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36 いつか帰る日


 何事もない日々を、時は穏やかに運んでいく。季節が移り変わって木々が赤い葉をつけ始めた秋に、ダイアナは兄と共にアーベントを去って行った。


 それから冬が過ぎ、絶えていた緑が再び芽生え始めた頃。終戦を告げる電報が、飛び込んできた。


「――あーあ、結局この国は敗戦国になっちまったってわけか」


 昼下がりの陽光が射し込む居間のソファに深く座った叔父が、そう溜め息をついて折り畳まれた新聞を机に叩き付ける。


 電報がアーベントに届いてから一日遅れのそれには、白抜きの文字で大きくこの国の敗戦を知らせる言葉が書かれている。その次には政府や軍部に対する批判が長々と連ねられていた。


「グレイソンも読んだか? カジュド地方が皇国に併合されるんだと。あそこは無学な俺でも重要な地域だって知ってるってのに」

「元々そこの領有権を争っての開戦でしたからね。賠償金もどうなることだか。まだ詳細は公表されていないんですよね?」

「どうせこの政府のことだ、碌でもない額をふっかけられて俺たちからまた税金を搾り取るんだろうよ。グレイソン、もし政治家になるつもりなら頼むから今の与党には入党しないでくれ」


 一年近く一緒に過ごす内に口数が増えた叔父は、政治のことになると饒舌になるらしかった。

 叔父の前に腰を下ろし、友人に会いに行った叔母が朝に沸かしていた紅茶の余りを注いだカップに口を付ける。


 安い茶葉ではあるけれど、叔母はかなり紅茶の味にこだわりがあるらしい。冷めてはいるものの飲む時に喉に引っかかる感じはしなかった。


「社会福祉は手厚い方がいいと思います?」

「少なくとも教育は充実させるべきだな、これからは勉強の出来る人間が上に行く時代だ。漁をしようにも規制が前よりかかっているし、ここで生計を立てられない人間はこれからいくらでも出てくる――子供たちを教えているお前なら分かるだろう、アーベントの若いのは体力自慢ばかりで馬鹿ばっかなんだ。小難しい文字が読めるだけの俺が賢い側の人間になるような場所なんだぞ」


 よく鍛えられた腕を組んで不満を語る叔父が伸びた髭を撫でる。

 叔母も懸念していた話だ、アーベントの教育が現状のままでいい筈がない。


 草に覆われだした庭で騒いでいる三兄弟が居間の窓から見えて、そちらに顔を向けた叔父が「あいつらが生きやすい世の中になって欲しいんだ」と黒い目を細めて呟く。


「そうだ、終戦ってことはお前が首都に帰る日も近いってことか」

「……そうですね」

「クリスさんが無事だといいな」


 父の名前を出した叔父は心から俺を心配しているようで、紅茶を飲む手を止めた俺に向かって「大丈夫か」と腰を浮かせた。


 敗戦国の将軍級である父は、今後どうなるのだろう――不穏な報道が出始めた頃から考えていなかったわけではないが、いざ目の前に「敗戦」という文字を突きつけられると、手が震えてくる。

 生きてさえいてくれればいい、父と二人で暮らせるならそれでいいのに。


「生きて帰ってくれるならなんでもいいですよ、手足が無かろうが、戦争犯罪人として裁かれようが――それだけでいいんです」


 揺れる琥珀色の水面に映る自分の強ばった顔を見て、カップを机の上に置く。


 気不味そうにしている叔父に「前線で多くの兵士の命を扱うんです、それが指揮官の責任というものですよ」と首を横に振り、


「首都も空襲を受けたようですからね、まず家が残っているかどうか」


 と肩を竦めた。


 この国が降伏に踏み切った契機は、五万人の犠牲者を出した一ヶ月前の大規模な首都への空襲だろう。

 

 アーベントやリーベッツのように軍事工場のない中規模以下の都市は戦前とさして変わらない生活が送れていたものの、エストゥーサは違った。

 郊外にある軍事工場を狙った攻撃は俺が首都にいた頃からあったし、その度に死者も出ていたのだ。


 戦線も突破されるばかりだというのに、それでも戦争を継続しようとしたこの国に業を煮やした皇国がとどめを刺す形で首都への空襲を決行した。


 政府の重鎮も決して少なくない人数が亡くなり、焦った政府と軍部は遂に不利な講和条約を受け入れたのだ、と、聞く。


 だから俺が母と一緒に暮らしていた家があるかどうか分からない。

 首都に留まっていた仲の良い同級生も、もしかすると犠牲になったのかもしれないのだ。


「……もしなにかあればここに留まりなさい、生活が安定するまでは援助する」

「いえ、高等学校が無事なら何があっても向こうに行こうと思います。自学では限界がありますし、これ以上叔父さんたちの優しさに甘えるわけにもいかないので」


 息を吐き、それから一気に紅茶を飲み干した。


 騒がしくて愛に溢れたこの家族とこれ以上一緒にいれば、もう首都に戻れなくなってしまう。そうなる前にここを離れなければいけないのだ。


「一度荷物を整理してきます。多分一ヶ月は先になるでしょうけど、いつでもここを発てるように。この家は俺にとって居心地が良すぎるんですよ」


 「嬉しいのか嬉しくないのか分からないな」そう困ったように首を振った叔父に「本当の家よりも家らしく思ってます」と告げて腰を上げ、居間を出た。


 カップを片手に掴んで台所まで行き、朝の分の汚れた皿が並べられている横にそれを置く。


 エルジオたちが庭から家に入って走り回っているのを振動で感じながら廊下に出て階段に足をかけようとした時、速く走れるようになったジェフがいきなり俺の足元に飛びついてきた。


「うわっ!?」


 全く予想していなかった攻撃に咄嗟に右腕を前に出し、階段の角の部分に肘と左の脛を強打する。


 あまりの痛みに目の前に星が散って、声も出せずに喉奥で唸りながら床に蹲ると、焦ったエルジオが「なにしてんだよ!」とジェフを思い切り叱りつけるのが聞こえて。


「階段を上ろうとしてる時は普通ナシだろ、そういうのやっていいのは廊下とか外を歩いてる時だけだって! レオナルドだって階段ではそういうのやってこないんだぞ!」


 どんな時も人の足元に不意打ちで飛びつくものじゃないだろう、と言う気力も無く、「ごめんね?」とおろおろした様子で手を合わせて俺の顔を覗き込んできたジェフに「大丈夫じゃない」とだけ溜め息を返す。

 万一顎も強打していたら脳震盪を起こしていたかもしれないのだ、可愛らしい仕草で許しを乞うジェフに甘くなってはいけない。


「うーわ、やってやんの! グレイソン立てる?」

「今はちょっと立てそうにないって、本当にまずいんだよこの痛み」

「腕すごい赤くなってんじゃん! 痛そー」

「お前本当に俺の心配してるのか? 人が苦しんでるってのに楽しそうだな」


 けらけらと笑っているレオナルドの人格を疑いつつ、痛みを堪えながら一旦座り直した。


 階段に腰掛けてズボンの裾を上げてみると、予想通りと言うべきか酷く赤くなっている。肘もレオナルドが言うには赤くなっているようだし、暫くはほんのちょっとした動作にも痛みで苦しめられることになるだろう。


 もう一度息を吐いて、両膝に肘をかける。ジェフに怪我が無いのはよかったけれど、もうそろそろ善悪の判断がつく年頃だからここで叱っておかないといけない。


「……いいかジェフ、人が階段を上ろうとしてる時や何か作業をしてる時には危ないから後ろから飛びついたりしちゃいけない。もし叔母さんが包丁を持っていたりお湯を使って料理している時に同じことをしたらこの程度じゃ済まなくなるぞ、叔母さんもジェフも大怪我するかもしれない。痛いのはジェフも嫌だろ?」

「うん」

「今度からは用がある時はいきなり飛びつくんじゃなくて、一声かけような。楽しい気持ちは分かるけど、それより大事なことだから」


 神妙な顔をしたジェフが頷く。


 多分分かってくれたはずだ、と一安心してまだ痺れている腕を回し、手を握ったり開いたりする。大丈夫、どこも折れていない。


 それから立ち上がって今度こそ階段を上ろうとした時。


 丁度玄関から買い物籠を腕に提げた叔母が入ってきて、俺と目が合った。


「あれ、なにしてんのあんたら、そんな所で集まって」

「ジェフがグレイソンの足を引っ張って怪我させたんだよ!」

「はあ!? ったく、なんでまたそんなことしてんの! 一人くらいは人に優しくなろうって子はいないのかい!?」

「いや、もう俺が叱っておいたんで……」

「本当に悪いねグレイソン、ジェフったらあんた相手になら何してもいいって思ってんだ」


 呆れたように顔を顰めた叔母が突っ立っていたジェフを片手で抱き上げ、買い物籠を台所に置きに行く。


 エルジオたちもそれについて行って、まだ打撲の痛みに苦しめられている俺は取り残されて項垂れた――歩けるけれど歩きたくない、出来るならずっとここに座っていたかったのだ。


「ああそうだ、グレイソン、あんた宛に手紙が届いてたよ」

「……俺に?」


 思考に沈み込んでいると、丁度思い出したように声を上げた叔母が台所から顔を出して俺を手招いた。


「義兄さんからのじゃないけどさ、あんたからしたら嬉しい人のだよ」


 左手にありふれた簡素な封筒を持ってひらひらと手を振る叔母は何故か意地の悪い笑みを浮かべている――それに渋々立ち上がった俺は、脚を引き摺って台所まで歩いて行き。


「なら誰からのです?」

「見れば分かるよ、ほら」


 手に押し付けられた手紙を受け取ってひっくり返し、差出人の名を確認する。

 そこに流れるような筆記体で記されていたのは、ダイアナの名前。


 慌ててその封を切って中の便箋を取り出して見てみると、文通をしないか、今の住所はここだから、という旨のことが書かれていて。 


『貴方に救われたこの命が尽きる日まで、私はもう二度と自分を偽りたくないのです。どうか貴方に再び会える日に告げる言葉が、私たちの間を繋げてくださいますように』


 一気に気分が高揚して顔が熱くなるのを感じて、叔母に背を向けた――上がった口角を隠そうと口元を押さえ、でも、目敏い叔母がそれに気づかないわけがない。

 「ダイアナちゃんはなんて書いてたんだい?」なんて面白がるように俺の肩に手を置いてくるのだ。

 

「……別に大したことじゃありません」

「大したことじゃなかったらそんなに耳を赤くするわけないだろ? 大方いい感じのことでも書いてあったんだろうけどさ」

「俺をなんだと思ってるんですか、それ以上揶揄わないでくださいよ」

「ごめんごめん、あんたって分かりやすいからついね。人を騙すことにはとことん向いていない人間だ」


 褒められているのか貶されているのか分からない。レオナルドと同じ笑い方をする叔母は「ほら、ちゃんとしまってきな」と俺の背中を押して。


 廊下に突き出された俺はひとり、階段を上って部屋に戻る。

 ベッドに飛び込むように転がると、脛の骨の奥が傷んだ。


 ダイアナからの手紙を窓に透かせば、あの日の約束が鮮明に蘇る――早く時間が経てばいいのに。

 堂々と彼女の手を取れるような人間となり、共に歩んでいける日が現実になるのはいつ頃か。


 ベッドの横に置いていた旅行鞄に腕を伸ばし、指先の感覚だけでそれを開け、中にその手紙を放り込んだ。

 代わりに叔父から貰った懐中時計をズボンから取りだし、胸に抱く。


 懐中時計に繋がれた紐は、ダイアナから渡された髪を折角ならと編んだものだ。叔母たちに妙だと不審がられはしたけれど、黙っていればそれで終わりだ。


 もう見慣れた天井を見上げて、それからゆっくりと瞼を閉じる――一ヶ月後、軍から離れることになった父は俺を首都の新しい家に呼び寄せたのだった。



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