34 何者かになれなくても
貴方の隣を私の目指すべき場所にしてもいい?――そう声を震わせて尋ねたダイアナの言葉を正確に解釈するのに、少し時間が必要だった。
「それ、は……」
声が喉につかえる。
その言葉を自分の都合の良いように捉えても、いいのだろうか。
彼女の瞳の向こう側にある感情も、その心が向いている先のことも。
深く吸い込んだ空気に、潮の匂いが混じる。
芽生えた光が二度と潰えることがないように、と望む浅く振動する胸が、僅かな痛みを訴えた。
「――私、体が落ち着いたらリーベッツに行くって決めたの。オリバーがね、お前にはその資格があるんだからって教授さんにまで取り合ってくれて……それで教授さんと色々話し合ったら、大学の付属の高等学校の女子部に編入させてもらえることになって」
思いがけない話に、思わず目を見開く。
高等学校の勉強を教えて欲しい、と俺に頼んでいた彼女がより良い教育を受けることを望んでいるのは知っていた。
ゼフの狂気じみた支配から開放された暁には、きっとその道を目指すのだろうとも。
けれど、それはまだ時期尚早なのではないか――ダイアナの表情には長年の望みが叶った時に覚える喜びというものよりも、焦りや不安といったものが強く滲んでいるように見える。
「それだとまだ早いんじゃないか、中途編入でそう簡単に追いつけるとは思えない」
「凄く苦労するとは言われた、寝る間も惜しんで遅れを取り戻さないといけないって。でもオリバーが特待生だったから妹の私も多少は学費を免除されるみたいだし、なにより教授さんが私に才能があるって思ってくれてるの。いつもオルティスおじさんの家で色んな本を読んでいたのが功を奏したみたいでね」
そう眉尻を下げた彼女が微笑み、温い風が揺らした上着を胸の前で強く掴む。
「色々考えたの、これからのこと」囁かれた言葉は、悲壮な響きを持っていた。
「私は誰かを助けられる人になりたい。明確な目標はまだ立てられそうにないけれど、少しでも多くの人を救うことができる道を選びたいの。だからリーベッツの高等学校から大学に進んで、そこを卒業して……それから首都に行く。法学を志すにしても、医学を志すにしても、それとも違う道を志すにしても、首都の方が選択肢がずっと多いだろうから。それから首都に帰った貴方に会いに行くの――貴方の心が変わっていなければ、その時はどうか隣にいさせてくれる?」
懇願するような、壊れかけの声。
本当にそれが彼女の望みなのだろうか――否、そうであることは確かだろう。
多分ダイアナは濁流のように変遷していく環境に適応しきれていないだけで、あとは、きっと。
一度深く息を吸い込んで、確かな確証を得たがっている彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「心変わりなんてするものか、もうダイアナ以外の誰も眼中に無いんだ」
そう言うと、ダイアナがあは、と、張りつめていた糸が切れたように声を出して笑った。
朱色の頬の輪郭をなぞった涙を親指で拭い、「信じてるからね」と、歓喜に震えた言葉を落とす――それから部屋の中に体を戻した彼女は、鋏を片手に持って再び顔を出した。
絹のような髪を耳の後ろから一房とり、鋏を当てる。
躊躇うことなくそれをばさりと切り落とした彼女は、それの端を臙脂色の紐で縛り、窓から思い切り身を乗り出して
「貰ってくれる? ここにいる間はきっともう会えないから……」
と、唖然としている俺に向かってそれを垂らした。
躊躇いながら受け取ったその髪の束とダイアナの顔を何度も見比べ、そういえば数世紀前の貴族文化に恋人へ証を立てるために己の髪を贈るというものがあったな、と思い出す。
「古典的だけどいいでしょう? グレイソン、貴方が私を見つけてくれたから、私は今もこうやって息をしている。だからね、私も――」
彼女が何かを告げようとしたその瞬間、「ダイアナ、少し話があるんだけどいいか?」と、声を張り上げたオリバーが間が悪く割入ってきた。
途端に彼女が「ごめん」と素早く体を引っ込めようとしたのを「待ってくれ」と引き留めて、ズボンに突っ込んでいた古い懐中時計を部屋の中に向かって投げつける。
「わっ、ちょっ、これ――」
「ごめん、今それしか手持ちが無いんだ。また首都で会った時に返してくれよ、待ってるから!」
懐中時計を間一髪で掴んだ彼女が何かを言う前に、それだけ叫んで逃げ出した。
後ろから俺に勘づいたらしいオリバーの怒号が聞こえてくる――もしあそこに居座り続けていれば、オリバーはダイアナの髪束を持っている俺に対して激しい罵詈雑言を投げかけただろう。
どこにも入れる場所のない髪の束を走りながら首にかけて絡まないように前で結び、服の中にしまい込む。
一度立ち止まってクリフの家を振り返った時には、ダイアナの部屋の窓は固く閉ざされていた。
「……なんだよ本当に、どうかしてるよあいつ」
早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと両膝に手をつき、思い切り顔を歪めた。
「ここにいる間はきっともう会えない」――その彼女の言葉に動揺した矢先にこれだ。ダイアナがリーベッツの大学を卒業するのは七年後のことになる。
決してひとりにしないという約束も、勉強を教えるという約束も何一つ果たせないまま、彼女は遠くへ去っていくのだ。
せめて、せめて事前に知っていればこんな間抜けな姿を晒さずに済んだのに。
苛立って前髪をかきあげて、でも、万人に平等に訪れる未来を恐れて足踏みばかりしている自分が馬鹿らしく思えた。
何になれるかも分からない、何をしたいのかも分からない。それを言い訳にして揺れる砂時計の山頂が積もりゆくのを眺めているだけで。
幼い頃に夢見ていたような、世界を救えるような特別な人間になれないことはもう分かりきっている。
凡人の域を出ない自分に何が出来るのか――燦然と輝く星に憧れて理想ばかりを語るのではなく、不確かな地面を踏み締めて歩く。
何者かになれなくても、誰も見ていなくても、生まれてきたからには幸福な人生を送りたい。
それでいい、それでいいのだ。目的なんてそんなものでいい。
はは、と声を漏らして、背筋を伸ばした。
首都からひとつしか持ってきていない懐中時計を渡したことを少し後悔して、でも、後で叔母か叔父に頭を下げて代わりのものを貰おう、と体を叔母の家に向ける。
それからヘイゼルとオルティスさんに会いに行こう、今なら考え過ぎることもなく話せる気がする。
「あれ、グレイソン、あんたそんな所で何突っ立てるんだい?」
その時、丁度叔母が子供たちを引き連れて玄関から出てきた。
洗濯物を山積みにした籠を片手に抱え、もう一方の腕でジェフを抱き上げている叔母と俺の距離は離れていて、「グレイソンも手伝えよ」と桶を持たされているレオナルドが恨みがましく俺を睨みつける。
「グレイソンは関係ないだろ、これはあんたたちへの罰なんだからさ。こいつの言うことなんて聞かないでいいからね、あんたは好きなだけほっつき歩いときな!」
「なんだよ、俺じゃなくてエルジオが最初にやってきたのに!」
「だからって手を出し返す方も悪いんだ、いっつもあんたたちは喧嘩ばかりして!」
涙を滲ませたレオナルドと叔母が顔を突き合せてそう言い合っているのが、羨ましい、と思った。
物心ついた時には既に患っていた母と、ああいう風に本心から物を言い合ったことはない。母の気が悪くならないようにいつも気を遣って「良い息子」であるように振舞って、本音を打ち明けられたことなんて一度も無かった。
繊細な母親が何かにつけて眉を下げて悲しむ度に、自分が酷く悪いことをしたような気になって、だから俺は。
これから叔母たちは集会所の近くにある小川に向かうのだろう、そのまま四人が丘を下っていこうとする――そうだ、一応あの森に行くことを伝えておこう。
あそこは時間の流れが現実の世界とは違うから、また以前のように三日間も姿を眩ます羽目になるかもしれない。
「すいません、後で少し出かけてきます! 遅くなっても一日二日くらいなら気にしないでください!」
「は? ちょっと、あんたどこに――」
驚いて振り返った叔母にもう一度「すいません」と声を張り上げて、家の中に駆け込んだ。一直線に階段を上がり、借りている部屋に入る。
まず最初に首に巻いていた髪の束を外し、机の引き出しの中にしまい込んだ。
それから机の上に置いてある夜用の新しいランプとマッチを持ってベッドの上に乱雑に置いていた鞄を肩に掛け、カーテンを閉めてからさっさと部屋を飛び出して階段を駆け下りる。
ついでに台所から余っていたパンを一切れ拝借し、そのまま家の裏手に回って陰鬱な森の中へ足を踏み入れた。
ヘイゼルの領域の場所の大体の検討ならつく。迷いながらナイフで木につけた傷に惑わされることがないように、自分の記憶と勘に頼って道を進んでいけばいい――そうすればあとはどうにかなるはずだ、ヘイゼルも俺を見つけたらきっと彼女の領域に誘導してくれる。
オルティスさんにも会えるだろうか、会えたらいい。
会えなかったらその時はその時でヘイゼルに俺の言葉を預けよう。そもそも二人が今もあそこに留まり続けているとは限らないけれど、それでもいい。
一ヶ月の間、臆病だった俺はあそこに足を向けようとも思わなかった。
オルティスさんの死を決定的に知ることも、あの日記を読んだ上でヘイゼルと顔を合わせることも恐ろしかったから。
だけど、今なら。今ならもう、何も恐ろしくないのだ。




