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37 六年後


 六年後。


 夏が過ぎ去ったあとの、一日の終わりの訪れが早まりだす季節。


 体に吹きつける秋風はそれとなく冷たく、俺と友人は薄い外套のポケットに手を突っ込んで人波でごった返す通りを歩いていた。


 忙しなく行き交う人、人、車、車、車――やれ経済復興だ雇用の増加だのと声高に叫ばれて乱立した工場が排出する汚れた空気を吸った鼻の奥が痛い。

 地響きのように低く響く轟音と、下から突き上げるような小刻みの振動には、もう慣れてしまった。


「――なあボイル、そろそろ人肌が恋しくなる季節だと思わないか?」


 右隣を歩く背の高い友人、エルヴィス・オルダンが赤い鼻を啜ってぼやく。


 ハンチング帽を被り直した俺はそれに白々しく「さあな」と肩を竦め、植物の排除された寒々しい街並みに目を細めた――視線の先では何百人もの物乞いが路傍に寝転がり、施しを求めている。


 傷痍兵だったり孤児だったり、或いは失業者だったり。


 十年前には考えられなかった光景は、倒壊したまま放置された建物よりも戦争の傷跡というものを顕著に映し出していた。

 敗戦国となったこの国で生き残っていける者と、生き残れない者。多分、その間に大した壁は無い。


「人肌よりも次の試験の方が大事だ、前回の試験で追試寸前だったんだろ?」

「……寮に戻ったら法医学のレポートを参考にさせてくれたりしますかね、ボイルさん?」

「秋季休暇中に自分でやれ、同じことを頼んできた奴が他にも四人いるんだぞ」


 ――高等学校から五年制の医学部に進学して、早四年。


 「どうすれば出来るだけ多くの人を救えるのか」そう自問自答していたダイアナの言葉を自分にも当てはめ、医学を志すことに決めてから五年目になる。


 特別な人間ではないなりに必死になって机に向かっていれば、時間は溶けるように消えていった。

 あの日(・・・)から七年、俺自身は何も変わっていない。


 リーベッツの出身だというエルヴィスと親しくなったのは、単に一年の頃から同室だったからだ。


 好奇心に満ちた黒い目がせわしなく動き回っている様子を危なっかしいと感じたのが最後、社会不適合者なきらいのあるこの友人の世話をずっとさせられている。


「流石総合十ニ位様だな、俺なんか最下位から数えた方が遥かに早いぜ」

「具体的かつ誇るに誇りづらい絶妙な数字を出さないでくれよ。秋季休暇中アーベントに行くからお前の世話は出来ないんだからな、エルヴィス」

「アーベントに? アーベントってお前、わざわざ行く必要なんてあるのか?」

「あるから行くんだよ、昔の――ずっと昔の友人にようやく会えるんだ」


 「昔の?」素っ頓狂な声を上げたエルヴィスが濃い眉毛を上下に動かす。


 「お前にしては感傷的な言い方だな」そう訝しがる友人をいなして、「七年振りだからな」とわざとらしく鼻に皺を寄せて笑った。


 そう、ようやくダイアナと会える。


 先月に大学を卒業した彼女と、それもアーベントで――エストゥーサに来たがる彼女にそこで会おうと提案したのは俺だ。

 あの時に果たせなかった約束を果たしたいから、と言って、その後に一緒に首都に行こう、と手紙に書きつけて日時まで指定して。

  

「……もしかしてお前が夜な夜なにやつきながら見返してたあの手紙の送り主か?」

「変態じみた言い方はやめてくれるか?」

「女か?」

「だったらどうする?」

「俺はお前を許せないな、抜け駆けしやがって。だから女物の店の前にあんなに長居してたのか……妙だと思ったんだ、お前みたいな顔で女に群がられておきながら恋人がいないなんて」

「ああ、有難いことに良い感じの髪飾りを手に入れさせてもらった。悪いなエルヴィス、お前にも春が来ることを願ってるよ。今度こそ俺目当てじゃないまともな女と付き合えるといいな」


 高揚する気分に、自然と口角が上がる。

 分かりやすく悔しがるエルヴィスを相手に悦に浸って、片手に持っていた紙袋を見せつけた。


 父が敗戦をきっかけに軍から離れてからは自分の生活費や学費を工面するために家庭教師の仕事をしていて、そこから切り詰めて貯蓄した分で買ったのだ。自分の審美眼がまともならダイアナも気に入ってくれることだろう。


 普段使いのできる小ぶりな、けれど彼女に似合いそうな花を模した品のある髪飾り――それをつけた彼女が微笑むのに、稼働し続ける工場が吐いた煙で不透明な空は相応しくない。


 かんかんと金属で金属を打ち付ける音、火花が散る音、鳴り止まない地響き、飛び交う怒鳴り声、資材を持って道を走っていく少年労働者。


 復興への活力に満ちたこの街は、でも、忙しなく過ぎていく時間への恐怖を絶え間なく駆り立ててくるような気がする。


「……お前みたいなのが好きな女ってどんな美人なのか気になるな、俺の憧れのメアリーちゃんからの誘いも断ってたろ」

「メアリー・スミスの評判は最悪だぞ、お前の女の判断基準は顔だけか? だから碌な女と付き合えないんだよ、大事なのは心だ心」

「うるせえな選び放題のお前に俺の気持ちは分かんねぇよ、いいなあ、俺も首ったけになれるくらい魅力のある女と付き合いたいや」

「女を作る努力より留年をしない努力をしろよ、フォスターなんか一年の時にはほぼ最下位だったのに今は三十位以内だぞ、お前も来年同期と卒業旅行に行きたいだろ? お前もやれば出来るって――入学試験で上位だったってうざったいくらい自慢してたじゃないか」

「過去の栄光だよ過去の」


 今の生活を失いたくない、と思う。同期の友人たちとああだこうだ馬鹿みたいに言い合って、格好つけずに素の自分を晒けだして、試験対策に難儀し。


 世界を変えられるような特別な人間にはなれなくても、この日々を送るために生まれてきたのだ、と胸を張って言える。何気ないことを幸せだと思えることが、一体どれだけ恵まれていることか。

 

「……それでどんな女の子なんだよ、え? アーベントに行くってことはそこ出身の子か?」

「ああ、臙脂色がよく似合う綺麗な子だよ。頭も良い」

「名前は?」

「言う必要あるか?」

「アーベントならもしかしたら俺の遠い親戚かもしれないだろ」

「そうだったとしても知りたくない、いずれ紹介することもあるかもしれないからその時に自分で聞け」

「冷てえな、そんなに酷いこと言う必要ある?」

「ある」 

「辛辣じゃねえか」


 気の合う人間とふざけて笑いあって、豊かではないなりに砂時計が尽きるまで必死に生きる――素晴らしいじゃないか、苦しみも悲しみも喜びも全部引き受けてやろう。

 先の見えない暗闇の中に灯る僅かな光を頼りに歩き続けた先にある光景を、俺は見たいのだ。


 落ち込んだこの国の未来がいずれ開かれることを信じる人々の希望の光というもの、その根底にある残酷な現実。


 声を出すことも叶わずに摘み取られていく幼い命だってある。

 ダイアナは、彼女は――その現実を正しい方向に導けるように政治を志すのだ、と言っていた。

 

 周りに男しかいない環境で、特徴的な容姿もあって色々とものを言われることは多いけれど、でももう一度失った命なのだから何も恐れることは無い、と。

 

「お、あそこに凄い美人がいらぁ」

「どうせまたメアリー・スミスみたいな金髪碧眼だろ」

「大正解、俺はエイヴァ・レナンみたいなのが好きなんだ。あの女優目当てで今月に入ってから国立劇場に三回も観に行ってね、あれは全男の理想だろうなぁ」

「お前正気か? 金欠でまともにものを食べれてないって言ってたろ、ポスターと見つめ合ってろよ」

「無理無理、俺は生のエイヴァを見たいんだ。お前だってその女の子からの手紙を読んでるだけで満たされるのかってのと同じ話だよ」

 

 調子よく笑うエルヴィスが俺の背中を叩く。その肩を突き飛ばし返して、ようやく見え始めた寄宿舎の壁に視線を移す。


 人の多い大通りから外れ、一気に人気の無くなった道を直進し、小さな郵便局で左折する。

 空襲で焼けた後に再建された寄宿舎は新しかったが、白い壁と臙脂色の屋根は既に薄汚れていた。


 門をくぐろうとした時、向かい側の道から実習で一緒の班で仲の良いヘンリー=ルーカス・ブラウンが歩いてくるのが丁度見えて、片手を上げる。


 エルヴィスも彼に気が付き、陽気な顔で


「ようヘンリー、お前の片手に持ってるのは今月発売のあれ(・・)か?」


 と声を張り上げる。


 「あれ」とは、無類の数学好きのヘンリーが本業もそっちのけで解いている最難関の数学の問題を集めた月刊誌のことだ。


 それだけ数学が好きなら数学科に入ればいいものを、親の病院を継ぐ必要があるから、と医学科に渋々入ってきた彼は、何か腹立たしいことがある度にそれを解いて悦に浸るのが生き甲斐らしく、変わった人間ではあるが案外良い奴なのだ。


「そうですよ、エルヴィスも解いてみます?」

「いや、俺はいいや……っていうかお前もう一冊持ってるけど政治に興味あったっけ、それ政府の機関誌だよな?」


 驚いたように目を丸くしたエルヴィスがそう言って雑誌を二冊持っているヘンリーを指さすと、眼鏡の奥の榛色の目がにやりと笑った。「興味のある記事があるから買ったんですよ、歩きながら見ません?」

 

「お前らしくないな、数学にしか興味が無いのかと思ってた」

「僕だって世間の流れには敏感であろうとしているんですよグレイソン、ほら、エルヴィスもここ――共栄党のオリバー・クリフっていう最年少で下院議員に当選したのがいるじゃないですか、その秘書官に彼の妹が就任したんですと。一時期世間を騒がした彼女ですよ、彼女、覚えてます? 田舎の闇がどうのこうのっていうあれですよ。残念ながら顔写真は載ってないみたいですけど、時代も変わったものですねえ」

 

 ヘンリーが見せつけてきた記事に動揺しないように平静を装い、「凄いな」と素っ気なく返す。


 抜群に若く美男で有名なオリバーを特集したらしい記事で、彼の妹も片手で数えられるくらいしかいない女議員を目指すらしい、という話だ。

 七年前の事件の詳細すらゴシップ紙のように書き連ねられていて、最難関とも呼ばれるリーベッツ大学の法学科を女でただ一人、それも自らの力で特待生の座を掴み取った上で卒業した「隻眼の女傑」だなんて称されていて。


「へー、虐待だのなんだので相当問題になったやつだろ? オリバー・クリフの妹なら相当な美人なんだろうな、顔写真も載せてくれりゃいいのに」

「顔を出したくないんじゃないですか? 彼って女だったら濃すぎる顔じゃないですか、案外不美人だったりして。顔に大きい傷があるのかもしれないですよ」

「好き勝手言うなよ、彼女のことを何も知らないのに」

「なんだよボイル、らしくないな、そんな顔して……待てよ、まさか――」

 

 察したエルヴィスが、あっと目を見開いた。


 眉間に皺を寄せた俺は「その通りだよ」と首を振って。


「俺は明日そのダイアナに会いにいくんだ。政治をするのに顔なんてどうでもいいだろ? 大事なのは心だよ心、あとダイアナは俺にとっては世界一綺麗な女だからな」

「アーベントのお嬢様とどうやって知り合うんだよ……」


 げえとエルヴィスが舌を出し、何も知らないヘンリーが焦ったように


「どういうことです? この人がグレイソンと知り合いですって? それも会いに行くとは?」


 と薄茶の頭を振り回す。


 その頭に向かって「七年振りに想い人に会いに行くんだ」と早口で言い切って、それから今度はエルヴィスに向き直った。


「アーベントで一時期暮らしてた時に知り合ったんだよ、そこで意気投合してさ」

「それじゃあ事件の時はどうしてたんだ?」

「普通に過ごしていたら大事件が起きていた、これでいいだろ? 取り敢えず明日朝早いからさっさと夕飯でも食べて部屋に戻ろう、五時起きなんだよ、夕方までにはなんとかしてアーベントに着きたいから」


 これ以上の詮索を避ける為に、広い背中を強く叩いた。

 大仰に肩を竦めたエルヴィスが「仕方ないな」と頭を描き、ヘンリーに向かって「今日の献立何か知ってるか?」なんて呑気に声を掛けて。


 地面に貼り付けられた金属板を靴で鳴らし、寄宿舎へと足を踏み入れる――あと一日。


 あと一日で、ダイアナと会えるのだ。



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