が、両手を広げて私を待っていてくれている――摘んだスカートを翻し、野山を歩かなくなった不健康な足をもつれさせながら転がるように飛び込んだのは、彼の胸元。


「グレイソン――」

「久しぶり」


 ずっと望んでいた愛情に満ちた低い声が、私の耳を穿つ。


 七年前よりずっと背の高くなった彼の力強い腕に抱き締められて息ができなくて、けれどそれが何よりも私を満たしてくれる。

 荒れる呼吸に体を震わして、月明かりに姿を明かされた彼の頬に手を伸ばす。


 彼は――グレイソンは、今にも泣いてしまいそうな表情で私に微笑みかけていた。


「ダイアナ」


 私の名を囁いた彼が私の額に口付けを落とす。腰に回された腕にぐいと引き上げられて、爪先立ちになった私は彼の首に縋り付いた。


 爽やかな石鹸の香りのコロンがふわりと私を包み込んで、それに瞼を閉じる――ああそうか、私は今日この瞬間の為に生きてきたのだ、と、心の底から思った。

 秋が深まってきた大気に触れる肌は冷たくて、けれど。


「……嬉しい」


 目の前にいる愛する誰かに愛を向けられる、ということ。


 それがこんなにも、こんなにも暖かくて嬉しいことだなんて、かつての私は知らなかった。


「ごめん、もう絶対にこんな思いはさせないから」

「うん――うん、ありがとう、でも貴方がいてくれるだけでいいの、貴方が私を見つけだしてくれたから、手を差し伸べてくれたから……私はちゃんと償える、貴方をこうやって愛することもできるの」


 赤らんだ彼が愛おしくて、堪らずに彼の頭を引き寄せて口付けを交わす。


 一層赤くなった彼が慌てたように私の後頭部を支えて、マーサさんに整えてもらった髪がはらりとこぼれ落ちた。


「ダイアナ、俺は――」

「愛してる。グレイソン、貴方に出会えて本当によかった。これだけは絶対に嘘じゃない、嘘じゃないの」


 もう一度、触れるだけの口付け。


 思えば彼に想いをちゃんと伝えるのは、これが初めてかもしれない。


 込み上げてくる感情は全て本物で、他者と上手く付き合っていくための最適解を求めて常に嘘をつきつづけていた私には、本当の自分の感情というものを曝け出すことは上手くできない。 


 けれど、不安定な夢が確かな現実となったこの瞬間、噴水のように溢れるこの愛に蓋をすることなんてできなくて。


「……少し待ってくれ、渡したいものがあるから」


 「何?」照れたように唇を親指で拭って顔を背けた彼が外套のポケットの中をまさぐる。


 彼が取りだしたのは小さな皮箱で、一歩私から身を引いた彼は少し困ったように微笑みながら


「気に入ってくれるといいんだけど」


 と、小ぶりで上品な、私の好む雰囲気の髪飾りを差し出してきた。


「……いいの?」

「ああ、こういうのがダイアナに似合うと思ってさ。俺がつけてもいいか?」


 彼の言葉に頬が一気に熱くなる。

 言葉が喉に詰まって声を出せずにいると、幸福そうに目を細めた彼が「失礼」と囁いて私の左頬に触れた。


 抱き締められて緩んだ髪に彼がぎこちない手つきで指を通し、金属の冷たさを耳に感じた次の瞬間に彼の手が離れる。

 

「――これでいいのかな、生憎この手のものには詳しくないんだ」


 そう言ってはにかんだ彼が私の手をとる。


 まるで御伽噺の王子のような容姿の彼にはそれが奇妙なくらい様になっていて、髪飾りの重みをもう一方の手で確かめながら「ふふ」とつい声を漏らして笑った。


 冗談めかすように肩を竦めた彼が、私の手の輪郭を確かめるように関節の目立つ指でなぞる。


 幸福と寂しさを滲ませた彼の青い瞳がアーベントの海を向いて、それから深い息が不器用に吐かれたのを聞いた。



次回簡潔です。

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