35 もういいのかもしれない
一か月前となんら変わりない、異様に重苦しい憂鬱な空気。
その中をひとり、感覚を頼りに一歩ずつ歩を進めていく。
なんとなくこの辺りだろうか、と思いながら、返事が返ってくることを期待してヘイゼルの名を呼んだ。
静まり返った森の中に自分の声ばかりが反響して、その虚しさにむしろ口角が上がる。
存在さえも不確かな二人に会いに行くのだから仕方ない、確信が持てる瞬間を待ち続けるだけだ。
「もしいるのなら姿を見せてくれよ、話したいことも聞きたいこともあるんだ」
ひとりだというのに相手がいるかのように声を張り上げ、低い枝をくぐったり倒木を乗り越える。
実際にオルティスさんの小屋やヘイゼルとダイアナの日記の扱いについて、尋ねなければならないことがいくつもあった。
警察の手が入る前に勝手に小屋から持ち出した日記は今は旅行用の革鞄の中にしまい込んでいるけれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
手放すにしても誰かに渡すにしても、ヘイゼルの意向を大事にしたかった。
それにダイアナの現状や今後のことだって伝えなければいけない、彼女のことを本当の肉親のように大事に思っていたヘイゼルにとって、それが一番気掛かりだろうから。
蛇のように地面を這う木の根に足をとられ、つんのめって前に足を強く踏み込む。
がくんと折れた片膝に嫌な衝撃が走って「げ」と思わず声を漏らした時、不意に周囲の気温が一段階下がって。
――ああ、ようやく。ゆらりと揺れた影が、視界の端を横切る。
「お久しぶりですね」
誰にも弔われることのなかった、哀れな、けれど気高いその人――穏やかな笑みを浮かべたヘイゼルが、膝に手をついた俺に手を差し伸べた。
青空から降り注ぐ陽の光に透かされた、金色を帯びて輝く長い赤毛が揺れている。
白く透けた産毛も、色素が極端に薄いヘイゼルの姿を一層儚くさせた。
「……ああ、一ヶ月振りだな」
「ええ、もういらっしゃらないのかと思っていました」
「勇気が無かったんだ」そう首を振って肩を竦め、彼女の手を取ることなく膝を伸ばす。まともに衝撃を受けた足には、まだ違和感があった。
「勇気、ですか」
「顔を合わせられる気がしなかったんだよ、本当に俺が知っても良かったのかってことばっかりだったから」
驚いたようにヘイゼルが瞬く。
それから間を置かずにふふ、と声を出して心底可笑しそうに笑った彼女は、
「そんなことを気にされていたのですか? 貴方が知るべきではないと思っていたら止めています――あの悲劇を二度と繰り返さないためにも、貴方のようにアーベントの外からいらした方々にもこのことを知っていただきたいと思っていました」
と、薄い眉を下げた。
「私はとうに死んだ身。かつての秘めた言葉も、私にとっては最早明かされても構わない話です。それにあの子だけが知っているのは可哀想ではありませんか、グレイソン、貴方の優しさに頼りきりでごめんなさいね」
「……ヘイゼルがそう言うならそうなんだろうな。オルティスさんはどうしてる?」
彼女が気にしていないのなら、という単純な話ではないけれど。
それでもまるで少し真剣な世間話のように語るヘイゼルの様子を見るに、悲惨な出来事も今や過去でしかないのだろうか。彼女自身のみならず、幼い娘まで殺されたと言うのに。
「オルティスは死者の国にいます。何か伝えたいことでも?」
「オルティスさんは普段は向こうに?」
「ええ、楽しんでいらっしゃるようです。向こう側の方が多文化ですもの、美術に関心のあったオルティスにとっては非常に興味深いようでして」
「……そうか、ところでヘイゼルはいつまでここにいるんだ? ヘイゼルもあの塔に上れるんじゃないのか、碌なのに生まれ変われなくったって、ここにずっといるよりは……」
そう尋ねると、彼女は「そうですね、そろそろ考えないといけないのかも」と困ったように微笑んで、金色の睫毛を伏せた。
迷いのある、けれど愛情に満ちたその表情。
失言だったと思ったけれど、彼女は俺の問いかけを真剣に考えているようだった。
「私はこれまで四人のクリフの血筋の命を奪いました。この辺り一帯の管理人としてルーヴェに認められていても、次の生は良いものにはならないでしょう。けれどもういいのかもしれませんね、一歩踏み出してみても」
「ここで永遠に過ごすことはとても辛いことですから」そう囁いた彼女が洞窟のある方向に視線を向ける。
地底へと続いていくそこに、日の光が射し込むことはない。そこにあるのは無惨に殺された哀れな親子の怨念だけで、あとはもう。
悲しみを受容した空色の瞳がゆっくりと瞬いて、それから俺を見た。
小柄な彼女が自分よりずっと年上だと知っても尚、出会った時のまだ十代になったくらいの少女の姿の印象が強く、まるで同年代と接しているような気持ちになる。
あれはきっと、俺が彼女に警戒心を抱かないように、とヘイゼルが調整した姿だったのだろう。
「ところでダイアナの様子はどうですか? あの子ったら酷い怪我をしていたでしょう、もうここには来ないと約束させたものですから、あの子のことは貴方に聞くしかなくて」
「は? もう来ないって?」
聞き捨てならない言葉に、つい前のめりになって問い返す。
すると彼女は「ええ」と、当然のように軽い調子で頷いて。
「生者と死者が交わるべきではありません――グレイソン、それは貴方だってそう。もう全てが終わったのです、貴方が死者の国に再び訪れる日までこの記憶は眠らせておきなさい」
「なんで――」
「ディランが亡くなった遠因は私にあります。私があの子たちの面影に娘を重ねさえしなければ、二人は今も手を取り合いながら生きていけていたはず。ディランは……あれは単なる事故ではありません、あの子は確実に死から逃れることができました。ダイアナは窓から出るための確かな足場も用意していましたし、冷静なディランがそれに気付かないはずがありません」
ヘイゼルの言っている意味が分からない。
ディランが炎の中で苦しみながら死んだ原因がダイアナにあることは明白で、だから彼女はあんなにも苦しんでいるんじゃないのか。
彼女が自死を選ぶまで追い込まれたのも、それが大きかったはずだ。
そう思っているうちに、考えていることが顔に出ていたのか「貴方は勿論ディランのことを知らないでしょうが」と、嫌味混じりに念を押される。
「あの子は我儘で傲慢なところはあるけれど、それに足る賢さを持っている子でした。ですからあの子が塔に上る前に尋ねたのです、『どうして逃げなかったの』と。そうしたらあの子はあっけらかんと笑ってこう言いました――『貴女の存在が私に次の生への期待を持たせた、だから逃げなかったのだ』と」
深い悲しみを孕んだ瞳が、間抜けに口を開いた俺を見上げる。
ヘイゼルの言葉の意味を、容易に呑み込めなかった――それが意味することはつまり、ディランが自らの意思で死んだということだ。
ダイアナが彼女を殺したのではなく、彼女はその状況を利用して。
「私の存在はこの世界で苦しむあの子たちに『死の先にある幸福』を教えてしまった。ディランは現実主義的な所がありましたから、幼いなりに焼け死ぬ苦痛よりその幸福を選んだのです。あの子はダイアナと違って片割れに深く依存することもなかったものですから、ひとりでも何の問題も無かった」
「じゃあなんでそれをダイアナに言わないんだよ、言ってやればいいじゃないか、あんなにディランを殺したんだって苦しんでるのに」
「そうすればあの子はあの洞窟の中ではなく、取り返しがつかない方法でディランを追おうと命を絶ったことでしょう。死ねばディランとまた以前と変わらない関係性で会えるという明るい勇気をダイアナに持たせてはならなかったのです――そうなるくらいなら絶望の中でも生き続けて欲しかった。いつか貴方のような希望が訪れるかもしれないのですから……どうか私のようにはならないでほしくて」
「これ以上娘に似ているあの子たちの死を見つめたくなかったのです」そう言うヘイゼルは微笑んではいたけれど、彼女が重い罪の意識を抱えていることは明らかだった。
だからもう関わるべきではない、というのか。
死者の世界のことは忘れ、現実の幸福を噛み締めながら生きるべきだと。
「……ダイアナは失明したよ、でも未来に向けて努力しようとしている。そういう意味ではヘイゼルが正しいんだろうな、必要以上に苦しまなくてもいい人間が酷く苦しんだとはいえ」
握る拳に力が入る。
どうすればいいのか、という問いに、確実な答えがあるわけがない。
苦しみからの解放や幸せを求めて死ぬのも生きるのも、所詮それぞれの価値観でしかないのだ。
けれど、この世界と地続きの場所に無数の死者の国があるとして、置いていかれる側の人間はどうなる?
家族や友人、大切な人を失った側の人間は、死者の国なんてものがあることも知らずに悲しみの中で生きていかなければいけない。
そもそも親しい人たちと再会できるかも分からない死者の国に行くこと自体、「幸福」であるといえるのかどうか。
俺はそれを「否」と捉える側の人間だ。
世の中にはそれを肯定する人間も多くいるだろうし、自分の価値観を押し付けたいとも思わない。ただ、俺は。
「ヘイゼル、俺ももうここには来ない。俺は……今生きているってことを大事にしたいんだ」
例えそこに何も無かったとしても、家族や愛する人たちと絶え間なく変化し続ける世界で過ごしたい、と思う。
あそこも現実と大して変わらないのだ、大罪人は徹底的に穢れた場所に隔離されて、それなのに空気だけは異様に澄んでいて。
一見美しい理想郷に見えても、耐え難い何かがそこにはあった。
ヘイゼルが憑き物が落ちたように笑う。
「そうしてくださいね」そう目尻を赤くした彼女に、どうしてかダイアナの姿が重なって見えた。
二人の血は繋がっていないはずなのに、まるで二人は親子、否、それ以上の関係性に思えて。
「……あの日記はどうすればいい? オルティスさんの小屋のことも出来れば本人から聞きたかったんだけど、向こうに行かなきゃ会えないんだろ?」
「それは貴方の好きになさってください。オルティスのものは、そうですね、彼のことですから貴重なものも多くあるでしょうし、然るべきところに引き渡すことが一番だと思いますが、貴方の役に立つものならどれも持ち出してくださって結構です」
「分かった、俺の方でどうにかしておく――それじゃオルティスさんによろしく伝えておいてくれ、ここに来なくなっても二人のことは絶対に忘れないからって。俺は絶対に忘れない、忘れるわけがない」
空と同じ色の瞳が、大きく見開かれる。
「忘れろ」だなんて、到底受け入れられるはずがない。
二人の存在を無かったものにしたくないのだ、一体俺以外の誰が彼女たちの存在を覚えていられる? 誰からも弔われない亡霊は、誰からも愛されなかったわけじゃない。
「……そうですか。長生きしてくださいね、グレイソン」
困ったような、けれど優しさに満ちた声。
本当に――本当にどうしてヘイゼルがこんな目に遭わなければいけなかったのだろうか。
彼女は幸福になるべき人で、こうも全てを奪われて滅茶苦茶にされてはならなかった。
もう二度と繰り返してはならない。
ヘイゼルのように大衆の悪意に押しつぶされ、不当にその命を摘み取られてしまうようなことは、決して。
「言われなくても百年は生きるさ。そうだ、ヘイゼル、亡くなった娘さんの名前もどうせなら教えてくれないか? 嫌ならいいんだ、俺が勝手に俺なりの方法でその子のことも弔いたくて……」
もしかするとこの問いは彼女を傷付けてしまうかもしれないけれど。
そう思って目を伏せようとした時、彼女が愛情深く微笑んだのが見えた。
不意に吹いた柔らかな風が、その美しい赤毛を揺らして。
「娘のことまで気にしてくださってありがとうございます。その子たちの名は――」




