38 あの丘に向かって
――かーん、かーん、かーん……と、鼓膜を震わせる澄んだ鐘の音が街に響いて、泥濘に沈んでいた意識がゆらりと浮上する。
一体どれだけ眠っていたのだろう、と見上げた窓から射し込む日の光は、既に高い。
重い瞼を何度も瞬かせて欠伸を噛み殺し、ベッドから起き上がって冷たい床に爪先をつけた。
寝間着の胸元のボタンを外しながら足元に転がしていた旅行鞄を開き、そこからよそ行きの服を取り出して眠気も覚めないまま着替える。
腰を屈めて靴紐を結び、それから階下で何か食事でもとろうかと扉を開いた時、丁度廊下に人が通りがかって。
「あら――ダイアナさん、起きたの、おはよう」
「おはようございます、マーサさん」
六年前よりも小さくなった、その姿。
笑い皺を深く刻んだマーサさんに微笑み返した私は、膝の辺りまで伸びた髪を垂らして
「丁度良かった、もし時間がおありでしたら私の髪を結ってくださいませんか?」
と尋ねた。
「ええ、ええ――お食事はどうなさるの?」
「後でも構いません、こちらにどうぞ」
ドアノブに添えていた手を引き、マーサさんに先に部屋に入るように促す。
幼い頃から家の管理を任されている彼女の背丈を越したのはいつだっただろう。
この町を離れていた六年の間にぐんぐん伸びた背は、男子たちと遜色無いくらいに高くなった。
出ていった時のまま残されている部屋の化粧台の前に座り、埃が積もっていた鏡を手でそっと拭えば、眼帯をした無表情の女の像が目の前に現れる。
「背丈も髪も伸びましたね」と感慨深そうに呟いたマーサさんは、脇に置いてある櫛で私の髪を壊れ物を扱うように梳かし始めた。
「オリバーさんも大変ねぇ、ますます美しくなられちゃって」
「説得するのが大変でした、ひとりでアーベントの家に戻りたいと言い張っても駄目だ駄目だの一点張りで」
「どうして戻ってこられたんです? 大学も出られたことなんだし、そのまま首都に行けばよかったのに。こんなところ、戻ってきたって、ねぇ」
その問いに、鏡越しにマーサさんの手を見た。
水仕事で荒れた、どこかつややかな指が私の髪を梳かし、引っ張り、編む。
邪魔だろうと思って一度つけていた眼帯を外せば、あらぬ方向を向いた目玉と額の傷跡が露わになって。
「あの子に……ディランに会いにきました。それに首都に行く前に、もう一度だけ海を見てみたかったから」
「ああ――成程ねぇ、そういうことですか」
「ええ。今日は遅くなりますから夕飯は用意してくださらなくても結構です」
「分かりましたよ、と」
――本当は、もっと違う理由もあるのだけれど。
何度か瞬きして、顔の引き攣りの感覚を確かめる。
完全に使い物にならなくなった左の眼球の辺りは萎縮し、以前と同じようには表情を作れなくなってしまった。
この訳ありな容姿のお陰で大学でも軽んじられることはなかったけれど、華やかに笑う美しい町娘たちに対してずっと引け目を感じ続けている。
「……オルティスおじさんの小屋はそのままですよね? 後でそこに寄ろうかと思っていて」
「ええ、医学書だのはグレイソンさんに頼まれたから全部向こうに送ったけれども、捜査が全部終わったもんですから整理しておきましたよ――よしできた、それで何か必要な本でもあるんです?」
「あの小屋は私にとって大切な場所ですから」
仕上げに左右の釣り合いを整えようとしていたマーサさんの手が止まる。
口を一直線に引き結んだその表情につい苦笑して、「もう過ぎたことです」と上半身を捻って顔を向けた。
「貴女も伯父の被害者ではありませんか――貴女も私も、伯父が私たちを傷付けることを恐れるが故に互いを守れなかった」
そう、仕方がなかったのだ。
伯父が誰よりも優しかった過去を知り、彼が狂ってしまった経緯を知っている人たちは、皆私たちから目を背けた。
身体的な暴力は私だけに向けられても、悪夢に毎夜うなされては取り乱して暴れる伯父をなだめていたのは老齢のマーサさんだ。
最初から全てを知っていたはずなのに、掌を返したように同情してくる人々は信じられない。
生前は伯父を恐れて、それなのに彼が亡くなって直ぐに意気揚々と彼の私に対する仕打ちを告発しだして。
彼らは私たちの苦痛から目を逸らしたどころか、本当のことなんて何も知らないというのに。
「……小さい子を守れなかった大人が庇われちゃいけませんよ、保身に走っちゃって、ね」
「何度も手当してくださったではありませんか、こうやって髪も整えてくださることですし。ありがとうございます、してくださって」
そう言って椅子から立ち上がると、座っている時はずっと上にあったマーサさんの白頭が下になる。
小柄な彼女と背の高い私の身長差は大きく、以前よりも小さくなったように思える彼女の背中が余計に縮こまって見えた。
「もう行かれるんで?」
「ええ、軽く何か食べてから。遅くなると思いますけれど気になさらないでくださいね、必ず戻ってきますから」
そう眼帯をつけながら微笑んで、旅行鞄から新聞紙でつつまれたものを――あの巻貝を取り出す。
捜査が終わってから私の手元に戻ってきたこれを、リーベッツにいる間もずっと御守りのように肌身離さずに持っていた。
最初は忌々しくて手放そうと思っていたけれど、それでは優しかったサリーとエリーゼが報われない、だから伯父が眠る場所に埋めようと思って。
階下に下りて、軽い食事をとる。
庭の花壇には当然あの子の好きな季節外れの花は咲いていなくて、窓から見えるのは赤や黄に色付いた木々たちの大群。
うっすらと空にかかった灰色がかった雲の間から射し込む光が彼らを鮮やかに照らしていて、どうせなら、と、一度部屋に戻って薄い化粧をする。
すれ違っても誰にも気付かれないように帽子も深く被り、小屋の鍵を取って外に出た。
アーベントから出た日から今日まで、変わらない光景が私の目の前にある。
丘を下れば辿り着く中心部から聞こえてくる喧騒から外れた道を歩み、赤く染った森の中へ足を踏み入れた。
何回も何十回も何百回も人目を避けて通い続けた道は、何年過ぎてもこの体に染み付いて覚えている。
雨の日も雪の日も晴れの日も、いつ訪れても黙って私をあの小屋の中に入れてくれたオルティスおじさんのことが大好きだった。
あの夜を乗り越えられたわけではないけれど、あの頃のように自分を見失うことも無くなって、「ダイアナ」として生きていられている。
「ディラン」のように輪の中心になることはもうないけれど、姉に憧れるばかりだった出来損ないの妹はいなくなった。今はもう、昔のように人にも自分の感情にも嘘をついて振る舞うことはない。
昔よりも遠く感じなくなった道の先にある、トタンの青い小屋。
事件以来使われることがなくなったのだろう山吹色の屋根の集会所には伸び放題の草木が影を落とし、その更に奥まった場所にある小屋は尚更に酷い状態だ。
辺りには誰かが度胸試しか何かで侵入しようと試みた形跡が残っていて、私の目線と同じ位置にある小さな窓が石で割られている。
その窓から中を覗けば、隙間の多い空っぽな本棚が見えた――元々医学を学んでいたオルティスさんの本棚の大部分を占めていたのは医学書だったから、それは当然のことだけれど。
扉にかけられた南京錠を開けて中に入ると、風圧で舞い散った埃が雪のように浮かび上がる。
どこか湿気たような、重い空気。
何年も真暗闇の中にいたものたちがようやく日の目を浴びた時の、蒸気のように底から湧き上がってくる匂い。
一瞬躊躇して、けれど、と足を踏み込んだ床板が軋む。瞼の裏のこそばゆさに瞬いて、生活感のない整理された部屋を見渡した。
いつも物や本で散らかっていた机には何も置いていなくて、オルティスおじさんが編んでいた漁網はどこにもない。
何もかもが取り払われた木枠だけのベッドは骨のように横たわり、足場さえも無いくらいに積み上げられていた本は全て無くなっていた。
幼い頃はベッドと本棚の間にある僅かな隙間に体を挟み込んで本を読んでいたものだっけ――覗き見たそこは埃がうずたかく積もって、肩さえも入りそうにない。
『こっちに来な、そこで読んでたって碌に読めないだろうよ』
オルティスおじさんの背中越しに漏れる灯油ランプの灯りを頼りに本を読んでいた私を気の毒に思ったおじさんは、そう言って私をよく隣に手招いた。
気難しいと言われて怖がられていたおじさんは確かに短気だったけれど、本当の祖父のようにさえ思える存在で。
臆病だった私は誰かに頼るということも知らないで宙ぶらりんになってしまったけれど、私がおじさんを愛していたように、彼も彼なりに私を愛してくれていたということをもっと早くに知れていたなら良かったのに。
私が彼からの愛というものを知ったのは、彼が私のために死ぬと言ってくれた時だった。
片膝をつき、本棚の一番下に前後に二列に並べられた本たちの奥から一回り小さな、けれど分厚い手帳を取り出す。
これの扱いに困った彼がいつかの手紙で教えてくれた隠し場所。
愛らしい男女の子供が描かれている表紙に積もった埃を息で払って、頁を捲る。
『今日はおままごとをした。知らない人になりきるのは楽しくて好き』
『私もディランみたいになんでもうまくできるようになりたいのにな』
『お父さんが買ってきてくれた本がとても面白かった。お母さんは無理だって言っていたけれど、いつかお姫様になって綺麗なお城に住んでみたい』
子供らしい、日々の出来事や感じたことを連ねた手帳。
私が拙い文字を一生懸命に書いていた頃、ディランは既に大人のように綺麗な文字を書いていて、憧れに少しでも追いつくために書き始めたものだ。
当初は平穏で、けれどあの事件が起きて。何もかもが崩れ去り、ヘイゼルに出会って、ディランを殺してしまって、抱いてはいけない感情を抱いてしまって。自分を守るための嘘ばかりが上手くなっていって。
『眠るように死ねるならどんなに幸福なのだろう、どうして実の兄を好きになってしまったのだろう、どうしてあんな意地悪なんてしてしまったのだろう。死ぬのは私であるべきだったのに、ディランはあんな所で死ぬべき人ではなかったのに、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい』
――これは一番精神がおかしくなってしまっていた頃のもの。
乱暴に書き殴られたそれは私ですらすらすらと読めなくて、所々に滲んでいるインクと血の跡に指先を添える。
確かこれを書いた日、伯父さんが私を突き飛ばした時に棚か何かに鼻をぶつけてしまって鼻血を出したのだ。
泣きながら部屋に籠ってこれを書いた翌日、私はこの手帳を小屋に置き去った。
手帳を胸に抱き、立ち上がって裾についた埃を払い、帽子を被り直して小屋から出た。
途端に右目を刺した眩い光に足が止まる――薄暗い場所にいれば気付かない、豊かな世界の色彩。
明るい所にずっといても気付かないそれは、影と光があるからこそ際立って見えるもの。
涼しくなり始めた風が揺らした木々のざわめきは、こんなにも優しいものだったか。
「――……いかないと」
落としたものは拾わないといけない。それがどんなに小さなものだったとしても、少しでも価値があると感じるのならば。
叶うなら、次の生では木になりたい。
どこにも行けないけれど、代わりに優しい音色を全身に浴びられることだろう。
その平穏が許されるような人間であるかは分からないし、叶わない願いかもしれない。
けれど、少しだけ――少しだけなら、私をこの日まで生かした蜘蛛の糸のように頼りない希望に縋ってみるのもいいかもしれない、なんて。
そうすればいつかの死の先にある安らかな世界に辿り着けないとしても、全てを受け入れられる気がする。
空を仰ぎ、歩き出す。
手向ける花は無いけれど、あの丘に眠る愛おしい人に会いに行こう。
そうすればきっと、抱えた罪から逃げ出すことなく、全てと向き合えるから。




